【天風録】そういうことか鰯雲 雲が流れ行く空を見上げ、秋のひとときを楽しむ人もいるだろう。縁あって旅した新潟で思わぬ話を耳に挟んだ。秋の夜空を詠んだ芭蕉(ばしょう)の<荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)>は、どうも絵空事だという▲詠んだ場所とおぼしい海岸では、方角からして佐渡島(さどがしま)の上空に天の川が拝めない。辺りの海も穏やからしい。おまけに付き従っていた門人、曾良(そら)の日記によれば、その日は雨降りだった。検証ばやりの昨今、泉下の俳聖も心騒いでいるかもしれない▲それでも名句の評価はいささかも揺るぎない。かつて朝敵として島に流された人々の内なる<荒海>に思いをはせ、天の川で清まれ、鎮まれと願う句にも映る。空模様に託した心模様といえようか▲澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず▲<あ そうかそういうことか鰯雲(いわしぐも)>多田道太郎。何が「そういうこと」なのか、さっぱり要領を得ないのに引かれる余情がある。雲をつかむような句も、心のねじを緩めるにはいい。(中国新聞デジタル・2022/09/25)
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多田さんの句、「あ そうかそういうことか鰯雲」について。誰かの句について、何かと解釈や解説はつきものですが、それはまあ、グリコの「おまけ」みたいなもので、肝心なのは「句」自体ですから、おまけの方に気を取られ過ぎるのもどうかと思います。一瞬、「おまけ」に惹かれることはあります(これを「惹句」という)。ぼくはこの「増殖する俳句歳時記」にもくまなく目を通すようにしていますので、「おまけ」の価値はわかるように思います。しかし、先に「おまけ」を見るのではなく、本体に心を向けることを忘れないように、繰り返し、そこ(句)に戻っていくのを常としています。それを言った上で、以下の「鰯雲」評を読んで見られるといいでしょう。(余談です 大学に入った頃から、ルソーやカントなど、西欧の思想家のものを読み出しました。後に、ぼくは修士論文に「ルッソオ論」を書きましたから、早い段階から、多田さんのものを学んでいました。また、彼は多彩の人で、そのような「一筋の道」にこだわらない生き方にも関心を植え付けられたのでした。多田さんのなされた「文化史」という分野にあたる仕事にも多くを教えられたものでした)
俳句がどういうものであるか、それは、いろいろな角度から捉えられますが、「これこそ俳句だ」「俳句はこれでなければ」、そういう「紋切り型」ではない、融通無碍の風流があるのではないでしょうか。「季語」の用い方にもよりますが、この「鰯雲」などはその典型ではありませんか、ぼくはそう考えては、駄句の山を築いてきました。下の挙げた津田さん、依光さんの句なども、そういう読み方ができるのではないですかね。一種の拍子というか、気合(呼吸)というもの、あるいは気迫とか「一休み」のように見られませんでしょうか。

「道太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。」(八木忠栄)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)
● 多田道太郎(ただ-みちたろう)(1924-2007)=昭和後期-平成時代のフランス文学者,評論家。大正13年12月2日生まれ。昭和51年京大教授,63年明治学院大教授,平成2年武庫川女子大教授。11年「変身放火論」で伊藤整文学賞。日常の風俗や雑事から日本文化をとらえる評論で知られた。平成19年12月2日死去。83歳。京都出身。京大卒。著作に「ルソー研究」(共同研究),「複製芸術論」「しぐさの日本文化」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
先日、谷川徹三さんの「階段二段飛ばし」に触れたところです。津田さんも「そうだったのか」と思えば、わけもなく嬉しくなるんですよ。穴蔵に向かって駆け下りるのは好きではありませんでした。だから「二段飛ばし」は昇り専用。かなり長い間、ぼくは「二段飛ばし派」だった。やがて、階段の幅が半分に削られ、その分をエスカレーターにしてしまって以来、ぼくの二段飛ばしは終った。この「二段飛ばし」と「鰯雲」、作者はどういう勢いでくっつけたのか、ぼくはわからない。あるいは評者の清水さんの言われるとおりかもしれません。「秋の雲」であれ、「夕霞(ゆうがすみ)」であれ、あるいは子規の「根岸の里の侘住居」であれ、どんな上句にも中句にも寄り添い密着する、決め言葉というもの(下句)があるのでしょう。つまりは「語呂合わせ」という気味ですね。それが俳句・俳諧の「洒落」にもなるのでしょう。

階段は二段飛ばしでいわし雲 (津田このみ)「天気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。」(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)
清水さんの評に「そこ(丸善)で作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である」とあります。そうかもしれないし、そうでないかもしれないというところ。ぼくもどれくらい丸善に通ったか。ビル街のわずかばかりの隙間から「鰯雲」が見上げられたのか、空を見上げるというのは、誰でも、いつでもできそうで、なかなかできないものです。ぼくなど、街中で「上を向いて歩こう」と言う記憶は絶無です。下を向いてばかりだったからかもしれない。

丸善にノートを買つて鰯雲(依光陽子)第五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)
川柳と見紛うばかりの駄句を、飽きもしないで、ぼくは重ねてきました。人さまにお見せできるものではないので、未だ一度だって「これがが駄句だ。参ったか」と披瀝に及んだことはない。そのような勇気というよりは、厚顔さを持ち合わせていないのです。俳諧とは「俳優の諧謔、すなわち滑稽の意」とありますとおり、滑稽味がいのちのような、連歌からの余計者として生まれ、後に独立して「俳諧」となった。これにも短くない歴史があります。言葉遊びの域を出なかったものが、やがて明確に「文芸」の位置を獲得するにいたったのは、元禄以降の芭蕉(蕉風)によるところは大きかったでしょう。面倒は省いて。本日挙げてみた数句は「諧謔」「滑稽」「洒落」のいずれかにおいて著しいものがあると言っても、大きくは外れませんでしょう。現代風俳句は「文芸復興(ルネサンス)」を遂げているのかもしれません。
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● 俳諧(はいかい)=和歌、連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、詩文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきょうぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~1540年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から1670年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。(ニッポニカ)
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「澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず」(コラム「天風録」)「澄んだ空」に「曇る心」、「台風一過」と行かない悩みや苦悩を抱えながらの明け暮れ、しかし、空には「鰯雲」だ。そんな時、「あ そうかそういうことか鰯雲」と、まるで鰯雲から声をかけられたような、鰯雲に呼びかけるような、見事な錯覚を持つといいね。「何だ、そうだったんだ。わかったよ、鰯雲さん」と。上を向いて歩くばかりではない。上を向くこと、そんな、気軽な体操ができれば、心の曇りも薄れるかもしれない、たとえ束の間であっても。雲は流れる、つまりは風が運ぶんですね。心胸に心地よい風が吹くといいなあ。
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