行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原

 萩(はぎ)の季節になりました。好きな草花は数知れずあります。その中でもとりわけ好きなものの一つが「萩」です。どこがいいと言って、出しゃばらないというか、「名もあり 清く 美しく」という萩流(はぎりゅう)がいいですね。牡丹などが横にいると、萩は恥ずかしそうに、消え入らぬばかり隠れてしまいそう。そんな幹や枝葉、更には小粒の花が、なんとも言えずに、ぼくには好もしいのです。今風に言うと、まず「センター」を取ろうという邪念がないのがはっきりしている、いつでも背景に控える、その姿にぼくには惹かれる。それと直接結びつくものではないのは当たり前ですが、焼き物好きのぼくには「萩焼」の清楚な形(雰囲気)に通い合うものがあって、なおさらに好みが増すのです。

・雨の萩風の真秋とゆふべ哉 ・痩萩や松の陰から咲そむる ・咲日から足にからまる萩の花  
・せい出して散とも見へず萩の花 ・のら猫も宿と定る萩の花 ・山里や昔かたぎの猫と萩 
・露の世を押合へし合萩の花 ・秋萩やきのふこぼれた程は咲 (一茶の句から)

 「痩萩(やせはぎ)」と詠み、「足にからまる萩の花」と詠む。「せい出して散る」とは思えない、その遠慮がちな佇まいに、一茶(ばかりではない)は親しみを持ったのでしょうか。萩を好むのは人間ばかりではありません。一茶の句には「猫と萩」がしきりに出てきます。「のら猫の宿」となり、「山里」には猫と萩が似合うとも言う。ぼくの好まない「花言葉」ではありますけれど、萩は「思案」と「柔軟な精神」だという。細い枝に葉をたくさんつけ、いかにも垂れ下がりながらも、地を這いつつ、ゆっくりと花をつけるのです。

 いきなり芭蕉です。「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」「しほらしき名や小松吹萩すすき」「しら露もこぼさぬ萩のうねり哉」いずれも「奥の細道」のもの。石川県や福井県や近江あたりを歩いた際の作です。解説は無用で、萩の風姿を詠んだ、芭蕉の心持ちを想像してみるばかりです。連れは曽良でした。

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 「ハギ(萩)は秋の七草の一つとして古くから日本で親しまれてきた落葉低木です。万葉集でも多く詠まれて来ました。秋の花のイメージが強いですが、夏の盛りから咲き始めて秋の初めには満開になります。日本では山野に自生していたり、庭木としても使われています。ハギ(萩)はマメ科の植物なので根に根粒菌を持ち、土壌を肥沃にする特性があります。/ ハギ(萩)は枝垂れるように枝を伸ばして直径1~1.5㎝くらいの赤紫色の花をたくさん咲かせます。生育旺盛で刈り込んでもすぐに大きく枝を伸ばします。暑さ寒さに強く丈夫な性質で、病害虫の発生もほとんどありません。冬は葉を落としますが、春に再び芽吹きます。ハギ(萩)は株分けで増やすことができます。/ ハギ(萩)という名の由来は諸説ありますが、古い株の根元から新芽が良く芽吹くことから「生え木(はえき)」→「はぎ」に変化したと言われています。/ ハギ(萩)の「思案」「柔軟な精神」という花言葉は、ハギ(萩)の控え目な美しさや少し寂しげな風情に由来すると言われています。(LOVEGREEN)

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● はぎ【萩】〘名〙 マメ科ハギ属の落葉低木または多年草の総称。特にヤマハギをさすことが多い。秋の七草の一つ。茎の下部は木質化している。葉は三小葉からなり互生する。夏から秋にかけ、葉腋に総状花序を出し、紅紫色ないし白色の蝶形花をつける。豆果は扁平で小さい。ヤマハギ・マルバハギミヤギノハギなど。はぎくさ。《季・秋》※播磨風土記(715頃)揖保「一夜の間に、萩一根生ひき」※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)市振「一家に遊女もねたり萩と月〈芭蕉〉」(中略)(⤵)

[語誌]「秋はぎ」とも呼ばれるように秋を代表する植物で、「万葉集」では秋の七草の筆頭に挙げられ、植物を詠んだ中で最も歌数が多い。もと「芽」「芽子」と表記され。/ (2)平安時代以降、鹿、露、、雨、風などと組み合わせて、花だけでなく下葉や枝も作詠の対象となり、歌合の題としても用いられた。特に鹿や露との組み合わせは多く、「鹿の妻」「鹿鳴草」などの異名も生まれた。一方、露は、萩の枝をしなわせるありさまや、露による花や葉の変化などが歌われ、また、「涙」の比喩ともされ、「萩の下露」は、「荻の上風」と対として秋の寂寥感を表現するなどさまざまな相をもって詠まれた。/ (3)「古今‐恋四」の「宮木野のもとあらのこはぎつゆをおもみ風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」などから、陸奥の歌枕の宮城野との結びつきが強い。(以下略)(精選版日本国語大辞典)

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 萩は野生の草花で、あえて庭に植えるということをするようになったのは、きわめて新しい。それだけこの島の山野が荒れてしまったという証拠でもありましょう。これは萩に限ったことではなく、ほとんどのものは自生であり野生でありました。ぼくは桜が好きですが、だれもが行かない山の中に、時期になって咲き出そうとしているものを何度も訪ねてきました。誰かに見られるため、見せるために咲くのではなく、じつに淡々と、植物の本能の表出として咲き、散る。偶然のように、そんな桜花に出会うということは、じつに気分のいいものでした。「桜花爛漫」と言った風な見世物として、ぼくたちはそればかりを目当てに自然を評価しがちですが、人間の手の入らないところで、人間とは無関係に「植物」はそのものの生命力を保持してきたのでしょう。

 都会に住むということは、自然と切れるという意味であり、それは「不自然」であるということになるでしょう。人間は「自然の存在」だった。しかし、もはや自然と縁が切れてからは、向かう方向が皆目わからない難破船のように、右往左往というのが現実です。それがいけないとか、なんとかしろというのではない。どこかで精神の均衡を保たなければ、ついには精神の疲労(ストレス)が人間の生命力を削(そ)いでしまうのではないかと、ただひとり訝るばかりです。現役のサラリーマンをしてた時代、ぼくは「職住離間」、奇妙な言い方ですが、職場と住まいはできる限り離れていたほうがいいと考えていました。通勤時間は二時間弱。大きな川(隅田川・荒川・中川・江戸川など)を二つも三つも越えて通勤していたものでした。

 子どもたちが職場のすぐ近くに住んでいた時期がありました。しかし、ぼくは、そこには一度泊まったかどうか、どんなに遅くなっても帰宅しました(毎日が午前様だった)。かみさんが腹立ち紛れに鍵をかけて寝てしまっていたので、屋根に登り二階からようやく侵入した。時計は三時か四時。寝る間もなく職場に出かけたことも。それほどに「自宅」がいいというのではなく、帰宅する間に「ストレス解消」を求めていたからだし、猫の額にもならぬ箱庭にはすこしばかりの地面があり、そこに 申し訳程度に緑がありました。それを小一時間眺めているだけで、胃の痛いのが治ったものです。慢性の胃潰瘍が持病のようになっていましたが、それも胃薬や手術ではなく、植物の緑が治してくれた(今のところ)ようです。

 自然から離れれば、それだけ人間は足元がふらつくのでしょう。若い頃に、ルッソオという思想家をよく読んだ。彼は怪しい生い立ちと青年時代を送りながら、「社会契約論」「エミイル」「告白」などを書き、都市文明を呪い、自然を渇望した人間だった。歴史的には「フランス革命」を思想的に準備した思想家と評されたほどの人。その彼はまた、植物分類にも興味を持ち、リンネなどをとても評価していたほどでした。その彼から、ぼくは少なからず影響を受け、植物好きになったのです。もちろん、幼児からのおふくろの「感化」という土台もあったから、なおさら、植物が大好きになったといえます。

 秋の萩、そのこじんまりとした、柳のようなしなやかな、垂れ姿を見ているだけで、気分が落ち着いてきます。そのか細い枝にたくさんの葉をつけ、その葉に挟まれて、これまた小さな花が顔を出す。まるでその小さな花弁から、萩の香りが匂い立つような心持ちに誘われることがしばしばです。

行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原(曽良)

 芭蕉と連れだって歩いていた曽良は、加賀あたりで体調を崩し、師匠とは別れざるを得なかった。元禄二年八月のこと。曽良は伊勢だったかに縁者がいるといっていた。芭蕉は曽良を置いて、先を急いだ。その際に、曽良が詠んだのが、この句です。まるで辞世の句です。救急車を呼ぶこともできず、医者にも出会えず、とにかく行けるところまで行って、命が尽きて倒れても、そこが「萩の原」であるなら、私は本望だと、そんな心境が透けて見えます。萩は人を引き付ける植物でもあるんですね。ときに、曽良は四十歳。芭蕉は五歳年上でした。(ちなみに、曽良は信州は諏訪出身でした)

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● 曽良(そら)(1649―1710)=江戸中期の俳人、神道家。信濃(しなの)国上諏訪(かみすわ)(長野県諏訪市)の人。高野家に生まれて岩波家を(つ)ぎ、岩波庄右衛門正字(しょうえもんまさたか)と名のる。曽良は俳号。若いころ伊勢(いせ)長島藩に仕官、1683年(天和3)ごろまでに致仕(ちし)して江戸に下り、幕府の神道方吉川惟足(よしかわこれたり)について神道(しんとう)、和歌などを学び、やがて芭蕉(ばしょう)に入門。このころ河合惣五郎(かわいそうごろう)を通称としたか。1687年(貞享4)秋、芭蕉の『鹿島詣(かしまもうで)』の旅に宗波(そうは)(生没年不詳)とともに従い、1689年(元禄2)の『おくのほそ道』行脚(あんぎゃ)にも随行。その間に書き留めた『曽良旅日記』は奥羽北陸旅行の実態を綿密に記録したもので、『おくのほそ道』研究上の貴重な資料である。神道家としての活動は分明を欠くが、芭蕉死没当時にはなんらかの公務に従事していたらしい。1710年(宝永7)3月、幕府の巡国使の随員として九州方面に赴いたが、5月22日壱岐(いき)国勝本で病没した。彼は隠逸閑雅を好む、温厚篤実な人物であったらしく、その俳風は温雅である。(ニッポニカ)(左の画は「師弟二人」)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)