【日報抄】秋の日はつるべ落としだ。きのうの日の入りは17時46分。1カ月前より50分ほど早まった。今の時季は毎日1~2分ずつ早くなる。6月の夏至の頃はほとんど変わらない日が続くから、たそがれ時が早くなると感じるのも当然だ▼手元の辞書によると「たそがれ」は「誰(た)そ彼(かれ)」が語源だという。今の言葉なら「あれは誰」という感じか。薄暗くなって、人を見分けるのが難しくなる夕暮れ時を意味するようになったようだ▼万葉集には、こんな和歌が収められている。〈誰そ彼と我(われ)をな問ひそ九月(ながつき)の露(つゆ)に濡(ぬ)れつつ君待つ我を〉。「あれは誰かと、私のことを尋ねないでください。九月の露に濡れながら、あなたを待つ私なのに」(岩波文庫「万葉集」)という切ない心情を詠んだ▼闇の世界が迫り人や物が見分けにくくなる夕暮れ時を、人は古くから怪異と出合いやすい時間帯と考えた。「逢魔(おうま)が時(とき)」である。あながち迷信の類いとはいえない。現代では交通事故が多発する時間帯として知られている▼現代の逢魔が時を示す新たなデータが明らかになった。警察庁が2017年から5年間に全国で発生した交通事故を分析したところ、日没後1時間以内に道路を横断中の歩行者が死亡した事故は7~9月に比べて10~12月は2・1倍に増えていた▼自転車に乗った人が車と衝突した死亡・重傷事故も1・8倍だった。ドライバーの視覚を鈍らせる、魔の時間帯であるのは間違いない。気を引き締め、早めのヘッドライト点灯で魔よけとしたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/09/20)
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毎朝起きがけに、お茶をいっぱい。日本茶に限ります。日の出を見ながらというのが習慣になっています。しかし日の出が見られないときでも、お茶は欠かさない。今の時刻で言うと、四時か五時、昔風に言うと「明け六つ前」というところでしょうか。昔の「一刻(ひととき・いっとき)」は今の約二時間です。ほとんど毎日、四時か五時には起床していますから、世間の習慣からすれば早いのかもしれません。しかし、その時刻にはもう畑に出ている方もおられますから、「朝飯前」の野良仕事は当たり前にされているんですね。ぼくの「朝飯前」は猫の食事準備と、その後片付けです。だいたい一時間ほどかかります。
八月十日ころに生まれた子猫(家の隣のハヤシの中で出産したようです)が、そろそろ離乳食を始めるので、これまでよりは時間がかかりますが、まあ、六時前にはパソコンに向かってニュースを見たり、BGMを流しながら、なにやらかにやらをしています。この「無駄な時間」が、ぼくにはとても大事というか、ある点では「命の洗濯」の時間になっています。尤(もっと)も、一日中が「命の洗濯」だという方が正しいのですが。かみさんはまだ、爆睡中。八時過ぎに朝食、かみさんといっしょ。

朝日(🌅)に挨拶はしますが、夕日(🌇)は、残念ながら雑木林の影になって見えづらいので、ついつい見逃してしまいます。時々、びっくりするような日没に遭遇し、まるで洗濯した命が「乾ききった」というか、今日も無事でしたな、という殊勝な気分になることがあります。夕日よりも朝日が、どちらかというと好みにあっているようで、これまでに「日の出」を拝むためにあちこち出かけましたが、「日没」を見るための旅行はしたことがないんです。まあ、数時間すれば、また「朝陽(あさひ)」が見られるからという思いからでしょうか。「日の出」も「日の入り」も人間界の都合で作った表現で、太陽は「出入り」などはしない。自然現象としてはひたすら「太陽」の周りを地球が回っていることに変わりがない。(本日の「日の出」は5時25分、「日の入り」は17時40分です)(千葉地方)。
コラム氏の指摘のように、「逢魔が時(刻)」とか「黄昏(たそがれ)時」に交通事故が多いというのはよくわかります。免許を取得してほぼ半世紀。運転は上手か下手か、自分ではわかりませんが、もう何十年も「無事故・無違反」を続けています。その期間は、恐らく四十年くらいではないか。違反切符は、若い頃にはよく切られたし、「反則金」もそれなりに取られたので、これ以上は取られたくないという気が起こったのでしょう。運転は時と場合によって、丁寧でもあり、乱暴でもあるのは、今も昔も変わりません。

ある時期から、ぼくは日没後と降雨時は運転しないと決めました。もちろん原則ですから、時には緊急事態で運転することはあります。でも大抵は、この二つの、自分で作った規則は、かなり厳守している方だと思う。おどろくほど出鱈目な運転をする人が増えてきたことも「規則」を守ろうという態度を取らせていると考えています。十年ほど前、雪の降るなかをタクシーに乗りました。ちょっとした上り坂にかかって、運転手はこわなくなって「運転してくれないか」と、客であるぼくに懇願した。(ぼくがどうしたかは、ここでは言えません)若い頃から雪道に馴れていました。スキーに出かけた経験からです。(これがプロ(=金を取る)だというのです。「どこそこへ」と行き先を告げたら、「今日、乗ったばかり」「初めてのお客さんです」という運転手に何度か出会った)
つい最近(今年の二月頃か)も、雪の上り坂で自動車が渋滞していました。よく見ると、懸命にアクセルを踏んで(スリップして)いるものや、手回しよくレッカー車を呼ぶものもいましたが、ぼくはノーマルタイヤで当たり前に坂道を登りました、「お先に失礼」と。つまり、運転の上手下手は、何事でも同じでしょうが、それまでの経験が生きているかどうか、経験がなければ論外です。それにオートマ車が大半の自動車時代ですから、車の知識がゼロでも乗れるという、まことに危険に満ちた自動車社会を生きているのです。

暗くなったら乗らない。雨が強いときは運転しない。当たり前のルールです。いつも思いますが、「今やらなければ、どうにもしようがない」ということは、日常的にはまず起こらないんですね。そこから「今日やれることは、明日でもやれる」という格率をぼくは守ってきました。一例でいうと、ぼくには「締め切り」というのがなかったと言ってもいい。これまでも原稿を頼まれたことがあり、大抵は締切がありました。締切に間に合うように書こうとしますが、書く気が起こらなければ、提出は止めたし、締切が過ぎても受け付けるというときには、それに間に合うように書きました。でも「間に合わせるために、徹夜して」ということは一度もありません。原稿だけではなく、もろもろのことがらにも、「締切」があるのが世の習いです。でもぼくはその「世の習い」には習わないことのほうが多かった。

● 逢魔が時(刻)「…たとえば,神の間,納戸(なんど),便所,軒,門,神社,寺,辻,橋,峠,村境などは,そうした境界の主要なものであり,これらの境界は物理的・社会的境界のみならず,神や妖怪のすむ他界との境界とも考えられていたので,こうした境界領域に妖怪たちが出没する傾向が強く認められる。また出没の時についても同様で,〈逢魔が刻(とき)〉と呼ばれた昼と夜の境の夕方と明け方に,妖怪はこの世界に出入りするとされている。妖怪たちのおのおのの姿形や性格は多様性に富んでいるが,一般的には妖怪たちの姿形は,現実に存在する人間や動物,器物を異様な形に変形したり,これらの事物を合成しつつ変形したり,既存の妖怪たちの姿形を利用しながらつくり出されているといえるであろう。…」(世界大百科事典)

● たそ‐がれ【黄昏】=〘名〙 (古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」と、人のさまの見分け難い時の意)夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。→かわたれ。(以下略)(精選版日本国語大辞典) ● こう‐こん クヮウ‥【黄昏】〘名〙① (形動タリ) 日の暮れかかること。夕やみのせまること。また、そのさま。夕暮。たそがれ。② 戌(いぬ)の刻のこと。(同前)
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「秋の日は釣瓶落とし」といいます。「日が落ちるのが早い」ことの例え。「釣瓶」を知らない人がいるでしょ。関西人の「鶴瓶さん」とは違います。釣瓶とは「《「吊る瓮(へ)」の意》井戸水をくむために、縄や竿(さお)などの先につけておろす桶」(デジタル大辞泉)で、ぼくは小学生の頃までは毎日使っていました。水道ではなく、井戸水が「生活用水」だったからです。夏は冷たく、冬は暖かく感じるようなもの(水温)だった。スイカなどは井戸水で冷やしていました。現役の俳人で、ぼくの好きな鷹羽狩行さんの句に「つるべなど見ぬ世の釣瓶落しかな」があります。「いろいろなものを見ぬ世」になったのは、文明の進歩のお陰らしいが、すべてが「歴史」になるということは、一面においては「暗記」や「学習」の対象になり果せることでもあるのでしょう。「釣瓶」は知らないが、「鶴瓶」はよく知っていて、「家族で完敗(変換ミスではない)」などとは困ったことでもあるでしょうね。

秋の日は釣瓶落としのように「早い」ということには無関係で、この季節にも、あちこちで、地味な輝きを見せている草花の「あかのまま」(別名、イヌタデ。谷崎潤一郎の小説に「蓼喰ふ虫」がありました)その草花が、どういうわけか、秋の頃に似合うものとしてぼくは記憶しているのです。「あかのまんま」ともいう。中野重治さんの「歌」という詩にも「赤まゝの花」がありました。青春の息吹(意気込み)というか、あるいはまた暗い時代を映す鏡のような詩でしたね。

歌 中野重治 お前は歌ふな お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな 風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな すべてのひよわなもの すべてのうそうそとしたもの すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ もつぱら正直のところを 腹の足しになるところを 胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ たゝかれることによつて弾ねかへる歌を 恥辱の底から勇気をくみ来る歌を それらの歌々を 咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ それらの歌々を 行く行く人々の胸廓にたゝきこめ

「もつぱら正直のところを/ 腹の足しになるところを/ 胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ」と歌った中野さんは二十四歳だったと言う。学生でした。なかなかに困難な道を歩こうとしていたとも伺えます。前途は多難、そんな世の中に青年は闘いを挑むような、「叙情」ではない「激情」を歌おうとしたのです。その後の人生の難行を、若い詩人は予想していたでしょうか。いや、その予想を遥かに超えて、凄惨な時代を生きたのではなかったか。ある一時期、この詩人もまた、いまでいう「カルト」に誘引されたのでした。それは、彼自身の苦悩を癒やすためというよりは、「世のため、人のため」という「大義」によってだったでしょう。中野さんにとって「モルヒネ」は却って、痛みや苦悩を深めたものだったかもしれない。ぼくが彼に惹かれたのは、その「理由」のつかない「カルト」への惑溺とそれとの決死の戦い、および国家権力との軋轢、それらの二重三重の葛藤に苦しんだのではなかったかということにありました。
「たゝかれることによつて弾ねかへる歌を/ 恥辱の底から勇気をくみ来る歌を/ それらの歌々を /咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ /それらの歌々を/ 行く行く人々の胸廓にたゝきこめ」
その中野さんには比べるべくもなく、ぼくの青年時代は「軟弱」「惰弱」「怯懦」「懦愚」そのものだったということを、中野さんを熟読することで嫌になるほど見せつけられたのでした。
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● 中野重治【なかのしげはる】=詩人,小説家,評論家。福井県生れ。東大独文科卒。金沢の四高で窪川鶴次郎らと知り合い,短歌や詩,小説の習作を発表するようになる。またこの時期に室生犀星を知る。東大入学後,1926年には窪川,堀辰雄らと《驢馬》を創刊する一方,新人会に入会,マルクス主義,プロレタリア文学運動に向かう。日本プロレタリア芸術連盟,〈ナップ〉,〈コップ〉の結成に参加。運動の方針をめぐる議論のなかで多くの評論,詩,小説を発表。《中野重治詩集》に収められた詩はほとんどこの時期までに書かれた。1931年日本共産党に入党,1932年検挙,投獄され,1934年〈転向〉し,執行猶予の判決で出所。再び筆をとり,《村の家》《歌のわかれ》《空想家とシナリオ》《斎藤茂吉ノオト》などを1940年代初頭にかけて書きつぐ。敗戦後,間もなく日本共産党に再入党。また中心メンバーとして《新日本文学》を創刊,平野謙らとの〈政治と文学論争〉は戦後文学の開始を告げるものとなった。1947年―1950年参議院議員。《むらぎも》《梨の花》,共産党〈徐名〉後の《甲乙丙丁》など,評論も含めての旺盛な文学活動を死の間際まで続けた。(1902―1979)(マイペディア)
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台風十四号の余波ではなく、その本体の影響がまだまだ続いています。空は暗く、風は時に強く、油断のならない日ではあります。台風の被害者として、何人かの方が亡くなられたと報道がありました。異国では「やんごとなき方の国葬」とやら。内国では「正直ではなかった方の国葬」反対で、一万を超える人々が台風のさなかに行進したとも。異国にも「王室制度」があります。ぼくは、どこの国であれ、これには異論があります。誰であれ、亡くなられたということには、当たり前の感情として、悼む気持ちがあります。その「皇室」「王室」制度という政治の道具は「時代の遺物」。だから残すべきなのか、いや廃れるに任せるのがいいのか。いずれ、これについては駄文を綴るかもしれません。

中野さんの全集(確か筑摩書房版だったと記憶している)が書庫に眠っているような有様です。この機会に再読三読に及びたいですね。数奇な、あるいは波乱万丈の人生を送られた人という印象がぼくには強いし、学生時代から、特に気になる作家(文学者)でもありました。いろいろな意味で、時代の奔流に弄ばれながら生きた人ではなかったでしょうか。また、柳田國男さんとの交友にも興味を持ったことでした。戦後に復活した雑誌「展望」にはよく中野さんの文章が出ていて、この雑誌もぼくには背伸びしながらの「愛読誌」とはなったのでした。二十代末までの時期、ぼくはとびきり背伸びをしていたなあと、今でも思います。それがよかったとは言いませんが、背伸びするから見えるものがあったという意味では、必要な経験ではあったでしょう。それ以降は、一切背伸びをしなくなり、等身大の我が儘を通してきたことになります。

朝、ラジオを聴いていたら「悔いはあるけど、後悔なし」というプロ野球選手の言葉が耳に入りました。ぼくには「悔い」も「後悔」もあるけど(二つの語はいっしょじゃない?)、それもまた人生、とひばりさんのように謳いたいところ。「ああ、川の流れのように」です。
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