名利に使はれて、静かなる暇無く、一生苦しむるこそ、愚かなれ

 名利に使はれて、静かなる暇無く、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。 

 財(たから)多ければ身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。身の後には、金(こがね)をして北斗を拄(ささ)ふとも、人の為にぞ煩(わづら)はるべき。愚かなる人の、目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)の飾りも、心有らん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 埋もれぬ名を、長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき。愚かに拙(つた)なき人も、家に生まれ、時に遇(あ)へば、高き位に昇り、奢(おご)りを極むるも有り。いみじかりし賢人・聖人、自ら賤しき位に居り、時に遇はずして止みぬる、又多し。偏(ひとへ)に、高き官(つかさ)・位(くらい)を望むも、次に愚かなり。(「徒然草 第三十八段」)(参考文献、島内既出)

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 台風に伴う、大量の積乱雲の発生で、当地も、朝から雨が間断なく降り続いています。隣町村あたりでは「大雨警報」などが出されていますので、油断大敵です。このあたりは少しの風でも停電騒ぎになります。木々が多いので、その木の枝に電線が接触して断線するのでしょう。今の状況ですと、風はそれほどでもありませんが、小なりとはいえ、「台風」ですから、用心が欠かせません。「備えあれば憂いなし」とは世間知のようですが、ぼくの方は「備えあれども憂いあり」ですから、注意の上に注意をという姿勢でいます。自然災害とは言いますが、人間の存在しない環境で、どれだけ地震や台風が大暴れしても「自然災害」とは言わない。いつでも起こる、単なる「自然現象」ということに尽きるのです。その自然環境に人間が関わると、途端に「自然災害」という。なんだか変だという気もします。そんな「埓のないこと」を言っても始まりません。今、我々の眼前で生じているのは「自然・人為災害」と称すべき現象ではないでしょうか。

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 久しぶりに「徒然草」を引き出してきました。時々目を通したり、飛ばし読みしたりしているのですが、ここしばらくは「人為災害」の目眩ましや猛襲を受けて辟易としながら、飛び来る火の粉は払わねばと、誰に頼まれたわけでもないのに、そんなヤクザな振る舞いに時間を取られていました。なんともバカバカしい仕儀にいたっていたというほかありません。とは言え、兼好さんの時代であっても、同じような「生々しい」「馬鹿ばかしい」「白々しい」ことが相次いで起こっていたことに変わりはありません。見たところ、着るものや食べるものの変化はあろうけれども、人間の「愚かしさ」「図々しさ」「意地悪さ」などにおいては、いささかの進歩も退歩もしていないのです。二足歩行のホモ・サピエンス(Homo sapiens)と、誰が言ったのでしょうか。このホモ・サピエンスは、他の動物に比して「賢い人」「知性人」というのですから、「マジかよ」と、驚きを通り越して仰天します。人間よりも遥かに「賢い犬」や「知性鳥」は枚挙に遑(暇・いとま)がないからです。

 同じように、他の生き物と区別(差別)し、人間の勝れているらしいところを明示・自慢するために「ホモ‐ファベルHomo faber)」などといいます。「道具をつくる人」というらしい。だけれども、(言葉)ではなんとでも言えるんだということも事実です。いろいろなものを作るのが人間の特性かもしれませんが、核爆弾や各弾道ミサイルなとどいう「大量破壊兵器」という物騒なものを作る動物は人間以外にはいません。作っただけでは足りなくて、それを敵とみなす者たちに使ってみたくなるのですから、始末にも手にも負えないですな。「賢い人」「知性人」とはその程度の、度し難い存在でもあることを忘れたくありません。

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 さて兼好さん。この「三十八段」はぼくの大変に好きな箇所です。本日は、その前半部分について駄弁ります。と言っても、文章を繰り返し読めばそれでいいだけのことで、無駄な解説も解釈もいらないでしょう。繰り返して味読するだけです。「名利(みょうり)」とは、「名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち。めいり」(デジタル大辞泉)です。「財多ければ身を守るに貧(まど)し」とはどういうことか。「金」を沢山所有すると、セコムをしなければならないし、なにかと心配の種が尽きない、どんなに守ろうとしても十分じゃないというのです。「貧し」とは、気疲れというか、どこまで防御しても気が休まらないというもので、まるで「防衛力」の際限なさの愚かしさを言うのです。二重窓にしたり、あちこちに監視カメラをつける、それでも安心できないという、そうなんでしょうか。貧者には、金持ちの心がわかりません。ブロック塀の上に「ガラス破片」や「鉄条網」を突き立てる心境は、浅ましい限り。死んでも、ぼくにはわからないな。

 「身の後には、金(こがね)をして北斗を拄(ささ)ふとも、人の為にぞ煩(わづら)はるべき」死んだ後に「北斗星」を支えるほどの財産を残しても、相続人には迷惑な話、だそうです。いまは容疑の段階ですが、元五輪理事とされる T という御仁は、一体どれだけの「財産」を築こうとしたのか。一億二億は「はした金」と思ったのか、「利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」としか言いようがない。この手の「濡れ手に粟組」が「大学出」、ですよ。そういう輩は、それを自覚してするんですから、じつに「(手に負えない愚か者の)ホモ・サピエンス)ですな。

 後世に名を残すと言えば、いかにも「よき人生」の証拠と言えそうで、「あらまほしけれ」、もっとも至極だと。そのように、一応頷いてみますが、じつは、なかなかそうではないんです、と兼好さんは指摘する。「位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやは言ふべき」とまるで、兼好さんは今に生きていて、現実の状況を見ているような言い草です。「位人臣を極めた」ものを、「立派な人というべきか」。決してそんなことはない。これまた、浅ましい限りの「貧寒たる手合」と言ったらどうでしょう。

 「愚かに拙(つた)なき人も、家に生まれ、時に遇(あ)へば高き位に昇り、奢(おご)りを極むるも有り」という見事な実例があるではないか。莫迦で浅慮の輩でも、「名門?」に生まれ、「時宜に叶う」と総理の椅子に上り詰め、「奢りを恣にする輩もいるのだ」という。「偏(ひとへ)に、高き官(つかさ)・位(くらい)をのぞむも、次に愚かなり」高位・高官に就きたいなどと望むものは、「名利を求めるもの」の次に愚かなんだよ。とするなら、偏差値競争を勝ち抜いて、「名門」だとかいう大学に入りたがる、有名企業に就職したがるのは、やはり「愚痴無知」なんだと、兼好さんに成り代わって言っておきたいね。

 恐らく、兼好の生きた時代(1283ころ~1352ころ)(鎌倉時代末期から南北朝期にかけて)は「身分社会」だったでしょうから、今よりも遥かに家柄が物(モノ・もの)を言っていたはず。「名門」「勢家」ならざる家柄だったため、兼好自身がそれで苦心した。それだけ一層、名利や地位を求めることの浅ましさに、「止んぬるかな」という気概・気分は湧いていたでしょう。今どきの政治家で言えば、二代目三代目などは、その典型と言えるのかもしれません。金が貯まればもっとほしい、名を挙げることに人生を賭ける(まるで博打打ちのような生き方ですよ)、そんな心持は、人間性の深いところで、いつも変わらない(不易)部分なんでしょう。落語に「こんなに金が貯まった」と、二階で一人、小判を出して並べて喜色満面、まだあるまだあると、後退(あとずさ)りし、二階の窓から落ちた「金の亡者」が揶揄されているのがありました。この駄文には、例によって結論はありません。この部分はもう一回分、後に続きます。(雨台風の行方が気になる)

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