おいっ藤田 伝える先に誰がいる

 【正平調】きょうから秋の新聞週間が始まる。手前みそかもしれないが、本紙のOB、吉見顕太郎さん(70)の短歌を紹介したい。大正時代に創刊し、全国に会員がいる短歌結社「水甕(みずがめ)」の新人賞を今年、受けた◆〈おいっ藤田 伝える先に誰がいる 聞こえているか読者の声が〉。吉見さんによると「藤田」とは自分のことらしいが、不肖の後輩からすれば、新聞づくりに関わるすべての人への叱咤(しった)に聞こえる◆高校を卒業して入社した吉見さんは新聞へのこだわりが誰よりも強い整理マンだった。紙面に見出しを付ける仕事である。〈ベタ記事がひそかに育ち一面を飾ってしまう人生と似る〉◆阪神・淡路大震災のときは紙面編集から離れ、後方支援に回った。今こそ自分の本領を発揮したいのに…。その悔しさが今も心の底にあるという。〈新聞を瓦礫(がれき)の街に届けたい 憑(つ)かれたように走って泣いた〉◆デジタル化が進み、メディアが多様化する中で、新聞業界はかつてない苦境にある。ご存じの通り購読者数も下り坂だ。だが、いかに時代が変わろうとも新聞が向き合う相手は変わらない◆〈人を書け人に迫れと人のいう人の砂漠で生き抜く人を〉。新聞はいま人を、人の喜怒哀楽を書けているか。自戒を込めて「おいっ藤田」と呼びかける。(神戸新聞・2022/10/15)

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 この島の歴史は相当に長いものですから、今となれば、一年中のどの日も、必ずなにかの「記念日」になっているでしょう。昨日は「鉄道の日」でしたし、今日からは「新聞週間」が始まりました。なんの日であろうと、ぼくにはあまり関係がないのだし、それゆえに興味も持っていないというのが正直な感想です。自分の誕生日だって、放っておいても来るものは来る、とじつに無関心を装っているのが常態です。先程、食器を洗いながら、ふと気がついたのですが、本日はかみさんの「誕生日」でした。本人は知っているのかどうか、わかりません。この年になって、誕生日が嬉しいはずはありません。おそらく小さな子どもだって、「誕生日」を祝うとか、「おめでとう」という日だなどと余計なことを教えなければ、他の日とは異なるとは思わないでしょう。しかし、親からしてみれば、授かった子どもが一年一年成長するのを目にし、肝に銘じて「健康な成長」を願うための一つのきっかけになっているのだろうと思うし、それでこそ、「誕生日、おめでとう」という気になるのでしょう。これは若い人、幼い子どもたちに限る、「誕生日」に抱く、ぼくの感想ではあります。

(*追加です。とかなんとかいいながら、買い物ついでに家電量販店に行き「テレビ」を買いました。ぼくはまったく観ない人間ですが、かみさんは、逆に「テレビっ子」ならぬ「テレビ婆」です。そのかみさんの部屋のテレビがかなり古くなっていたのが、先日から、映らなくなりました。彼女の「誕生日」を忘れていなかったアリバイとして衝動買いをしてしまいました。「プレゼント」だなどとは言わないつもり)

 さて、「新聞週間」です。昨年もこのことに触れたと思う。ぼくにはどうでもいいことですから、取り立てて話すこともありません。しかし「鉄道の日」と同じように、新聞のあり方とか現状を考える時間を持つことは悪くないし、それがなければ「新聞週間」は余計なものになるでしょう。新聞の宅配購読を止めてから、何十年になるでしょうか。ある時期までは、それなりにいくつかの新聞を取っていました。新聞を読む、それは顔を洗い、朝ごはんを食べる、そのような「日常茶飯」の一つだったように思われます。しかし何をきっかけにしたのか、何がきっかけになったのか、すっかり忘れてしまいましたが、きっぱりと「新聞購読」を止めました。止めて困ったことは一つもない、逆に購読料を払わないという意味では「冗費」の節約にはなりました。新聞がなくても一向に不便や痛痒を感じないというのは、それだけ新聞がぼくの身になっていなかったという証拠でしょう、自慢にはなりませんが。新聞社に就職する卒業生が何人もいました。今もまだ現役を続けているのでしょう。だから、ぼくは新聞を読まなくなったからと言って、新聞そのものを否定はしないのです、新聞社を憎む理由にはならないからです。ごくごく当然のことですが。

 その代替として「ネットニュース(ニュースサイト)」を毎日覗いています。種種雑多な記事が毎日毎時間、まるで百花繚乱、いや「徒花」とでもいうべきか、咲きに咲き乱れているという混沌状態です。「風をだに待つ程もなき徒花は枝にかかれる春の淡雪」(「夫木(ふぼく)和歌抄」)雑多な報道・情報群の中から、いかにしてニュースの内容を選び取り、それに関して誤りがないように読み取るか、それだけでも「一種の知能検査」のようで、決して脳細胞には悪くないと、ぼくは考えている。取捨選択といい、二者択一というように、これが「本当らしい」という地点にまで至るには、決して単純な道のりではないことを、日々痛感しながらの「ネットサーフィン」です。

 特定の新聞なら何から何まで「賛成」「無条件でグー」という人がいるのも事実だし、それは人の好き好きですから、ぼくがとやかく言うことはありません。ぼくは、物事の「理非曲直」を明らかにしたいし、新聞にもそれを期待しているのでしょうね。新聞がつまらなくなった第一の理由は、新聞記者が「歩いて記事を書く(取材)」ことがなくなった、少なくなったからでしょう。ある特定の情報源が垂れ流す情報を「鵜呑みにする」「ただ、広報する」、それが新聞の記事になるなら、各紙各社が存在する必要はないでしょう。どの新聞でも、主だったニュースは寸分違わない内容になっているということがあまりにも多く見られるのではないでしょうか。ある事件や出来事を自分(記者)はどう捉えようとしたか、底に筆が及べば、必ず見解や見方の違いが記事の内容に出てくるはずです。これはすでにテレビでしばしば見られること、番組内容が、誰か、何かによって「規制」「統制」されていると思しき場面が見られたのですが、最近はよく知りません。改善などありえないことと言いたいですがね。

 読みたくなくなった、もっと大きな理由は会社の経営陣の堕落でした。購読部数競争の行き過ぎが弊害をもたらしたのでしょう。一社が一千万部の部数を誇るというのはどういうことでしょうか。一国に一新聞(一テレビ放送)というのは、近隣諸国に見られる現象です。あれを目指しているんですか、各社は。沢山の人に読まれる新聞といえば、聞こえはよろしいが、誰にも読まれる新聞と言い換えれば、どうですか。「八方美人」です。新聞が八方美人であってどうするんですか。「《どこから見ても難点のない美人の意から》だれに対しても如才なく振る舞うこと。また、その人。非難の気持ちを込めて用いることが多い」(デジタル大辞泉)

 誰が見ても「美しい人」がいるのではなく、「自分はそうなりたい」という願望(それは絶望的願望です)、それは叶わない夢想です。誰からも好かれるということは、誰も好かないに等しいともいえます。誰もが読む・読まれる新聞、それはまた、誰も真面目に読まない新聞のことでしょう。この部数競争を、新聞社が始めたことが購読断絶の大きな理由でした。一番になってどうするんですか。一番になりたいというのは、記事の水準(質)の問題ではないでしょうから。その他、まだまだありますが、それはそれ。これは誰もが病む、「一番病」です、回復は困難ですね。

 次に新聞が、時の政権にに躙(にじ)り寄ることを恥としなくなったことです。今日、その傾向は「醜悪の域」に達している、いや、すでにそれを超えているでしょう。つまりは「新聞(批判力、批判精神:クリティカル・スピリット)の死」です。みずから「死ぬ」ことを求めている新聞に、ぼくはなにを期待できるのでしょう。それは「新聞」ではなく、「朝夕雑誌」にすぎないものです。じつに多くの人が逃げ出しているように、新聞社を辞める人が後を絶ちません。そのことは、また、結果的にネット社会が、報道の広がりと深さを獲得する理由にもなっているでしょう。

 新聞各社は経営に腐心していると聞きます。当然ですね。読む値打ちのある記事がないんですから、読者離れが生じるのは当たり前。加えて、自分たちだけが消費税増税に際して「軽減税率適応」を求めて、政府の軍門に降ったこと、これは致命的なミスでした。「定期購読契約に基づく新聞の購入は、軽減税率の対象」「新聞とは『一定の題号を用い、政治、経済、社会、文化等に関する一般社会的事実を掲載する週2回以上発行されるもの』を指します」(「バックオフィス進化論」:https://backoffice.asahi.com/category/know-how/210924_reduced-tax-rate/)新聞は特別商品(文化的購買物)であり、生活に不可欠だから、「食料品」並に特別扱い(税率8%)をしてほしいということだったでしょう。

 食料品並みに、「新聞は税率が8%」のままで推移しています。他の商品は10%です。まるで、「抜け駆けの功名」だったと思われます。政治や政治家批判をしながら、国有地の払い下げや、税制の「優遇措置」を獲得するという手法は、ぼくには潔くないと見えますね。ここまで来て、新聞の「宅配」制度は限界に達したということでしょう。それと並行して「ネット」環境が整えば、新聞は否応なしに「旧い媒体」となる他ありません。すでになっています。起死回生の目はあるのか。ぼくはたまに英米の新聞をネットで見ます(読みます)。ネットへの移行がうまく進んだなあと感心させられる新聞がいくつかありますね。この島の新聞宅配制度は、新しい環境への適応を著しく送らせてしまっていると言えるでしょう。

 しかし、宅配であれ、ネットであれ、読みたくなる記事には差があるとは思われません。「書きたいこと」を書くのも大事でしょうが、それ以上に「書かねばならぬこと」をいかにして書くか、それが、いつでも問われているにも関わらず、多くの新聞は、その「問い」に一向に答えようとはしてこなかった。遂には、権力の情報紙、広報紙、さらには「官報」に成り下がっています。国の行く末に、多くの不安や不穏な過失(失敗)をもたらそうとする政治状況がずっと継続しているのです。言うべきこと、言わねばならぬこと、それが言えないなら、新聞は「娯楽紙」に等しくなります。それはそれでいいけれども、新聞本来の使命は失せている。テレビが断末魔の苦境を迎えているのは、まるで新聞の「明日」、いや「今夕」の姿だと、ぼくには写ります。娯楽結構、お笑い結構、権力の提灯持ち結構、そういう新聞を歓迎する向きはきっとあるでしょう。今ある多くの新聞に、ぼくはなにも期待しない。それがネットに移行しきったとしても、です。

 コンビニやスーパーが売上高の業界一番を競う、それと同じようなことを「新聞」がやるのですか。権力者とテーブルを囲むのを競っている新聞各社のお偉方。いい表現が見つかりません、屑にも劣る、マスゴミ人と言いたいね。新聞が批判力を持たないなら、それは新聞ではなく、旧聞ですらなく、「堕落・頽廃の異物・遺物」でしかないでしょう。「洛陽の紙価を高からしめる」という言い方があります。「三世紀、中国の西晋王朝の時代。左思という文人は、三国時代の三つの都の繁栄を描いた「三都の(ふ)」という文学作品を、一〇年の歳月をかけて書き上げました」「洛陽、が為に紙(たか)し」と言い伝えられています。勝れた作品をこぞって読者が買い求めたから、洛陽の都では、紙の値段が上がった、と(故事成語を知る辞典)。新聞紙がたくさん印刷されて売られ、たくさんの人が競って買うから紙価が高騰するならまだしも、やたらに刷っているから、紙の無駄使いをしているから、紙価が高くなってしまうのではないのなら幸いですね。

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無関心やめると決めた今日の記事 (宮崎県宮崎市 山本芳生)(今年(2022年)の「新聞週間」代表標語)(日本新聞協会)

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  何度でも、桐生悠々の「肺腑の言」に立ち返る必要があるでしょう。「新聞週間」に意味を見出すとは、ぼくにとっては、このことを指しています。これは何も、新聞人に限らない姿勢であり、思想ではないですか。

  「言いたい事と言わねばならない事」(桐生悠々)「人(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。/ 私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。/ 言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。/ しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。(以下略)(「畜生道の地球」中公文庫、1989)

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 蛇足 十三日に避妊手術をした親猫は、帰宅したというか、病院から連れ帰りました。大きな腹巻きをしています。数日して、取れる(あるいは、猫が自分から取る)というので、そのままにして、放してあります。親子で、拙宅の「駐車場(車庫)」を占拠しています。子猫は、生後二ヶ月経ちました。元気で飛び回ったり、木登りをして遊んでいます。我が家の猫たちは、班分けにしてあります。一班は先輩組、二班は後輩組。それぞれにクラス担任が決まっています。先輩組はかみさん、後輩組はぼく。全体の統括は拙者です。( 左写真は、 よその子猫です。でもこんな感じで、育っているようです。拙宅の子猫の内訳は、白・五、茶虎・二、黒・一)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。