汚職防止の日を。スポーツが食い物にされてるぞ

 【南風録】きょう10月10日は、58年前に東京オリンピックが開幕した日である。大会を記念して「体育の日」となり、さまざまな行事を通して国民の健康増進に寄与してきた。◆祝日は10月第2月曜日に移され、おととしから「スポーツの日」と名称も変わったが、体を動かしたりイベントを開いたりするにはいい季節である。語呂合わせもしやすいのか、日本記念日協会認定の記念日が一年で最も多い日という。◆「銭湯の日」は「1010(せんとう)」が由来の一つ。「運動した後に入浴すれば健康にいい」と、アピールする意味もある。「お好み焼の日」は「ジュージュー」と焼ける音から取った。知恵と工夫があふれていて面白い。◆「転倒予防の日」は日付を「10(てん)・10(とう)」と読んだ。骨折して寝たきりになる場合もあるので適度な運動を心掛けよう。外出時だけでなく、部屋を整理して、つまずくリスクを減らしておきたい。◆協会の登録はないが、日本かつお・まぐろ漁業協同組合が制定した「まぐろの日」でもある。山部赤人が奈良時代、兵庫県の明石地方を訪れ、マグロ漁で栄える姿をたたえて歌に詠んだことにちなむ。◆いちき串木野市ではきょう、「マグロのまち」をPRしようと即売会が開かれる。市内の飲食店16店では月末まで、各店がそれぞれ工夫を凝らしたオリジナル料理が並ぶ。思い思いに楽しむ秋の一日を。(南日本新聞・2022/10/10)

● スポーツの日(すぽーつのひ)=10月の第2月曜日。「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培(つちか)うとともに、健康で活力ある社会実現を願う」ことが趣旨の国民の祝日。1966年(昭和41)「国民祝日に関する法律」の改正により建国記念の日、敬老の日とともに体育の日として追加制定された。それ以前は10月の第1土曜日がスポーツ振興法による「スポーツの日」とされていたが、1964年の東京オリンピック大会開会式の日を記念して10月10日が「体育の日」となった。その後の法改正により2000年(平成12)から10月の第2月曜日となり、さらに2020年(令和2)に名称を「スポーツの日」と改めた。各地で体力検定や運動会といった関係行事が繰り広げられる。(ニッポニカ)

 語呂合わせが好きな人が多いというのか、いかなる日でも「記念日」にしたい人が多いのか。この十月十日は「記念日の特異日」なんでしょうね。今から五十八年前の今日、東京五輪の開会式が行われた日でした。今ほどあからさまではなかったが、世間が騒ぐと、ぼくは横を向くという、素直ではない気風がその当時もあり、五輪開催にほとんど関心を持たなかったと思う。ところが、それから一年後の十月十日。在学中の大学が、運動会(体育祭)を国立競技場で行うことになった。なんでも、卒業生だった大臣の肝いりで、どこよりも先に国立競技場を使うことに国威ならぬ、大学威を発揮したかったらしい。ぼくは参加する気もなかった。ところが、「体育祭」当日、競技場で「出席をとる」「無断欠席の場合は、体育の単位を与えぬ」と知らされた。それでもぼくは参加したくなかったけれど、友だちに誘われていやいやでかけた。当然、競技には参加しなかった。

 (当日は、予想に反して「二回の出席確認」があったそうだ。ぼくは一回だけ「出席券」を提出して帰ったのだった)(競技場に行くだけで「出席した」ことにするとは、なんという愚かなと思った。まさに「体育の日」にふさわしいかったのでしょうかな。大学には、世間に対する「メンツ」があったんでしょう、せっかく競技場を使うのだから、学生を集め(一杯にし)なければ「沽券」にかかわると考えたのだ。もちろん、大枚の使用料を払って)

 下らないことをする学校に入ったと悔やんだが、後の祭り。記憶は曖昧ですが、その年度の「体育」の単位は落としたと思う。今から考えても(こういうことは言わないほうがいいのですが)、「大学入学」は、我が拙(つた)ない人生のなかでも最大の失敗だったと、繰り返し自他に向かって言ってきました。京都という狭い土地から逃げ出したついでに入った大学でしたから、どこでもよかった。もちろん、「旧統一教会」ならぬ「旧帝大」は忌み嫌っていました。しかし、一つの大学しか「入学」はできないと考えていましたので、その大学(新宿区にあった)に決めたが、なにかと惨めなものでした。ぼくがだめになったのは、その大学のせいだというつもりはありません。しかし、実際に授業に出てみて、教師連中の程度の低さは驚異的なものがあったと思う。授業というか、職務に不忠実で、平気で「無断欠席・欠勤」をする教師が五万といた。遅く来て、早く終わるのもいた。学生は言うまでもない。「教室」がまるで、門のない、出入り自由の公園状態だった。当時、その大学は無門を売りにしていました。

 いまは、当時よりもさらに劣化が進んでいて、救いがたい状況にあると推定します。もちろん、勝れた仕事をされていた教師がたくさんいたのは事実です。そういう教師たちに、ぼくが出会わなかっただけ。また、「研究と教育」がまったく揃っていない教師が目白押しでした。(一回限りの人生です、これは失敗だったという経験もまた、人生にはつきものですな。「取り返しがつかない」というのは、いわれるほどのものではなく、いつだって、その気にさえなれば、「取り返せる」のです。「再起不能」はあっても、どこまでも「再生可能」なんですね、人生は)

 もとに戻します。「十月十日」です。当初は「体育の日」でしたが、二年前からは「スポーツの日」となったという。改名の理由はなんでしょうか。どうでもいいことですが、「国民の休日」が多すぎるのはたまりませんね。休みを増やせば民衆・民草は喜ぶだろうという、法律を作る側の民衆を見下した根性がイヤですね。「銭湯の日」(今では風呂代は五百円を超えている時代、「銭湯」もないものです)、「お好み焼きの日」(広島限定ですか)「転倒防止の日」(毎日が、そうではないんですね)「まぐろ(真黒)の日」(意味不明。「真白の日」がほしい)と、何でもかんでも「語呂合わせ」というのも芸のないことです。東京五輪開催記念日でもあるのですから、「汚職(贈収賄)解禁日」に対抗する「国民の忌日」も設けてほしいね。

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 札幌五輪の二度目の開催がもてはやされている(ハヤシているのは、電通やその取り巻き連中だけでしょう)。あるいは大阪万博も二度目の開催が決まっている。一体この社会には、年がら年中「汚職の日」があるのじゃないかと思われるほどに、なけなしの「税金」を誤魔化す輩が、いたるところに棲息しているのですから、手に負えませんね。反対に「汚職防止の日」、あるいは「電通不通の日」、さらには「角川沈が丸川になる日」など、あらゆる悪の、あの手この手を記憶するための、特別記念日を設け、あるいはカレンダーを作って、そこら中に張り巡らせてはどうか。

 ついでに言うのですが、ぼくがスポーツが嫌いになったのは、それを食い物にする輩が後を絶たないからです。スポーツには、それぞれにルールがある。そのルールに外れることが平気で行われているのが、スポーツ界の現実ではないでしょうか。細かいことは言いませんが、あらゆるスポーツが(選手も含めて)、金まみれになっているのが目に付きすぎるのです。宣伝の時代であることは確かです。でも、アスリートは、その宣伝の波に溺れているんじゃないかと思うくらいに、彼や彼女の身体の前後左右、上から下までが「広告」漬け。歩く・走る・投げる・飛ぶ・泳ぐ「広告塔」ですね。これではスポーツ精神は病むほかないでしょうな。

 「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培(つちか)うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」という記念日の趣旨に反していませんか。もっとも、この綴り方も「スポーツの日」にふさわしくない、いかにも運動不足を明らかに示すような駄文でした。とはいうものの、ぼくには駄文を綴るのも、草を刈り取るのも「運動(スポーツ・体育)」です。もちろん、猫と戯れるのも、ね。理屈の上からいうと、毎日が「運動の日」なんだ。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)