あまりいい傾向ではありません。今からおよそ六十年も前の、中学校の教室での出来事を書いてみたくなったんです。たぶん、二年生のクラスでのこと、ある数学の担当教師(若い人で、伸長は低かったが、その反対に横幅がやたらにデカかった)、M 先生。ぼくがこれまでに出会ってきた無数の教師たちの中で、たったひとりだけ、今でも、今だから「逢ってみたい」「逢って、話が聞きたい」と思い続けている教師でした。彼は早くに亡くなられた。暫くの間は年賀状を戴いていたが、いつでしたか、女性の名前(奥方だったと思う)で喪中のはがきが届きました。その瞬間にも、逢っておけばよかったなあと、しみじみ思ったものでした。その先生は柔道をしていたと、直接に聞いた。その関係でもあったのかと、ずいぶん時間が経ってから思い出しながら、教室の出来事を偲んだのでした。(ヘッダーの写真図は:月刊コミック・編集部ブログ:https://comic-flapper.com/blog/etc/page/3/)

ある時の授業中に、M さんは「君たちは、こんな歌は知らないだろう(京都弁では「知らへんやろう」)」「(なにかの足しになるから)覚えておいてもええで」と、なんと、「若い力」をアカペラで歌いだした。その時の教師の表情まで、ぼくははっきりと記憶しています。なかなかの美声だった。「若い力と 感激に ♪ 燃えよ若人 胸を張れ ♪ 」、教室が静まり返って、聞き惚れていた(と思う)。後にも先にも、教師が歌うのを聞いたのはこのときだけでした。その後、今までに何度か「若い力」を聞く機会があったが、歌詞は空覚(うろおぼ)えだった。そのときに、M 先生は、この歌がどのような事情で作られたものか、恐らく話されたのだろうと思うが、すっかり忘れている。あるいは、柔道をやっていたので「国体」に参加したのだったか、ひょっとしたら、彼は金沢出身だったのかもしれなかったが、その背景や事情は、ぼくの記憶からはまったく抜け落ちています。
たしかR館大学出身だったと聞いた覚えがある。今から思えば、その教師も、びっくりするほど若かった時の出来事でした。この数学教師に関しては、この駄文集録のどこかで少しばかり触れています。数学の試験答案を返却する際、試験の成績・結果について感想を述べていたが「八十何点をとって、喜んでいるものがいるが、そんな程度ではダメだ」と。(ぼくに対して言ったようだった)学校の勉強は嫌いだったから、成績も振るわなかった。しかし、「お前はできるんやぞ」と、暗に「叱咤した」(激励であったか)のだったかもしれないと、そのことを思い出すたびに、教師というのは、生徒に対して「すごい影響を残すんだ」と、ずっと忘れないで、ぼくの教師像の根っこに据えてきました。ぼくは明らかに、自分は「教師失格」だったが、この数学教師を思い出すたびに、「若い力」と「ちょっとくらいの点数で喜ぶな」の二つながら、奇妙にも、ぼくの教育に対する考え方の「背骨」のようになってきました。
(この部分を綴っている時、にわかに思い出した。同じ中学のマラソン(駅伝)大会で、ぼくも走った。教師は自転車で伴奏していた。嵐山にの渡月橋にかかった時、M さんは「おい、前の二人を追い越せや」と、ぼくに言った。その掛け声に煽られて、相当にへばっていたが、ぼくは前を行く二人を追い抜いて、次の走者にバトンを渡した、ということがあった。大きな体が小さな自転車にかぶさっていた、その姿もありありと覚えている)(それやこれやを重ね合わせると、ぼくは教師の「期待」にまったく応えられていなかったことを、いつでも申し訳なくも、悲しく思っていたし、今でも思っている)

昨日が「スポーツの日」だというので、その前歴の「体育の日」から初めて、改めて「国民体育大会(国体)」について考えてみました。その際に、第二回の「国体」が金沢で開かれ、同時に「大会歌」として「若い力」が披露され、今なお、それが金沢(いや石川県)の伝統歌・体操となっていると知りました。(石川県能登でぼくが生まれたのも、なにかの因縁のように思われてきました)そして、これを書いたために、はじめて「若い力」の振り付けも見ることになりました。ラジオ体操よりも、何倍もいいですね。「若い力」だからでしょうか。(「振り付け」は、小学校の教師だった人が付けられた。明るい未来を指し示すように、そんな「振り付け」を目指したといわれていた。最下部の記事参照)
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● 国民体育大会(こくみんたいいくたいかい)=日本スポーツ協会,文部科学省,開催都道府県(もちまわり形式)の共催で毎年実施される都道府県対抗の総合体育大会。略称国体。第2次世界大戦後の 1946年,荒廃した人心にスポーツを通じて希望を取り戻させる趣旨で,京都を中心とする京阪神地域で第1回大会が開かれた。翌 1947年の第2回大会では国体マーク,大会旗,大会歌『若い力』が制定された。1948年の第3回大会からは冬季,夏季,秋季の季別開催が定着し,都道府県対抗の形式も確立された。また季別大会を通じて男女総合成績 1位の都道府県に与えられる天皇杯,女子総合成績 1位の都道府県に贈られる皇后杯が創設された。1987年に沖縄県で開かれた第42回大会で全国を一巡し,1988年から 2巡目に入った。2001年以降は秋季大会終了後に同じ施設を利用して全国障害者スポーツ大会が開催されるようになった。2003年,開催自治体の費用負担増などの問題から国体運営の大幅な見直しが行なわれ,2006年には夏季大会,秋季大会が一本化されるなど大会規模の簡素化がはかられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

(「若い力」第2回国民体育大会歌:佐伯孝夫作詞、高田信一作曲)(https://www.youtube.com/watch?v=i65zKNaIhNg)
(「ぼくの喜び 君のもの」とされた箇所には時代が反映されていますね。「僕と君」だけではない、別の表現を求めて、今なら書くでしょうね)
「若い力」 一 若い力と 感激に 燃えよ若人 胸を張れ 歓喜あふれる ユニホーム 肩にひとひら 花が散る 花も輝け 希望に満ちて 競え青春 強きもの 二 薫る英気と 純情に 瞳明るい スポーツマン 僕の喜び 君のもの 上がる凱歌に 虹がたつ 情け身にしむ 熱こそ命 競え青春 強きもの

この「若い力」が素晴らしいとか、その振り付けで集団の美しさとか凄さがわかるというのではありません。きわめて単純に、六十年前の「教室」で、思いもよらない数学教師の「独唱」があり、それが、どういうわけだか、ぼくの脳細胞の記憶野に残り続けているということ、その思い出は、決して感傷を誘うものではなく、教師や教職を考える際のルーツになっていると言いたいいばかりに、こんな無駄話を綴ったのでした。それにしても、この歌は、戦後直後でなければできなかったという思いもまた、強いものがあるのです。この島が、平和を求めて再生しようと立ち上がる、その瞬間を切り取ったものでしょう。その「若い力」はいつでも、どこにでも存在しているものでしょうか。(左は中日新聞:2018/02/17)
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