答えようのない問いが続く、それが人生かも

 【河北春秋】○か×か。可能な限り早く答え、点数を稼ぐ。面倒くさそうな「なぜ?」が浮かんだら、適当にふたをした。30~40年ほど前の記憶である▼こうした学びの対極にある「子どものための哲学」。他者の発言に耳を傾け、対話を通じて正解のない問いを深く考える。1970年代に米国の哲学者マシュー・リップマン(左写真)が始めた活動だ。テーマは例えば「なぜうそはいけないのか」「なぜ規則はあるのか」。何を話しても否定されず、無理に発言を求められることはない。安心して話ができる場を設けることが対話を成立させる大前提だ。一定の結論に導くこともしない▼日本では道徳の授業に取り入れる学校が増えてきたものの、「誠実」や「礼儀」といった美徳の教え込みに慣れ親しんだ教員には違和感があるらしい。「あるべき姿」を伝えたくなる気持ちは理解できるが、思考と対話を無効にしてしまう▼『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』を監修した哲学者の鷲田清一さんは「哲学とは問いを見つけることである。問いを育てるものである。問いを表現するものである」と寄せている▼解決が困難な事象に直面し、たじろぎながらも発する子どもたちの問いそのものを大切にしたい。多様性を認め、尊重し合える社会にきっとなるはず。(河北新報・2022/09/08)

 かなり前にも、小学生などを前にした塩梅で、「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いがマスコミを賑やかにしていました。立派そうな大人が「これこれ、こういう理由で人を殺すのはよくない」などと卓見を披瀝に及んだ。そのどれもが「高論卓説」だったとぼくには見えました。だが、と疑問に思ったこともまた事実でした。人を殺したら、「自分も殺されるから、…」「殺されたくないから、殺さない」などという意見(御高説)が多かったようでした。しかし、それには大きな疑いが残りました。人を殺す理由はたくさんあるのに、殺してはいけない理由が似たようなものだったからです。いわゆる「文化人」とか「知識人」と称される(自称他称)大人が、精一杯力説していたのが、ぼくには異様に思われたのです。その殆どが、「説教」「垂訓」じゃないかとも思いました。

 ここで言いたいことがそんなにあるのではありません。率直に言えば、「本当に人を殺してはいけないんですか」「どうして駄目なんですか」という、もっと根本の問題にぼくは引きつけられてきたからです。それに対して、ぼくはたった一言、「ぼくは人を殺さない」、そのように覚悟するばかりです。もちろん、これは「人を殺してはいけない」という「理由」にはなりません。でも、その「覚悟」以外に、「人殺してはいけないのは、なぜか」という問いに向き合うことは、ぼくにはできそうにない。「人殺しは悪い」と言う前に、ぼくは人を殺すことはしないと、心中密かに決めているのです。

 この社会の刑法では「人を殺してはいけない」という規定はありません。なぜでしょうか。どんなに厳格な規則や法律を作ったところで、「殺人」はなくならないという「暗黙の了解」が存在しているからでしょう。人を殺せば、「死刑または無期懲役、または…」という条文があるのは、けっして殺人の抑止力としてではない。法律は道徳ではないからです。良い比較ではなさそうですが、よく問題にされる道路交通法に「第65条 第1項 何人も、酒気を帯びて車両等を運転してはならない」とあります。刑法では、このような条文は「殺人行為」に関しては準備されていません。その理由は何か?この問題は、法律よりももっと深い問題をはらんでいるように思われます。(寝起きの脳細胞にとっては、深くて面倒な問題ですから、今は深掘りはしないでおこう)

 「人を殺してはいけない」という条文はないけれど、もし殺人事件を犯したら「死刑または…」とあるのは、法律に書くまでもなく、人を殺すのはよくないと誰もが承知しているからだともいえます。そう思いはしますが、誰もが承知しているかどうか、ぼくには疑問です。江戸時代までは「仇討ち」は存在していたし、いまだって「正当防衛」には情状酌量の余地があります。(暗黙のうちに、「殺人にいたる行為」を認めていた・いる節があります)闇雲に、殺人はいけない、悪いことだというのではなく、時には「止むぬやまれず」ということだってある。あるいは「相手を殺さなければ、自分が殺される」ということも、いつだって起こりえます。なんでも規則で禁止してしまえば、人間に求められるのは規則を守るか、破るかの選択の問題でしかないでしょう。「死刑」制度があるから、「何人も殺人はしない」ということは断じてありませんね。また「国民」に対して殺人は懲罰・懲戒の対象だと言いながら、国家はその名において「死刑という殺人」を正当化しています。これはどうでしょうか。ほとんどの人は「それは当然だ」というでしょう。しかし、その殺人事件が「冤罪」だったと明かされたなら、「国家の死刑執行(殺人行為)」はどうなるのでしょうか。どうにもならないから、次善の方法として「賠償(金で解決する手法)」制度があるのでしょう。政治や法律の問題なら、そんなに面倒ではない、そうじゃないから「答えようがない」のではないでしょうか。

 国家は「殺人を犯したもの」を死刑にすると決まっているか。それはないでしょう。日本は死刑制度を維持していますが、そうではない国はたくさんあります。あるいは一つの国においても、死刑を容認する州もあれば、廃止(禁止)している州もある。また、死刑制度を途中から廃止する国もあります。このことは何を示していますか。国家及びそれが制定する法律と言うものの「恣意性」です。同じ事件(仮定の話)が、一審で無罪、二審で有罪ということもありますす。これは何を教えているんですか。問に対して答えは一つではないということだし、何が「正解か」、簡単には決められないということでしょう。

 「哲学とは問いを見つけることである。問いを育てるものである。問いを表現するものである」という鷲田さんの見解はそのとおりです。問いを見つけるとは、見過ごしがちな問題に、あるいは、誰も不思議に思わない事柄に「疑問」を持つ(発見する)ことです。「疑う」という姿勢こそが、他人に寄りかかったり、自分で考えることを放棄しないための最良の道(方法)です。「どんな問題にも、正解は一つ」という教条(ドグマ)が、人間を愚かにする最大の武器になっていると、ぼくは自らの学校教育(就学)時代、さらには教師の真似事をして身過ぎ世過ぎをして来た時代を通して肝に銘じてきたのです。「嘘をついてはいけない」と、偉そうに説教する人間が「自分は、一度も嘘をつかなかったか」と胸に手を当てれば、顔が赤くなるはずです。「交通信号は守りましょう」と教えられて、「青信号で横断した」子どもが車に轢かれることもあります。轢いた方が悪いということと、守るべきルールを守って、なおかつ「死ぬ」ということに、大きな割れ目があります。信号は無視しましょうというのではありません。青信号だから横断する、その前に「不注意な運転手」もいるから、車が来ないか確認する、むしろ、「確認」するほうが「規則」よりも根底になければ、いわゆる理不尽な事件や事故に遭遇してしまうのです。規則を守る以上に、その規則によりかからない「注意深さ」が大事なんですね。(それでも、事件や事故は起きます)

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 8月末の新宿駅であった駅員のアナウンスが、それ以降も物議を醸していましす。「痴漢をされたくないお客様は…」と乗客にある情報を伝えたのです。埼京線は「痴漢最悪線」だと、知れ渡っています。この問題について、ぼくも実際に、いやになるような経験をしましたが、それは割愛しておきます。

 「駅係員 : 防犯カメラは多く設置しておりますが、痴漢は多くいらっしゃいます。痴漢をされたくないお客様は後ろの車両をぜひご利用ください。 帰宅ラッシュ時のJR新宿駅の埼京線のホーム。アナウンスの内容に違和感を覚え、カメラを回したという男性に話を聞くと… 撮影者: 「痴漢は多くいらっしゃいます」って、この辺の並んでいる男の中に必ずちょっとはいるよというニュアンスにも聞こえますし、私も並びづらくなりました。被害者側に「されたくなかったら移動しろ」っていうのは、女性の自己責任論にもつながりかねないと思います」FNNプライムオンライン:(https://news.yahoo.co.jp/articles/74812b4b69e4250593a77eacd38fe34ed9640430)

 痴漢行為はいろいろな条例や法律で禁止されています。でも犯行は絶えません。「なぜ痴漢はいけないのか」という問いを立てるのか、それとも、もっと別の角度から問題を掘り下げる必要があるのか。「正解のない問い」とコラム氏をはじめ多くの「識者」は言います。正解はないかもしれませんが、「ない」のは、たった一つとされる「正解」のことじゃないでしょうか。どんな事柄(問題)にも「正解一つ」はありえない。無数にあると言えば大げさですが、いくつも「答え」はある。その中から、今この状況で何が取られるべき答え(態度)か、その状況把握というか、場に即した応答、それがもっとも肝心なことではないか。その「願わしい答え」というのは、しかし、いつでも「仮の答え」「その場に合わせた答え」でしかありません。それが時間とともに修正を余儀なくされることは当たり前のこと。でなければ「唯一の正解」になってしまいますから。「正解は一つ」はドグマです。そうしないと、試験の採点が混乱するじゃん、と教師。それだけの話しです。

 問いの中にこそ、答えがあるんですね。問いと答えは「一対」ではないんです。だから、何度でも「問い直す」ことが重要になります。考える、考え抜く、考え直す、考えあぐねる、この姿勢を放棄しない限り、人は「思慮深い」「注意深い」という美点を育てられると思うのです。英語の think、あるいは thoughtful という語をぼくはとても好んで使ってきました。いろいろな解説がなされますが、その一例を以下に。

1〈人・表情・様子などが〉考え込んでいる,物思いに沈んだ,思いにふけった,思索している。2〈人・論文・講義などが〉思慮深い,用意周到な。 3〔叙述〕〈人が〉(…を)気にかける,注意する≪ofabout≫;〈人・行為などが〉(…に)思いやりのある,情け深い,親切なofaboutfor≫;〈贈り物などが〉心尽くしの」(デジタル大辞泉)

 「よく考える、考えられる」というのは、直面する問題にのみ妥当する態度ではなく、他者に対しても通じる姿勢であり能力でもある。「思いやりのある,情け深い,親切な」、それが「考える」という行為の真髄ではありませんか。優しくなりましょう、注意深い人間になりなさい、そう言われたから、たちどころに、そのようになれるものではありません。「人を殺してはいけない」といったところで、かならず過ち(間違い)は起こります。その過ちを起こさない力を付けるのはもちろんです。しかし、犯した過ちをどのように受けとめるか、過ちという経験を、その後に活かすための態度(思考)を育てるのも、「考える」という行為・態度の深浅に関わってきます。学校の教師は「よく考えてごらん」という。そう言って何を求めるのでしょうか。「考える」という行為がどういうものかがわからなければ「下手な考え、休むに似たり」です。「考える」を子ども自身が経験する、そのためには時間がかかる。時間をかけてはいられないのが「学校教育・授業」ということになっていませんか。

 「解決が困難な事象に直面し、たじろぎながらも発する子どもたちの問いそのものを大切にしたい。多様性を認め、尊重し合える社会にきっとなるはず」とコラム氏は言われます。たしかにそうですが、「子どもたちの問いを大切にする」というのはどういうことですか、ぼくはコラム氏にお尋ねしたい。「質問」ということも学校では評価され、推賞されます。「質問はありますか」「質問、ありませんか」と。「質問」というものをもっと大事にしてほしいね。質問とは、答えを見つける最良の方法なんですよ。質問する中に、答えらしいものは含まれているから。筋のいい質問は、それ自体、すでに一つの答えになっているんです。それを含めて「出された問題に、正解は一つ」という嘘とごまかしを、金輪際、止めてもらいたいですね。どう考えたって、それはありえないことですから。

 敢えて言います。「正解のない問いを深く考える」「解決が困難な事象に直面し、たじろぎながらも発する子どもたちの問いそのものを大切にしたい。多様性を認め、尊重し合える社会にきっとなるはず」と言うのは重要な指摘です。しかし、子ども時代にそのような経験を重ねなかった大人はどうなるのか、どうするのか。それが今の、この島社会の現実(リアリティ)であるということでしょう。「嘘をついてはいけない」と教えられたから、かえって「嘘つき」が増えるということだってあるんだな。

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 (『ちいさな哲学者たち』予告編:https://www.youtube.com/watch?v=0h2XbQVo4vA

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