「貯蓄の日」って、悪い冗談を超えてるね

 【斜面】貯蓄の日 節約し、こつこつとお金をためる。先行きは厳しい。少しでも備えを、と心がけている人も多いだろう。きょう10月17日は「貯蓄の日」。この日を中心に、全国的な啓発活動が展開されていた時代があった。制定は1952年のことだ◆新穀の収穫に感謝する神嘗祭(かんなめさい)にちなみ、貯蓄増強中央委員会が定めた。日銀に事務局を置く金融広報中央委員会の前身である。政府と日銀は戦後、復興の資金を確保しようと国民に貯蓄を奨励。金融機関が重工業などに融資し、経済成長の源泉になった◆貯蓄の日の関連報道を本紙で振り返ると、出てくるのは90年代まで。2000年代以降は見かけない。デフレが始まったころからだ。価格を下げても商品が売れず、企業業績が伸びず、賃金も上昇しない。そんな悪循環から抜けださねばと、やがて「デフレ脱却」が叫ばれ始める◆消費や投資を促そうと、日銀が進めたのが大規模金融緩和だ。金利を低く抑え、お金の供給を増やす。こうなるともう、貯蓄ではなく消費の奨励だ。しかし描いた好循環は一向に見えない。到来したのは、賃金は伸びず物価だけが上がる今の状態だった◆日銀はまだ金融緩和を続けるつもりだ。海外との金利差で円安が止まらなければ、輸入する食品や燃料の価格上昇は続く。かたくなな政策当局の一方で、国民の暮らしはどんどん追い詰められていく。無理なく貯蓄でき、それが経済全体に生きる。そんな循環に戻れる日は来るのだろうか。(信濃毎日新聞・2022/10/17)

 昨日も言いましたが、この島社会では「毎日が記念日」です。本日は「貯蓄の日」だそうです。そんな「日」があったとはつゆ知らず、知っていれば貯蓄に励んだものを、というのは真っ赤な嘘。ぼくは、他人になにかを頼んだり、預けたりすることがこの上なく嫌いな人間です。ましてや、「お足」を貯めるという悪趣味は持ち合わせていません。「金は天下の回りもの」と昔から言われていますように、ぐるぐる回って(ぼくの前を素通りし)、いつまで経っても、金に縁のない生活に明け暮れ、ぼくは「貧乏」の池にはまり込んでいるのです。まして当節、銀行に預金することは犯罪のようなもので、いったい、利息はいくらだと思われますか。気が遠くなりそうな、あるいは天文学的とはいわずとも、地質学的な低さで、まるであってなきがごとし。金利が5%7%という時代は、奈良時代か鎌倉時代にあったのではないかと錯覚してしまうほどに、この国の金融・財政政策は、無策を通り越して、殺人鬼的「悪辣さ」です。これ(「金融の異次元緩和」)もまた、今は「黄泉の下」の客人となった(もう、到着している頃合)、元総理の一人芝居の見せ場でした。お金の値打ちを、自らの存在の担保としたがために、自身の価値が下がると同時に、利率も金利も虫眼鏡でさえ見えないくらいのミクロンの世界に入ってしまったのです。

 一千万円を一年定期に預けたら、利息は「2万円」だそうです。普通預金だとなんと利息は、「百円」ですと。「利子」さんが成人になるまでに、預けた当人がお釈迦になります。この「出鱈目(アベノミックス)」の絡繰(からくり)の顛末を知れば、史上空前の金融詐欺にかかったようなものでしょう。正気ですかと、日銀、いや、亡き総理に聞きたいが「当然正気だ」と彼なら答えたでしょうね。狂気を正気と言いはるでしょうね。こんなミクロン金利、あるいはオミクロン金利をそのままに放置して、「貯蓄の日」というのはどういうことやねん。日銀は「政府の子会社」と言い捨てたのは誰だったか。そのように「金融政策(日銀)の独立」を土足で踏みにじられても「総裁」の椅子にしがみつきたいと、寝言を言っているのが帝大出の元大蔵官僚だった人。椅子がほしいなら、ニトリかどこかで買えばいい。そこに座るということは「金融の番人」と認定されていたからではなかったか、といっても「蛙の面に✖✖✖✖✖」、そして庶民は「泣きっ面に蜂」どころではない。号泣面に蒙古来襲ですな。打つ手もなければ、立つ瀬もない。踏んだり蹴ったり、踏まれたり蹴られたり。

*貯蓄の日=日本銀行貯蓄増強中央委員会(現金融広報中央委員会)が、神嘗祭(かんなめさい)の習俗に基づき、「お金(勤労の収穫)」を大切にする日として、発足と同時に制定(1952年)し、翌年から実施。

● 神嘗祭(かんなめさい)=「しんじょうさい」「かんにえのまつり」ともいう。毎年10月15~17日に行われる、伊勢(いせ)神宮の年中行事きっての大祭。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天上の高天原(たかまがはら)において、新嘗を食したとの神話に由来し、その年に収穫した新穀を由貴(ゆき)(清浄な、穢(けがれ)のないという意)の大御饌(おおみけ)として、大御神に奉る祭りである。鎮座以来の由緒をもち、八握穂(やつかほ)にまつわる真名鶴(まなづる)伝説、五十鈴(いすず)川のほとり家田(やた)の御常供田(みじょうくでん)などの伝承に彩られている。『大宝令(たいほうりょう)』には国家の常典としてみえ、『延喜式(えんぎしき)』にも践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に次ぐ中祀(ちゅうし)と定められた国家的な重儀である。祭儀の次第は、豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう))では10月15日宵と16日暁に由貴大御饌が供進され、16日正午に勅使が参向して幣帛(へいはく)を奉納し、その夕には御神楽(みかぐら)が奏せられる。皇大(こうたい)神宮(内宮(ないくう))では1日遅れて、それぞれの儀が執り行われる。幣帛奉納の儀は元正(げんしょう)天皇(在位715~724)代にさかのぼり、後土御門(ごつちみかど)天皇(在位1464~1500)のときに中絶したが、後光明(ごこうみょう)天皇(在位1643~54)によって再興された。また孝明(こうめい)天皇の1864年(元治1)には、荷前調絹(のざきのみつぎのきぬ)や幣馬が奉納される運びとなった。この新嘗祭の当日、皇室においては天皇の神宮御遙拝(ごようはい)があり、賢所(かしこどころ)で親祭が行われる。第二次世界大戦前には国の大祭日とされていた。(ニッポニカ)

 ここで提案をしたい。「貯蓄の日」という縁起でもない記念日を即刻抹消し、さらには、債務超過状態に陥っている、現行「日本銀行」を倒産させ、新たな「第二中央銀行」を直ちに設立すべきだ、と。現総裁は「金融の番人」失格だったから、退職金はすべて支給停止(しても、どうなるものではないが)。あるいは理事たちも右同様、「金融無政策」の廉(かど)で、即刻退任し、退職金支給停止の措置をとるべし。こんなことをしても、一ミクロンたりとも金融破綻状態を、いい方向に動かすことはできません。利上げはできず、国債は売れず、円安はさらに継続する。物価は騰(あ)がる。実質給与は絶えず減額。誰が見ても、この国の経営は破綻しています。「詰んでいる」ことに変わりはない。「失政」の責は、必ず国民に科されるのです。スタグフレーションの到来と共に、国家は万事休す、でしょう。

 とんでもない「記念日」を設けたものですね。今の時代に「新嘗祭」もないでしょうに。この実りの秋に、各地の神社では「伊勢神宮」に右へ倣え、で「厳(おごそか)か」を偽って、「新嘗祭」が執行される日々が続きます。新穀は「ヤンマー」や「井関」のコンバインがやってくれても、捧げる相手は「アマテラス」なんですね。ヤンマーとアマテラス、あるいはアマテラスとイセキ、いいコンビだと思いますか。

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● 日本銀行(にほんぎんこう)Bank of Japan=日本の中央銀行。正式呼称は「にっぽんぎんこう」。日本銀行法に基づく認可法人で,発券銀行,銀行の銀行,政府の銀行としての機能をもち,金融政策を運営する。日本銀行条例に基づき 1882年10月に主として商業金融の中心としての機能を営む株式会社類似の特殊銀行として設立された。1942年に日本銀行条例に代わって日本銀行法が制定され国家的色彩の濃い特殊法人となり,産業金融の調整も行なうことができるようになった。第2次世界大戦後,戦時的性格の強かった日本銀行法を修正し,政府とは独立した機能を与えるため,1949年6月に日本銀行の最高意思決定機関として政策委員会(→日本銀行政策委員会)が設置された。1997年に日本銀行法が全面改正され,物価の安定と金融システムの安定という二つの目的が明確にされるとともに,政策委員会の金融政策における権限が強化された。また,総裁(1人),副総裁(2人)以下政策委員会委員の任命には国会の同意が必要となり,主務大臣の命令権が廃止されて,日本銀行の独立性が強化された。(ブリタニカ国際大百科事典)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)