
本日は「秋分の日」、つまりは「彼岸の中日」に当たります。春秋二回の「彼岸の日」は、いつどのように広がり、慣習化されてきたのか。やかましいことを言えば切りがありませんが、仏教の民間への伝播と普及が時間をかけて続けられてきたからでしょう(最後部の辞書を参照)。もちろん、今日では「お墓参りの日」だという認識の人が大半です。お墓(参り)に興味のないもの、墓そのものを持たないものには、数ある「国民の休日」の一日にすぎないのでしょう。「暑さ寒さも彼岸まで」という表現は人口に膾炙(かいしゃ)した言い習わしで、今でも使われることがあります。ときに今頃の「天気予報」の枕詞のように。

正岡子規の母親は、いつも話していたそうです。「毎年、彼岸の入りは寒いね」と。それを受け取って、子規は「毎年よ彼岸の入りにさむいのは」と詠んだ。「これが俳句か」と問われれば、「俳句とはこんなものです」とも言えそうです。いずれにしても、酷暑だ猛暑だと恨んだり嘆いたりしていた今年の夏も、秋冷の候になったと言えば、そぞろ身にしみる「寒さ」の到来間近という時候でもあります。季節は変わるというのが自然現象ですが、その自然現象に人間社会が大いに悪影響を与え続けてきた結果、自然の歩みにいささかの狂いが生じ、それが年々大きな狂いとなって定着しそうになる、そんな異常気象が「正常状態」化するところまで来てしまった感があります。地球温暖化と騒いでも、それにはいろいろな理屈がついていて、場合によっては温暖化などは問題ではないとまで言う人々も出てくる始末です。
ここで「温暖化」問題を掘り下げようとは思いませんが、化石燃料を取り尽くそうとし、またそれを燃料(エネルギー)として消尽しようとしてきたのですから、いかに自然環境といえども、あちこちで「音を上げる」のは当然であるともいえます。温暖化の仇敵として名指しされたのが「CO2」でした。持続可能なエネルギーなどと、まるでおためごかしのように「原発再稼働」「原発新設」を政治家が音頭を取ってぶち上げています(言わされているのですが)。原発と縁切りしたはずのフランスやドイツなどでも、ロシアからの燃料途絶で、いとも簡単に「政治公約」を破り捨てる始末です。挙句の果ては、そのロシアが、ウクライナの原子力発電所に対してミサイル攻撃を行って、(これは「テロ攻撃」にほかなりません)原発が戦争の手段や道具に使われている。ここまでくれば、地球温暖化など、どこかに消し飛んでしまう事態にあると言わねばなりません。

この「持続可能な開発目標」というのは、口を開いて「いー」と発音するような、あるいは二本の足を縛っておいて、マラソンするような、土台無理な話、不可能なものを可能に思わせる、そんな「偽装」時代であり、一見もっともらしい意見を述べて、実は何もしようとしていないことを白状しているようなものです。一歩進んで、二歩下がるみたいでしょうね。「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)と、本気で考えているなどとは信じられない状況でも、敢えてそれを言うことに政治的価値を置くという、まことに不埒な時代・社会の現状ではないでしょうか。スローガンとかお題目というのは、「掲げる」「唱える」、そのことに意義があるのだというのでしょう。言うだけ野暮ではなく、言わなければ野暮と。
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● SDGs(えすでぃーじーず)=世界が2016年から2030年までに達成すべき17の環境や開発に関する国際目標。Sustainable Development Goalsの略称で、日本では「持続可能な開発目標」と訳される。2015年9月の国連持続可能な開発サミットで世界193か国が合意し、2015年に達成期限を迎えたミレニアム開発目標(MDGs:Millennium Development Goals)の後継として採択された。地球環境や気候変動に配慮しながら、持続可能な暮らしや社会を営むための、世界各国の政府や自治体、非政府組織、非営利団体だけでなく、民間企業や個人などにも共通した目標である。発効は2016年1月。「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)をスローガンに、「貧困や飢餓の根絶」「質の高い教育の実現」「女性の社会進出の促進」「再生可能エネルギーの利用」「経済成長と、生産的で働きがいのある雇用の確保」「強靭(きょうじん)なインフラ構築と持続可能な産業化・技術革新の促進」「不平等の是正」「気候変動への対策」「海洋資源の保全」「陸域生態系、森林資源の保全」など17の目標と、各目標を実現するための169のターゲットからなる。MDGsが途上国の貧困・飢餓の撲滅や教育の確保に主眼を置いていたのに対し、SDGsはすべての国・地域を対象とし、MDGsの目標に加えて経済危機、気候変動、伝染病、難民や紛争などへの対処に力点を置いている。目標には法的拘束力はなく、達成状況を測る方法も各国に任されている。/ 日本は2016年(平成28)5月に首相安倍晋三(あべしんぞう)を本部長とするSDGs推進本部を設置し、民間企業や各種団体、消費者とも連携した実施方針を打ち出した。ドイツのベルテルスマン財団がまとめた世界149か国のSDGs達成ランキング(2016年7月時点)によると、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどの北欧諸国が上位を占め、日本は18位、アメリカは25位、中国は76位であった。(ニッポニカ)
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面倒なことを言い出したのも、実は本日付けの南日本新聞のコラム「南風録」(下掲)を読んだからでした。そこに書かれていることは、もっともで、何ら異議を唱えるところがありません。ただ、すこしばかり違和感を持ったのは、こんなことがいまごろやられ出し、しかもそれがニュースになるというところに、「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind.)というスローガンが、現実には空虚・空無であったことを示しているのではありませんか、ぼくにはそうみえてしまったのです。コンビニの批判をするのではなく、またこの「小さな親切」にいちゃもんを付ける気もありません。この程度のことを、さも「大きな思いやり」のように持て囃す、その風潮に、ぼくは嫌な感じを持つのです。「そんなことは黙ってやれよ」、そう言いたいんですね。
「節電」などの囃子詞(はやしことば)も同様です。第二次大戦中の都会で「節電々々で夜の暗いこと、まあ防空演習のお姉さんみたいですわ」(「古川ロッパ日記‐昭和一五年(1940)三月四日」)とある。最近の都会の(反)節電効果は凄まじいもので、まったく昼と見間違えるほどです。多くの心ある人たちは、東日本大震災後の「節電」が骨身に応えたのかもしれませんね。「都会の夜景」というけれど、昼間より明るいじゃん、そんな減らず口を叩きたくなる景色を見せつけられています。何ごとも「おため(御為)ごかし」なんだな。別の表現では、おなじことを「じょうず(上手)ごかし」ともいう。要するに金儲けなんだ。「表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること」(デジタル大辞泉)なんだとね。
ものみな値上げの横並び。そんな時節に(買い物に出かけなくても)「庶民の音が上がる」と言いたいですね。雨の降る日は天気が悪いとばかり、ロシアの狼藉で、物の値段(物価)があがると、まるで自然現象のように言い捨てて、後は野となれ山となれ、そんな政治の風潮に、(昔からですが)開いた口が塞がりません。大規模金融緩和だと「一端の金融政策」を装っているが、故元総理との共犯の日銀総裁。為す術がないだけの無能ぶりです。円安の続伸は、金融当局の無能無策ぶりを見透かされているだけ。二進も三進も行かない、進むことも引くこともできない、文字通りに当局は放心状態です。これについても言いたいことは山ほどあるのですが、「莫迦につける薬はない」とだけ言っておきます。やがて「金融破綻(債務超過)」に、この劣島社会は陥るはずです。預金も何も、なけなしの財産は紙屑同然、だれひとり取り残さない、つまりは全員を道連れにという魂胆でしょうか。「権力亡者」が、揃いも揃って「無知無能」と来ているのですから、目も当てられない惨状にあるのです。

そんなときに「ビッグなニュース」があり「指さしシート」導入の「小さな親切」のバカウケ。誤魔化されてはいけませんと言っても、「オレオレ詐欺」が増加の一途を辿る国柄、国民性ですよ。地面が崩落するかという瀬戸際に、「小さな親切」もないでしょうに、そんなこんなで、ぼくの虫の居所はよくないんですな。そう、「虫酸が走る」というやつです。もっというなら、「大の虫を生かして小の虫を殺す」という政治がまかり通っているのです。それをときたま「小さな親切」が始まると、目を奪われるというのです。それこそが「だれひとり取り残さない(全員、道連れにする)」(No one will be left behind.)という政治スローガンの表現する真意なんですね。
【南風録】耳が不自由な種子田千博さんにとっては「ビッグなニュース」だった。コンビニのローソンが、全国の店のレジカウンターに「指さしシート」を導入したという。▼霧島市に住む種子田さんは早速、近所の店に出掛けた。「レジ袋購入します」「スプーンください」といった文言とイラストが記されたシートを指して意思表示する。それまでは店員の声が聞き取れず、やり過ごしてきたが指一本で通じた。店の配慮がうれしかったそうだ。▼ローソンが導入した背景には新型コロナ感染を防ぐマスク着用がある。聴覚障害者は相手の表情や口の動きから意図を読み取ったり判断したりする。マスクで店員の口元が覆われ、困っている客を見た聴覚障害のある社員が提案した。▼カウンターに張りつけられたシートを見ると、取り入れるのはそれほど難しくなさそうだ。他店やスーパーに広がれば、聴力の低下した高齢者らも気後れせず、買い物を楽しめるだろう。▼聴覚障害者は外見からは理解されにくい。手話や筆談などによって意思を伝える環境が十分に整わない中、不安や不便を抱えながら暮らしている。コロナ禍がこれに追い打ちをかける。▼種子田さんは「障害の程度によって必要な支援はさまざまだ。こんな時だからこそ、実情に目を向けてほしい」と訴える。少数者の声に耳を傾けることは、誰もが生きやすい社会にきっとつながる。(南日本新聞・2022/09/23)

もう少し駄弁るつもりでした。しかし、昨日避妊手術のために連れて行った猫を迎えに行く必要があるのと、その後の世話では、目が話せないこともあり、中途半端ですが、ここまでにします。言いたいことは、「指さしシート」などというたぐいのものは、何も大騒ぎすることではなく、黙ってやるのが当たり前だと。その昔、東大の総長を務めたKさんという方が「小さな親切運動」団体の代表をされていました。それを見て、「小さな親切」という運動会を全国的に推進するのもどうかと思ったということです。「親切」という語を見聞きすると、この団体運動を思い出します。今でもあるでしょうか、学校などでの「アオイソラ」運動なるものが。もう一度たしかめて、「御為ごかし」という言葉が示す内容を捉え損なわないようにしたい。
「指差しシート」にしても「小さな親切運動」にしても、するべきこと、したほうがいいと考えられる事柄は、黙ってやればいい。それが言いたいだけです。有言実行もいいけれど、不言実行はもっといいな、そんな風にぼくは考えてきたし、自分のできる範囲で、黙ってやろうとしてきた、それこそ「小さな思いやり」がいくつかあります。それは口にするもんではないでしょう、「ハシタナイ・ミットモナイ」って自分でも思いますから。
● ひ‐がん【彼岸】〘名〙=① (pāramitā 波羅蜜多を漢語として意訳した「到彼岸」の略) 仏語。絶対の、完全な境地、悟りの境界に至る修行。また、その悟りの境地。生きているこの世を此岸(しがん)として、目標となる境界をかなたに置いたもの。〔勝鬘経義疏(611)〕 〔大智度論‐一二〕 ② 春秋二季の彼岸会(ひがんえ)。また、その法要の七日間。俳諧では、秋の彼岸を「後の彼岸」「秋の彼岸」という。《季・春》 ③ 向こう側の岸。転じて、(こちら側の)人間的な世界に対して、それを超越した世界をいう。⇔此岸(しがん)。 ④ 植物「ひがんざくら(彼岸桜)」の略。(精選版日本国語大辞典)
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