弔辞ができるまでのいきさつはどうあれ

 「産経抄」は時々読む程度。S前総理の「弔辞」が話題となったが、圧倒的な賛辞と背中合わせで、厳しい批判や非難も出ている。ぼくも駄文を書いたから、再言しない。コラム氏は「菅氏の弔辞ができるまでのいきさつはどうあれ、名演説として歴史に残るはずだ」と。内容や作成経緯は問わない。参列者を泣かせ、多数が「賛辞」を惜しまないのだから、余計なことを言うな、そういうことだろう。「弔辞」は「演説」ではないし、まして「小説」ではない。今更、虚構はだめと、教訓を垂れますか。書かれた「経緯(いきさつ)」は等閑に付せない。元総理が沖縄基地問題やヒロシマ被爆者(慰霊)問題に、何の関心も持たなかったことは「天下周知」の事実です。日本学術会議の「会員任命拒否」でも、部下の進言のまま、会員候補の「学術研究」には微塵の関心もなかった。言うも恥ずかしいが、「弔辞」は勧進帳ではありません。(「紙芝居を観ても、人は涙する」・2022/10/07)

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 いろいろなコラムがあっていいし、それらを読んで、何かと感想が湧いてくるのを楽しみ、感心すればいいのでしょう。この「産経抄」を読んで、しかし、ぼくは楽しめなかったし、感心もしなかった。このコラム氏が、じつに偏った意見の持ち主であるのは先刻承知ですが、それは構わない、記事の評価は書かれている内容次第ですから。葬儀に臨む「弔辞」を誰が書いたか、書かれた(読まれた)内容が事実であったかどうか、そんなことはどうでもよくて、「菅氏の弔辞ができるまでのいきさつはどうあれ、名演説として歴史に残るはずだ」というのです。(ここに「歴史」を持ち出すんですか。「歴史に残る名演説(弔辞)」というのは、誰のため、何のために書かれ(読まれ)たものなんですか)この記事は「変だ」というのか、はっきりと「間違いです」と指摘すべきか。これも大新聞社の「記事」なんですね。(仮想敵ならぬ)「現実敵」がいて、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という「遺恨」「怨嗟」の臭気が芬々(ふんぷん)としていませんか。(ここでは、いったい「誰が坊主で、なにが袈裟」なんでしょう?)

 【産経抄】文春新書に著名人の弔辞を集めた一冊がある。「道半ばにして倒れた君を思うとき、雷鳴は君の悲痛の叫びであり…」。急逝した小渕恵三元首相に対する村山富市元首相の追悼演説の冒頭部分である。「科学的には疑問」などと茶々を入れても一笑に付されるだけだ。▼安倍晋三元首相の国葬については賛否両論あっても、菅義偉前首相の弔辞は大きな感動を呼んだ。それでもというよりだからこそか、ケチをつける人がいる。「これ電通入ってますからね」。ワイドショーのコメンテーターの事実に基づかない暴言は論外にして、今月1日の東京新聞もすごい。▼「あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました」。菅氏が病室に駆けつけたとき、安倍氏は心肺停止状態だった。医学的には疑問だとする医師のコメントを記者が引き出している。「よりにもよって」は「いのちを失ってはならない人から」にかかるとすれば優生思想だとも指摘する。ここまでくれば言いがかりである。▼菅氏の弔辞では、岡義武著『山県有朋』から歌が紹介されていた。安倍氏が生前読んだ最後のページにはマーカーが引かれていた。「そんな奇遇があるんですね」。昨日の朝日新聞のインタビュー記事で文庫版の解説者が、見つけたのは別人と匂わせながら皮肉っぽく語っている。 ▼件(くだん)の文春新書には、昭和35年10月にテロの凶刃に倒れた浅沼稲次郎社会党委員長に対する、池田勇人首相の追悼演説も収められている。「沼は演説百姓よ」。浅沼氏の友人が作った詩を見つけ出し、名スピーチに仕立てたのは元新聞記者の秘書官だったが、誰も問題にしなかった。▼菅氏の弔辞ができるまでのいきさつはどうあれ、名演説として歴史に残るはずだ。(産経新聞・2022/10/07)

● 勧進帳=歌舞伎十八番【かぶきじゅうはちばん】の一つ。兄源頼朝【みなもとのよりとも】との仲が悪くなった源義経【みなもとのよしつね】は、武蔵坊弁慶【むさしぼうべんけい】らわずかな家来とともに、京都から平泉【ひらいずみ】(岩手県)の藤原氏【ふじわらし】のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとします。『勧進帳』は、義経たちが加賀国【かがのくに】の安宅【あたか】の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。義経一行は山伏【やまぶし】に変装して関所を通過しようとします。ところが関所を守る富樫左衛門【とがしさえもん】は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪【あや】しんで通しません。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げます。勧進帳とは、お寺に寄付を募【つの】るお願いが書いてある巻物です。いったんは本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫ですが、中に義経に似た者がいる、と家来が訴【うった】えたため、呼び止めます。変装がばれないようにするために、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩【たた】きます。それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。/ 初代市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】が元禄【げんろく】時代にこの場面を演じました。しかしその時の台本が残っていなかったこともあり、7代目團十郎が新しく作り直しました。1840年(天保【てんぽう】11年)のことです。7代目團十郎は、衣裳【いしょう】や舞台【ぶたい】装置などを新しくするために能【のう】を参考にしました。背景は能の舞台をまねて松羽目【まつばめ】にし、衣裳も能に近づけました。その後9代目團十郎が得意とし、現在に受け継【つ】がれています。/ 弁慶の演技には、最後の飛び六方【とびろっぽう】に代表される荒事【あらごと】の豪快【ごうかい】さだけでなく、はっきりしたセリフ回しや舞踊【ぶよう】の技術が必要で、座頭【ざがしら】の役として特に大事にされています。また伴奏【ばんそう】の長唄【ながうた】は、代表的な三味線【しゃみせん】音楽の一つとして知られています。「歌舞伎事典」(https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1091

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