「生きて、また会いましょう」

 明窓・命を守るひきこもりとラジオ 何げなくつけたカーラジオに思わず聞き入った。NHKラジオ第1の「みんなでひきこもりラジオ」。2年前に始まり、今年5月から毎月第1金曜日にレギュラー放送している、ひきこもり当事者の声でつくる番組だ▼「歯医者に行きたいが人が怖い」「自分が妖怪になっていくようだ」「この番組を聴いて逆に孤独を感じる」…。寄せられる声は10~60代まで地域もさまざま。内閣府の調査では、ひきこもりの人は全国に推計115万人。長期化、高齢化が進み、80代の親と50代の子が孤立する「8050問題」も深刻になっている▼つらい声が多いが、重い雰囲気の番組ではない。進行役の男性アナウンサーは「そんなことないですよ」などの優しい否定も、「頑張りましょう」という励ましもしない。ただ「声を寄せてくれて、ありがとうございます」「また送ってくださいね」。あっという間の50分だ▼聞き入ったのは、どこかで頑張り過ぎたり無理したりする自分がおり、共感できる部分があるからだろう。自らを偽って生活するのではなく、引きこもることで自分を守れるのであれば、その行動を否定するべきではないと思う▼ただ、救いを求める手を握る術(すべ)は、社会にあってほしい。番組は決まり文句で終わる。「生きて、また会いましょう」-。孤立しない社会へ、当事者の声がヒントになるならば、ラジオを通してまた会いに行こう。(衣)(山陰中央新報・2022/10/18 04:00)(上写真はラジオ番組のMC栗原望さん)

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*NHK・#こもりびと:https://www3.nhk.or.jp/news/special/hikikomori/

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 世に「晴耕雨読」などと言われてきました。「晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家にこもって読書をすること。悠々自適の生活を送ることをいう」(デジタル大辞泉)(いくつかの辞書のようなものを垣間見たのですが、揃って、まったく同じ「表現(文章)」で解説していたのには驚きました。どういうことかな。おおよその説明が似るのは、辞書だから当たり前だとしても、表現(言葉使い)もいっしょというのは、腑に落ちないね。加えて、そんな生活を「悠々自適」というのも少し同調し難いですね)ぼくが勤め人を「定年」より少し早めに辞した際、さらには山の中に転居することを知った何人かの友人たちは、口々に「悠々自適」ですね、と一種の「揶揄」「嘲笑」を込めた物言いをした。雨が降れば、外の作業はできないのは誰にも同じ。晴れた時にはたらき、雨が降れば、趣味に走るというくらいのことかもしれませんが、ぼくが違和感を持ったのは、当節「悠々自適」生活を送れる(「泰然自若」とした)人間がどれほどいるか、その中のひとりに、ぼくが入れられるなんて、という反発みたいなものもあったけれど、正直にいえば、都会を離れて山間僻地に転居する、その心は「悠々自適なんかではなく」「ひきこもりだよ」「なに、こもりびとさ」、もっと言えば、「隠退(退隠)です」と考えていたからです。

 半世紀近く、人間集団のごったがえし(軋轢・あつれき)の中で「揉みに揉まれて」暮らしていたのですから、場所はどこであれ、ぼくには「命の洗濯」が必要だった。だから、僻地(不便な場所)に越した段階から、従前の交流はほとんど(ほぼ全部)絶ちました。半世紀の都会暮らしと言うより、「人間の塊(かたまり)」の中に生きざるを得なかったという堅苦しさは、時には「ストレス過多」となり、時には極度の「胃潰瘍」に傷つき、また時には「不登校」に陥りかけるという状態においてはっきりと現れていました。飯の種である「務め」を拒否して「不登校」「登校拒否」になることも、若いときはあったし、必要最低限度しか義務を果たそうとはしないことで、なんとか生き延びてきた。なによりも、かみさんと子ども二人、猫たくさんの「一家」の、弱々しいながらの働き手でしたから。

 ぼくの場合は、この山間生活の十年は「晴耕雨読」ならぬ、「晴草雨猫」晴れたら草取り、雨降りは猫の遊び相手でした。猫は雨が降ると家にいなければ仕方がないので、特にストレスが溜まる。まるで人間並みです。その猫たちに遊び相手をしてもらって、ぼくもストレスを解消しているつもりですが、猫もぼくも、かえってストレスが溜まっているのかもしれません。だから晴れると野良仕事なんでしょう。猫も同様に、「野良」ですね。「悠々自適」というのは、誰に対していうことなのか。どんなに「悠々」としていると見えたとしても、心中は「戦々恐々」「青息吐息」かもしれないからです。生きているというのは、一刻もゆったりのんびりできそうにない、切羽詰まった「時間」に追われることをいうのでしょう。一見して「悠々」だが、本人は「必死」ということかもしれないと、われに引き付けて、そう思うのです。

 日中はテレビもラジオも遠ざけています。テレビはまったく観ない。もう何年になるでしょうか。観たくなるものがないというより、テレビは、娯楽でも、程度の低い(と、ぼくには思われる)番組専用の「玉手箱」です。うらしまたろう(浦島太郎)ではないが、「開けてびっくり、白煙」ですね、ぼくには。放っておいても年寄りになるのに、わざわざ「玉手箱」を開けることもあるまい。これに反して、どこかでも触れましたが、ラジオは、たった一つの番組ですが、なんと放送開始から間断なく聴取している。かれこれ三十数年に及びます。「ラジオ深夜便」です。最近は、なかなかうるさいアンカーさんも出演されており、以前ほどゆっくり眠りながら、聞きながらができないのが難点ですね。だからイヤフォンを耳にして、すっかり寝てしまうことが多い。夜中十一時過ぎから翌朝五時までが放送時間帯です。

 この番組を聴いていて、ほとほと感心するのは、聴取者の反応です。この時代ですから、驚くこともないのですが、メールやFAXで即反応し、アンカーがそれに答えるという、新たな番組のスタイルが定着していると痛感します。一人の聴取者がメールなどで発信すると、即座に他の聴取者が反応する、なんと眠らない人間の多い社会・時代か、それに加えて、誰かの声や語り、あるいは悩みや困りごとを聴いて、それに対して、まるで我が事のように反応しているのです、人間の繋がりの必要性というものをぼくは強く知らされている。さらにいうと、「孤独」という言葉は適切ではありませんが、多くの人は「一人であること」の不安や寂しさ(淋しさ)を抱えて生きているということです。「自分一人だけではない、寂しいのは」という同じ辛さを耐えている「仲間」がいるという確認をするための「ラジを聴取」ではないでしょうか。

 「みんなでひきこもりラジオ」、コラム氏に教えられました。日中はまったくラジオに近づきませんから、こんな番組が始まっていたとは知らなかった。このMCの方は、テレビでお顔を見たことがあります。ずいぶん昔になりますが。ラジオが好きなのは、「こんな声をしているのだから、きっとこんな方でしょう」と勝手な想像をたくましくすることができる楽しみがあるからです。何かの拍子に「写真」などを観てしまうと、その顔つきと声が、奇妙にぼくを刺激してしまいます。いい場合もよくない場合もあります。だからなるべくは、写真を観ないことにしている。観てしまったら、忘れることにしている。

 それはともかく、「ひきこもり」です。この言葉がいつ頃、どのように使われだしたのか。ぼくには定かではありません。元来、この「籠もる」「隠る」には多種多様な説明がされてきましたから、「ひきこもり」も一元的に理解され難いのではないかと感じています。通説や定説を、ぼくはあまり受け入れない人間です。使われるレッテルは同じでも、その内容はさまざまですからね。千差万別です。「籠もる」という語は、語感が重層的に捉えられそうな言葉です。その変化型の「ひきこもり」も、負の印象ばかりが強められています。でも、もっと深い、豊かな感触も、ぼくには感じられる。

こも・る【籠もる/隠る】1㋐中に入ったまま外に出ないでいる。引きこもる。「山に―・る」「書斎に―・って執筆する」㋑外とのつながりを断って、中に深く入り込む。閉じこもる。「自分の殻に―・る」「陰 (いん) に―・る」 祈念するために社寺に泊まり込む。おこもりをする。「寺に―・る」 城などに入って敵から防ぎ守る。立てこもる。「城に―・る」 音や声が中に閉じこめられた状態で、外にはっきり伝わらない。くぐもる。「声が―・ってよく聞こえない」 気体などが外に出ないで、いっぱいに満ちる。充満する。「臭いが―・る」「会場に人の熱気が―・る」 力やある感情などが、そこにいっぱいに含まれる。「力の―・った演技」「熱の―・った言葉」「心の―・った贈り物」「怒りの―・った声」 包まれる。囲まれる。「畳 (たた) なづく青垣山―・れる大和しうるはし」〈・中・歌謡〉 入って隠れる。「二上 (ふたかみ) の山に―・れるほととぎす今も鳴かぬか君に聞かせむ」〈・四〇六七〉(デジタル大辞泉)

● ひき‐こもり【引(き)籠もり】 の解説 長期間にわたり自宅や自室に閉じこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと。また、その状態にある人。[補説]周囲との摩擦によるストレス精神疾患によるもののほか、原因を特定できない場合もある。厚生労働省では、「さまざまな要因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就労、家庭外での交遊など)を回避し、原則的には6か月以上にわたっておおむね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)」と定義する。(デジタル大辞泉)

 「社会的な活動に参加しない状態」「社会的参加を回避」などとあります。これは正確ではない、人間の生存の方法としては狭すぎると、ぼくは考えています。端的に言えば、「ひきこもり」もまた、一つの「社会参加」の方法ですよ。「社会(集団)」への参加は「登校」や「出社」だけではないはず。それを、まもるべき「規範」「規則」として、そこからの逸脱を認めない社会(集団)の側にも問題があるのではないですか。従来、ぼくはそんなことを言ったり書いたりしてきましたし、今もその考えは変わらない。「登校」「出社」できない人は数え切れないほどいます。病気その他の理由で、出歩くことができない人は「ひきこもり」として、ある種の「偏見」「差別」の対象になるでしょうか。ぼくは「ひきこもり」の経験はありませんが、それに近い状態はいくらであった。それをしなかったのは、ぼくが「社会通念」に強いられていたからだったかもしれない。しかし「危険水域」に接近していたことは何度もありました。

 「ひきこもり」状態にある若い人、実に多くの学生と付き合ってきました。その際、ただの一度だって、「学校に来なければ駄目」だと言ったこともないし、「会社に行かないのは、よくないよ」と説教したこともなかったと思う。なぜなら、そうする(引ひきこもる)ことが、その人の「必然」だったからでしょうね。いろいろな理由があり、中にはそれはどうも、と思わないこと(理由)もあったかもしれないが、社会規範なるもので以て、煽ったり、唆したりしないことが何よりで、「おこもり」結構という姿勢だった。そんな無責任なことを言って、と非難・叱責されることは承知でした。でも、それが「今の姿」なら、それに従うことが肝心だったと思ったのです。「むりに学校に連れて行く」など、ぼくには考えも及ばなかった。ぼく自身が「学校はヤダ」という人間でしたから。「ひきこもり」はしなかったが、学校では「いない存在」を心がけていた。学校の「窓の外」に関心を集中させていましたよ。(このことについては、これまでもいろいろと綴ってきました)

 「生き方」はたったひとつじゃないし、「ひきこもり」もまた、「ひとつの生き方」なんだ。大事なのは、どのような方法であれ、「つながっている」という感覚を本人が失わないこと、失わせないことを「誰か」が維持していることではないですか。それが「ラジオ」であったっていいじゃないですか。この時代、見知らぬ誰かと見知らぬ誰かが「出会う」機会はじつに多いし、それが危険性を伴う機会にもなっていることは、(手を尽くして)注意したいものだと考えています。ラジオからの声が、どんな届き方をするか、誰にもわからないから、こころして「ラジオ」を捉えたいですね。マイクのこちら側も、向こう側も、何百万が聴いていたとしても、必ず「わたしとあなた」が出会っているんですから、ね。

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 江戸川区内「ひきこもり」約8000人 半数超が相談せず 区長「ショックな数字」(東京新聞・2022年6月9日)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/182488

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