雉も鳴かずば撃たれまい ー ほんとに撃たれない?

 【くろしお】国鳥 野鳥の観察を始めた知り合いが「キジをまだ見てない」という。宮崎市でも郊外の河川敷やあぜ道で、たまに見かけるのでポイントを教えた。キジとはまさに「でくわす」感じ。顔を見合わせて互いに驚く。▼キジは飛ばずに、とっとこ走って逃げ出す。その足の速いこと。春は「ケーン」と高く鳴いていたが、今の季節も茂みの中にいるはずだ。元生物の先生で岐阜県恵那市の山中に住む伊東祐朔さんが最近「日本の美 国鳥『雉(きじ)』」という写真集を出して送ってくれた。▼そう、キジは「国鳥」。日本鳥学会によって選ばれた非公式な称号だが、日本を代表する鳥として愛されている。真っ赤なほっぺが特徴的な鳥だが、軽トラの荷台から撮ったというキジの羽、特にオスの模様と色合いは複雑で見飽きぬ美しさだ。長い尾も堂々としている。▼トキでもタンチョウヅルでもなく、キジが国鳥になったのはなぜだろう。日本固有種の留鳥ということもあるが、童話・桃太郎の従者になるなど古来、人々の暮らしに身近な存在だからと推測する。ところで本県の県鳥コシジロヤマドリもキジの仲間だが、残念ながら野生ではめったに見かけない。▼国蝶(ちょう)(オオムラサキ)、国旗、国歌…。「国」を冠すると重厚さが格段に増す。なじみの薄かった「国葬」はどうだろう。安倍元首相の国葬に否定的な意見が増す。岸田首相は弔問外交の意義も挙げたが、広く国民の理解を得るには丁寧な説明が求められよう。(宮崎日日新聞・2022/09/07)

 国鳥が「雉」であるとは、知りませんでした。公式であれ、非公式であれ、国鳥として指定された雉にとっては幸いであったかどうか。猟師はいろいろな獲物を狙いますが、この「(非公式)国鳥」は各地で撃ち殺されています。ぼくがうんと小さかった頃、雉は大変に貴重な鳥(食料源)でした。名前は知ってはいたものの、それを口にしたことはなかった。タンパク源としても高価なものだったように記憶しています。今では拙宅の、荒れ放題の庭にもやってきます。散歩中にはいつでも出くわします。「これが国鳥か」という意識はぼくにはないし、こんなところにウロウロしていると「撃たれるよ」という気になることもありません。この近辺で、雉を撃ち殺して食べるという話はあまり聞きませんから。 

 本日のテーマは「ものをいう」の是非です。昔から「雉も鳴かずば撃たれまい」と、国鳥に対して恐ろしい「俚諺(りげん)(ことわざ)」が伝えられてきました。恐らく、極めて限られた地域で使われていたものだったでしょう。その言うところは、以下の「解説」にあるとおりです。この「俚諺」の出所は明らかではなく、時には「日本昔ばなし」の「人柱伝説」(石川県)からとするようですが、ぼくには、その真偽はわかりません。もっと、わからないのは、「鳴くのは雉の本能」であって、鳴いたら撃たれるとはどういう加減か、理不尽な。「雉」ではなく「鳥」とする場合もあります。雉にしろ鳥にしろ、鳴くなというのは酷というもの。鳴こうが鳴くまいが、猟師は撃つことに勇むばかりです。

 それを人間用に応用し「余計なことは言うな、撃たれる(口は禍いを招く)ぞ」と、一体誰が言ったのか。「口は禍の門」「舌は禍の根」「病は口より入り、禍は口より出ず」と、じつに「口に気をつけろ」「余計なことは言うな」と、ひたすら黙らせることに懸命な様が見られます。一体誰が言うのでしょうか。「黙っていればいい」という沈黙のすすめは誰の差し金なんでしょうか。「沈黙は金」だともいう、本当に「口」の始末に往生している様子が見えてきます。(まんが日本昔ばなし「雉も鳴かずば」https://www.youtube.com/watch?v=Ut5RkKTb6YE

 コラム氏の言う「『国』を冠すると重厚さが格段に増す。なじみの薄かった『国葬』はどうだろう」はどうだろう。「国」が決めたんだから、文句をいうなといいたいのでしょうが、さて面妖な。いったい、「国」とは何のこと、誰のことか。「朕は国家なり」というたぐいなら、御免被るし、その「朕」なるものにも、即刻に退場を願うね。「国」を冠すれば「重厚さが格段に増す」と仰るか。「国賊」はどうか。「国債」は?「国辱」も(「売国」も)ありますよ。重厚ではなく、罪深さがいや増すということですね。「国」は入れ物みたいなもの。人民が雨露をしのげるための装置で十分です。それがやたらな装飾を図るからややこしくなるのです。といえば、「余計なことは喋るな」と言われるか。「余計」とは、誰にとってなのか、それが問題でしょう。

● キジ(きじ / 雉)(pheasant)=広義には綱キジ目キジ科キジ亜科キジ族に含まれる鳥で尾の長いもののうち、クジャク類とセイラン類以外の総称。狭義にはそのうちの1種。/ キジ科には5亜科があり、そのうちのキジ亜科は、ウズラ、コジュケイなど比較的小形で尾の短い種を含むヤマウズラ族と、大形で一般に尾の長いキジ族とに分けられる。キジ族には、ジュケイ属Tragopan、ニジキジ属Lophophorus、キジ属Phasianus、ヤケイ属Gallus、コクジャク属Polyplectron、クジャク属Pavoなど、16属約50種が属し、アフリカ産のコンゴクジャクを除いてすべてアジアに分布している。雌雄は異色異型で、雄は足に大きなけづめをもち、羽色と飾り羽の美しいものが多い。雌はじみな褐色のものがほとんどである。(ニッポニカ)

● 雉も鳴かずば打たれまい=自分から何も言わずにいれば、災いをこうむることもないというたとえ。/ [使用例] 一文を掲げ、だいぶ拙者に向かって挑戦せられているので、今ここに一管の筆を執っていささか応砲するの止むなきにいたったしだいだ。俗諺に言う「雉子も鳴かねば撃たれまい」とはこのことだ[牧野富太郎*本田正次博士に教う|1970]/ [解説] 長柄の橋などの人柱伝説とともに伝承された古歌「物いはじ父は長柄の橋柱鳴かずば雉も撃たれざらまし」の後半部がことわざとなった形です。事が起きてしまってから、当人の不用意なことばが災いを招いたと非難したり、責任を転嫁する用法も一部にみられます。(ことわざを知る辞典)

 ついでに、こんな「文句」が出てきます。いわく、「口は災いの元」、あるいは「物言えば唇寒し秋の風」という俳句まで。もちろん芭蕉作です。ぼくはこの句が好きですが、広く伝わる解釈(通説)には大反対です。「余計なことを言うな」と芭蕉翁は言ったとされるが、それは違うでしょうね。芭蕉は、断じて道学先生ではないと、ぼくは別の読み方をする。それが作者の句作動機にかなうかどうか、大いに怪しいが、「余計なことは喋らない方がいい」という抹香臭い解釈よりも、こちらを取りたいんだな。秋風が寒々と吹いている。こんな時は「口を開けない方がいい」「口を開けると、唇が寒くなるではないか」と、それだけです。冷たい風が開いた唇を冷やすのは、よくないね。「口を開く」は「喋る」ばかりをを意味しないのです。

 この句の出典は「芭蕉庵小文庫」(元禄九年三月(1696年)刊)という句集に出ています。編者は中村史邦で、蕉門のひとり。本職は医者でしたから、あるいは「医は仁術」なりとばかり、「道」を説いていたかもしれません。彼の編纂になる「小文庫 秋」の最後に「座右の銘 人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」と前書きして、「物いへば唇寒し穐(あき)の風」とあります。「他人の欠点を論(あげつら)うな、自分の長所をを見せびらかすな」と。芭蕉はこんな「説教」をしましたかね。これは史邦の態度(座右の銘)だったんじゃないですか。芭蕉は言う、口を開けるだけで、寒風が唇に吹き付ける、いかにも冷たい秋の風だな。

●物言えば唇寒し 悪口を言ったり、自慢をしたりしたあとは、寂しい気持ちになるということ。転じて、よけいなことを言うと災いを招くという戒め。[使用例] 泣くと地頭には勝つべからざる事を教えられたる人間たり。物いえば寒きを知る国民たり[永井荷風*江戸芸術論|1920][使用例] そういうふうに意味をストレートにとられてしまうところに座談のむずかしさがあるのだが、近ごろはぼくもなるべく安全圏を保っている。「もの言えば唇寒し」である[手塚治虫*ぼくはマンガ家|1969][由来] 「芭蕉庵小文庫―秋」が伝える、松尾芭蕉のから。この書物では、まず、中国の後漢王朝の時代の学者、崔瑗の「座右の銘」から、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ(他人の短所を指摘しない、自分の長所を自慢しない)」という一節が引用されたあと、「物いへば唇寒しの風」という芭蕉の句が掲げられています。                                          [解説] ❶崔瑗の「座右の銘」は、いわゆる「座右の銘」の本家。平安時代以降、日本でもよく読まれた名文集「文選」にも収録されていて、有名です。芭蕉はそれを踏まえた上で、悪口や自慢話につきまとう後味の悪さを、「唇寒し」と表現したのでしょう。ものさびしく吹く秋の風は、自己嫌悪の心象風景ともなっています。❷つまり、本来は「謙遜の気持ちを忘れないように」という戒めのことば。それが、「災いを招かないように」という意味に転じたのは、「唇亡びて歯寒し」の影響だと思われます。これは、助け合う片方が滅びると、もう片方にも災いが及ぶことを意味する、故事成語です。(故事成語を知る辞典)

● なかむら‐ふみくに【中村史邦】=江戸中期の俳人。別号、五雨亭。尾張国(愛知県)犬山の人。はじめ尾張藩寺尾直龍の侍医。仕して京に上り、仙洞御所に仕えた。元祿三年(一六九〇)京にあった芭蕉に入門。同六年江戸に下ったが、句作活動は衰えた。「猿蓑」に発句一四句がみられる。著「芭蕉庵小文庫」。生没年未詳。(精選版日本国語大辞典)

 秋風が「立つ」ということも言われます。もちろん秋風が「吹く」の言い換え(たとえ)ですが、秋を「飽き」にかけて「男女の仲がうまくいかなくなる」のに擬(なぞら)えるわけです。といえば、わが後期高齢者の二人に「秋風が立」って以来、何年になるのでしょうか。寒々と、まるで木枯らしのごとく、凍てつくように、というのは言いすぎかな。いずれにしても「秋の風」は、けっして「お勧めします」とは行かないようです。物申す、ものをいう、それは当たり前に生きている証でもあり、誰かにとって不都合なことだって言わねばならぬことがある。言われて気づく人もいれば、馬耳東風という輩もいる。特に政治においては「民意」を尊重する「フリ」が常時見られます。「国民の皆様のご意見を伺って」などと、しおらしい言葉だけは口にしますが、都合の悪いことには耳に栓をする、それが今風(いつでも風)政治風儀なのでしょう。

 物を言う、それは選挙の投票結果についても妥当します。最新の例です。沖縄知事選で現職が圧勝した。「米軍基地の辺野古移設」は絶対反対、それを正面から訴えて当選した。よく選挙で「選ばれる」といいますが、選ばれるのは候補者ではなく「選挙民」なのだと、はっきりと受け止めてもらいたいですね。候補者が選挙民に選ばれるのは表面のこと、実態は、選挙民が選ばれるのです。選挙の結果の示すところは、「辺野古反対」という選挙民が当選したのです。それを「辺野古移設が唯一の策」と、馬鹿の一つ覚えのように政府(国ではない)はいう。「最良の政策」と、十年一日のように唱えるのはなぜでしょうか。日米関係に照らして、下剋上はまかりならぬと、隷属政府(国ではない)として、一貫して束縛されているからです、身動きが取れなくなっているからです。

 民意を聞く、民意に聞く、民意を問う、なんとでも言いますが、初めから「不都合なことは聞きません」と言っているようなもの。政治そのものが民主主義を蹴飛ばし、踏み躙っているのです。沖縄県民の「民意はこうでした、だから辺野古移設はできません」と、政府はアメリカに言えないんですね。物申せない。「物言えば唇寒し秋の風」なんだかなあ。国ではなく、「日本の政府」が「アメリカ政府」の手下(てか・てした)だという意味でしょ。

 政府も行政も「国」ではない、でも「『国』を冠すると重厚さが格段に増す」と、本当にそう思っているのですから、各方(おのおのがた)は、手に負えない唐変木ですな。「国」は「庇(ひさし)」か「軒」みたいなもの、あるいは「家」だと言ってもよい。要するに、悪天候にさらされないために使い道のある、もの(道具)にすぎない。「国が決める」というが、それは国を騙(かた)る(詐称する)手合の使う常套手段です。

 「国」が頭につこうが、後ろにつこうが、重みが増すんじゃなく、虫酸が走るんです、ぼくは。国難というのは、何なんですか。誰の責任でこの始末をつけるんでしょうか。まさか、人民を「人柱」にするつもりじゃないでしょうね、いやとっくにそうしているんでしょうか。国難去って、また国難。国難は続くよどこまでも。国難というけれど、その地に住む「人民が蒙る災難」なんですね。

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