過猶不及(過ぎたるは猶及ばざるが如し)

 【南風録】東京の高級レストランである。ワインと同じようにグラスに注がれるのは茶だ。全国から選び抜いた茶葉を独自技術で抽出し、さまざまな料理に最も相性の良い組み合わせで提供する。◆鹿児島県産茶を使った商品も評価が高い、と県東京事務所が本紙で紹介していた。安価なイメージのノンアルコール飲料だが、高級茶として逆に人気を集めているというから驚く。◆酒を飲まない人が増え、ノンアル市場が広がっていることが背景にあるだろう。飲酒しない習慣は新型コロナ禍をきっかけに加速したと指摘されるが、感染が拡大する前から兆しはあった。◆厚生労働省によると、飲酒習慣がない人の割合はコロナ以前の比較でも、2009年の約51%から19年は約55%と少し増えた。一方、ノンアル市場はここ10年で2倍に伸びたと言われる。健康志向に加えて、宴席で起こりがちなセクハラやパワハラなどを避けたいという意識の表れとみる専門家もいる。◆スーパーの酒類売り場では、ノンアルのビールだけでなく酎ハイ、ワイン、カクテルまで何でもそろう。「ワインの休日」「のんある気分」などのネーミングもしゃれている。炭酸飲料であっても味はなかなか本格的だ。◆酒類メーカーはノンアル志向を追い風と捉えて商品開発を進めている。焼酎王国としては複雑な思いもあるが、選択肢の広がりを飲料業界の商機にもつなげたい。(南日本新聞・2022/10/19)

● ノンアルコール飲料(のんあるこーるいんりょう =アルコール分をまったく含まない、あるいは1%未満のアルコール風味飲料。日本の酒税法では酒類とされない。/ 2009年(平成21)にアルコール分0.00%のノンアルコールビールをキリンビールが発売して以降、ビール以外にもチューハイカクテルやワイン、梅酒などの風味をもつノンアルコール飲料が続々と登場した。酒類メーカーとして培った技術を用い、実際の酒と比べても、さほど遜色(そんしょく)のない風味やのどごしをつくり出している。/ 当初、飲酒運転に対する規制が強化されたため、アルコールの代替飲料としての利用が予測されたが、そればかりでなくアルコールの苦手な人が宴席で飲んだり、また妊娠中、あるいは病気療養中などの理由で飲酒を控えなければならない人の断酒ストレスの解消にも利用されたりしている。さらにジュースや炭酸飲料に比べ糖分が少ないことから、ダイエット目的の飲料として、また清涼飲料水としても浸透した。一方、メーカー側にとっても酒税が課されず、確実に利益が見込める商品ジャンルとして、積極的に開発・販売を進めたという側面がある。/ だが、酒類に分類されないため規制の対象とならず、また微量であってもアルコール分を含んだ商品もあることから、20歳未満の者に飲ませてもよいのか、職場で飲んでもよいのかなど、さまざまな疑問が呈されている。さらに20歳未満の者や飲酒すべきでない人にとって本物のアルコールを摂取することへの誘因となりはしないかという懸念も示されている。(ニッポニカ)

 自慢話をするのではありません。二十歳ころから半世紀、ずいぶんと乱暴な飲み方をしてきました。若い頃は、家でも外でも何でも飲むという出鱈目をしていた。美味しいとか、風味が染み込むというような上品さとは無縁な飲酒生活で、無反省のままに半世紀も続けていたのですから、話にならないと、われながら恥ずかしくなります。幸か不幸か、飲酒癖によって健康を大きく損なうということはなかったようですが、いつでも胃潰瘍には悩まされました。ストレスが蓄積していた上に、それを解放するはずの飲酒が、胃壁を大きく傷つけてきたのでした。胃をすべて取り除く寸前に、画期的な胃薬が開発・販売されたので、ぼくは間一髪で危機を逃れた。と思ったのも束の間、時には「くも膜下出血」や「心臓肥大」というものに取り憑かれ、加えて、年に数回は大吐血を繰り返していたのです。

 ストレスと飲酒の「合併症」のような状態で、自分は正気のつもりで、教師まがい稼業を続けていた。定年前に辞職し、直ちに山間部(というほど奥地でもありませんが)に、一人で転居・移住しました。かみさんは「文化の香りがない」と同居を拒んだからでした。数年後にかみさんも、大きな手術をした後で、遅れて越してきました。この地の生活も九年目に入ります。移住して一番変わったのは、それまで所構わずに嗜む(他者には迷惑)ことを一度も断たなかった「飲酒・喫煙」習慣を、ある日を境にきっぱりと止めたことでした。酒や煙草を口にしたことが間違いだったのはいうまでもありません。多くの人もそうでしょうが、「大人のマネ」「無理な背伸び」をしているうちに、ダラダラと継続してきたというのでしょう。

 この駄文集録にも数回触れた、只今入院中の長野県飯田在の後輩、彼女からは、入院当初は、一週間に一回くらいは電話があったのですが、このところ一ヶ月以上も連絡はありません。少しは気にはしているのですが、ぼくからは連絡を取らない。これはぼくの癖です。どうしてもという時以外、当方から電話などはしない。入院からほぼ三ヶ月、飲酒と喫煙の治療のための入院でしたから、その禁断症状が強く出ているのかもしれないと想像しています。入院一ヶ月後ほどで、彼女は喫煙したと、ぼくに話した。喫煙習慣の治療のために入院したんでしょうと、ぼくは窘(たしな)めた。そういうことはあるだろう、これからも二度三度と、禁煙や禁酒のために入退院を繰り返すんでしょうね、と。リピーターですね。それもいいですがね、と言った。それが彼女に影響を与えたとは思いませんが、御本人は軽く考えていたけれど、じつは重度の習慣病だったことに気がついているのかもしれません。「煙草の一本くらい」とか「ほんの少量の酎ハイなんか」と思ってしまう、それが呼び水になって、元の木阿弥になることは請け合いです。

 酒でも煙草でも、禁止すれば、全てが健康であると言えるかどうか、よくわからないところがあります。酒も煙草もまったくやらない人が他の原因で亡くなることはあるし、反対のケースもたくさんあるでしょう。飲んだから(吸ったから)短命だ、重篤の病になるということは断定はできません。このような時に使われる数字はあくまでも格率です。宝くじの当たる確率は天文学的レベルでしょう。しかし他の多くの場合も似たりよったりで、個人にすれば、飲酒や喫煙が原因で病気になる確率は50%(半々)です。少しでもよくない方の確率があるなら、それを習慣化しない方がいい、と元重度の依存症者は考えています。ぼくは酒も煙草も止めるのに(再開することはなさそうです、今のところ)、まったく苦労しなかった。あっという間に五年経ち十年が過ぎたという感じです。だから誰だってそうであるし、そうできるとは思わない。したがって、他人にも、そうできるなどと言わない。人それぞれの事情(心身の)があるのです。要は「習慣」にしていいものと悪いものがあるということですけれども、だれもがそれを自覚しているとは限らない。

 しかし、変われば変わるのが「時代相」であり「社会相」です。飲酒する者や喫煙する者が零(ゼロ)になることはありえないでしょう。しかし確実に減少していることも事実です。問題は、その減少の事例に自分が入るかどうか、そういうことです。禁酒や禁煙に対する社会の寛容度が厳しくなってきたことも見逃せないでしょう。ノンアルコールやノンニコチンがさらに増加するのかどうか、予想も予見もしません。ただ言えるのは、酒もタバコも、それがなくても生活はできるし、金の浪費と健康に有害だと思えば、止めるのがいい、それだけです。コーヒーも紅茶も、あるいは日本茶だって、過度の摂取は誉められたものではないでしょう。何ごとにおいても、「過ぎたるは及ばざるが如し」です。(「子貢問。師與商也孰賢。子曰。師也過。商也不及。曰。然則師愈與。子曰。過猶不及」)

● 過ぎたるはなお及ばざるがごとし=度が過ぎたものは、足りないものと同様によくない。ものごとには程よさが大切である、ということ。[使用例] 過ぎたるはなほ及ばざるが如しとは、即ち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。たとえば食物のは身体を養うに在りといえども、これを過食すればかえっその栄養を害するが如し[福沢諭吉学問のすすめ|1872~76][使用例] 無双な腕力を持っていても、これを生かすべき戦乱はなく、ために栄達の折もなく、むしろ過ぎたるは及ばざるにかずのごとき無事泰平を示現しつつありましたので[佐々木味津三*旗本退屈男|1929][由来] 「論語―先進」に出て来る、孔子の名言。弟子のこうが、先輩弟子のちょうとのどちらがすぐれているか、孔子に尋ねたことがありました。孔子の答えは、「子張は行きすぎるところがあり、子夏は足りないところがある」。「では、子張の方がすぐれているのですか」と、子貢が重ねて質問すると、孔子は、「過ぎたるはなほ及ばざるがごとし(行きすぎは、足りないのと同じようなものだ)」と答えたということです。[解説] ❶子貢は才知にあふれた人物で、外交官として活躍する一方、投機をして巨万をも築きました。そんな彼が「行きすぎ」の方がすぐれていると思ったのは、自分に近いからでしょうか。孔子のことばは、子貢自身に対する戒めだったのかもしれません。❷「論語」の章句としては、「中庸(ほどよいこと)」のすすめとして解釈されていますが、故事成語としては、「行きすぎ」を戒める意味で用いられるのがふつうです。(故事成語を知る辞典)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)