
【斜面】出版人の五輪汚職 敗戦から3カ月後。角川源義(げんよし)(1917~75年)は自宅を事務所に角川書店を創業する。49年5月に創刊したのが角川文庫だ。第1回の配本はドストエフスキーの「罪と罰」。翌年には現在のサイズに改装し、文庫ブームに火を付けた◆今も刊行が続く文庫の巻末には源義の発刊の辞がある。敗戦を〈自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた〉と総括。〈出版人の責任〉を顧み、文庫を〈学芸と教養との殿堂として大成せん〉と誓っている◆子どものころから文学に親しみ、親の反対を押し切って大学の国文学科に進んだ。戦争が始まると繰り上げ卒業になり、2度召集された。発刊の辞には文化によって国の礎を築き直すとの熱い思いがほとばしる。その源義の次男歴彦(つぐひこ)氏は東京五輪にどんな価値を見ようとしたのか◆スポンサー選定を巡る汚職事件の贈賄容疑で逮捕された。新時代のコンテンツを開拓し、業績を飛躍させたKADOKAWA会長である。受注した公式ガイドブックに文化的な価値があるとは思えない。五輪利権に群がる人々の列に加わっただけなのか◆源義は秀句を多く詠んだ。〈くらがりへ人の消えゆく冬隣〉。本紙「けさの一句」で土肥あき子さんは解説している。「くらがり」は不気味な口を開いている冬の象徴。避けようもなく吸い込まれていく人の背をなすすべなく見送っている、と。次男の背を源義はさぞ不安げに見ていよう。(信濃毎日新聞・2022/09/16)

角川源義さんに抱いた印象は「いかにも文人だなあ」でした。それが書店の創業者でもあったのですが、いつまでもぼくの中では、「角川のカラー」は地味だった気がします。俳句・和歌の出版には定評があったし、それなりの著者(文学者・俳人など)が揃っていたようにも思います。ぼくは柳田國男さんの角川文庫版はすべてもっていましたし、その他の人のものでも同様に、文庫本では揃えてみようという邪念が起こったんですね。若気の至りでした。店主の源義さんのものもよく見、よく読みました。彼の師匠は折口信夫(釈迢空)さんで、あるいは、師から受けた薫陶は思わないところで匂いだしていたことでしょう。また、源義さんは飯田蛇笏をこよなく尊敬していたということを知り、ぼくはまるで自分のように嬉しくなったことを覚えています。俳句がまるで「真剣」のような営為な切れ味を期待していたのでしょうか。「寸鉄人を刺す」という具合に「俳句」を捉えていたのかもしれません。
二代目(春樹さん)、三代目(歴彦さん)に関してはほとんど知るところはありません。二代目は俳句をよくしていた方だということは早くから知っていたし、それらのいくつかを、ぼくは好んでいました。人物に寄せられた世評とは大きな裂け目がある句作品の雰囲気だった。しかしそれが一点、本業の「商売」となると驚くばかりの「やり手」だったという印象があります。映画に思い切り突破口を開いた方だった。出版というものに対して、父親の描いた軌跡とはまったく方向が違っていたようです。

三代目になると、なぜだか、あらぬ方向に走ったという気がしないでもありません。二代目が(麻薬」で捕まった直後に登場した際、じつに地味に写ったものでしたが。実際は、二代目よりも遥かに「やり手」だったということでした。出版業は先細りだから「角川」という看板は古い、だから「KADOKAWA」と名称変更(看板の架替)が行われたのでしょう。看板が変わっただけではなく、中味も一変したかもしれません。その途中での出来事が「五輪疑惑」だったのでしょうか。まだ「容疑」の段階ですから確かなことは言えません。しかし、生き馬の目を抜くような他業種と伍して「五輪スポンサー」に名乗りを上げるほどでしたから、それだけ、出版界の現状を打破したいという「覚悟」はあったのでしょう。文学や文化もいいけれど、とにかく「勝負」には勝たねばならぬと言う気性がいつしか芽生えていたのでしょうね。
ぼくは商売っ気はまったくない人間ですからから、売上第一、盛業一途に走る企業家の信条がわかりません。会社の売上げを二倍、三倍にしたいというのは、どんな商売人でも持つ野心なのかもしれないし、それは当たり前の「経営哲学」に基づくのでしょう。あるいは同業他社との生存競争に勝つためには、異業種への転身をも図らなければならぬということだったかもしれない。出版業の行末を見据えたら、この際は、従来の慣行やしきたりに縛られてはならないということだったのかも。ニコニコ動画との共同事業の話を早い段階で聞いた時(ニコ動の内部の人から伺った)、「よくやるね」と思った。でも、どんな理由があるにせよ、「羽目を外す」というのは論外ですね。現段階で、事件の顛末は不分明のことばかりですから、いずれ事態が明らかになった暁には、話したくなることがあれば、なにがしかを駄弁るつもりです。「売家と唐様で書く三代目」だったか。(右下写真)

東京五輪の当初の予算は七千億円余でした。決算が公開されていない(そもそも、五輪関係の金の出入りは一切明らかにされていないのは「組織委員会」が「財団法人」だからだと言う、理不尽な。(巨額すぎる税が投入されていたのですよ)巷間言われている説では、五輪関係の資金は「3兆円超」だとも。好き放題に税金投入を要求し、済んでしまえば、後の祭りと言うらしい。この後はまた、大阪万博であり、札幌冬季五輪が来る予定というから、よほど金になるイベントらしいし、それを招き寄せる「招き猫」が由緒ある「取り仕切り屋」だったんですな。それに巻き込まれる業界人も後を絶たないし、魑魅魍魎を右往左往させる「DEN✖✖」は、さらに、ますます健在だと言う。この島国の行末も五里霧中といえばいいのか。昔「陸軍」、今「DEN✖✖」というようだ。(今に判明したのですが、実は「東京五輪」は「神宮外苑」という不動産のお宝、言うなれば、東京都以外の他者には手の出しようのない「金城湯池」だった、最後の大規模再開発計画の、その序の口・突破口だった。今は亡き都知事は早い段階から、再開発の青写真ならぬ、黒写真を描いていたのです。これも全貌が明らかになるときには、もうすっかり時効というか、「噂」の賞味期限が切れているのです。今外苑のイチョウだったかなんだかを「千本切る」という、その騒動に惑わされませんように)

広告会社を看板にしてきたこの会社は「吸血鬼」の如く、満州事変以来、この劣島の「生き血」を吸い続けています。国も地方も、そのために「重度の貧血症」に罹患しているのですが、病膏肓に入(い)るという言葉通り、手のうちようがないほどの弄ばれ方です。故元総理の「国葬」も、この会社案件でしたな。満洲事変時は電報会社でしたが、政界の人脈作りに執心した結果、ついにはシロアリのごとくに「国家」の土台ごと食いつぶしてきたのです。マスコミ(新聞テレビなど)は言うに及ばず、今では防衛省の武器調達でもすさまじい増殖力を見せている。コロナ禍も「千載一遇の好機」と見た。あらゆる領域で根を張るという点では、雑草なんでしょうが、この雑草は他の草種を完膚なきまでに枯らしてしまうという、まるで有毒性除草剤「ラウンドアップ」も顔負けと言うべきだろうね。
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源義さんの句を少しばかり。
・灯ともせば雨音渡る茂りかな
・秋風のかがやきを云ひ見舞客
・鳥影や遠き明治の冬館
・何求(と)めて冬帽行くや切通し
・篁(たかむら)に一水まぎる秋燕
それにしても「角川」が「KADOKAWA」に変わったのは、転生でもあったろうし、変容(変身)でもあったのでしょうが、脱皮が思わぬ「醜悪な姿」を生んでしまったのか、「角川」の一読者としては、残念というほかない。「文庫発刊の辞」がいまさらに思い出されてきます。初心と言うか、初念というか、そこへ戻ることはできないんですか。
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● 角川源義(かどかわげんよし)(1917―1975)=角川書店の創立者であり国文学者。大正6年10月9日富山県生まれ。1937年(昭和12)、当時国学院大学教授であった折口信夫(おりくちしのぶ)の学風にひかれ入学、1941年卒業。角川がたまたま手にした河合(かわい)栄治郎の著書の欄外に「目がつぶれるほど本が読みたい」という書き込みがあるのに感動し、1945年(昭和20)11月に角川書店を創業したといわれる。1949年角川文庫を発刊。第二次世界大戦後の第一次文庫ブームの端緒になる。1952年『昭和文学全集』全60巻を発刊、爆発的売れ行きで全集ブームの契機をつくる。角川の学問への情熱は厚く、1961年『語り物文芸の発生』で文学博士の学位を受ける。1964年以降、国学院大学文学部講師を務める。句集『ロダンの首』などがある。昭和50年10月27日死去。(ニッポニカ)
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