「鰯の頭も信心から」なら、カルトも宗教か

 【滴一滴】1987年以降、「青春を返せ裁判」と呼ばれた訴訟が全国各地で起きた。宗教団体と知らないまま洗脳され、入会させられて精神的苦痛を受けた―。元信者が訴えた相手は統一教会、現在の世界平和統一家庭連合である▼初めて元信者側の勝訴判決が出たのが岡山だ。2000年、広島高裁岡山支部は勧誘、教化などの教団による宗教活動そのものを違法と判断した▼翌年の札幌地裁判決は信仰の自由を侵害する恐れがあるとも踏み込んだ。正体を隠した勧誘は自由な意思決定を妨げるからだ。いずれも最高裁で確定したが、このところの教団を巡る報道では言及されることが少ないようだ▼30年以上も教団を相手に裁判で争ってきた郷路征記弁護士(札幌弁護士会)のオンライン講演を先月聴いた。街頭などで声を掛け、財産のある人、素直で信心深い人に狙いを定める。教団の手口は本質的には近年も変わっていないという▼不幸の原因は家系にあると不安をあおり、正常な判断力を奪っていく方法を教団は熟知していると郷路さんは指摘する。最初から統一教会と分かれば入信しない。宗教団体の正体を隠した布教活動を禁じるべきだ、と訴える▼宗教団体の規制には信教の自由を理由に慎重論もある。しかし、大事なのは個人が主体的に信仰を選べることだろう。必要な法整備を進めたい。(山陽新聞・2022/09/04)

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 “洗脳”手法を徹底研究、旧統一教会「伝道の違法性」を追及した第一人者の終わらない闘い 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る議論や指摘で抜け落ちている点がある。それは、旧統一教会の伝道・教化活動そのものが、国民の思想信条の自由を侵害する違法行為であるとする判決が確定していること、すなわち憲法違反という認識だ。/ その判決を1987(昭和62)年から14年間かけて勝ち取り、以降も違法伝道を白日の下に晒してきた第一人者が札幌にいる。/ 現在も3件の訴訟を闘い続ける旧統一教会の不俱戴天の敵ともいうべき郷路征記弁護士(全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人)に聞く。(以下略)(「弁護士ドットコムニュース」・2022年08月20日:ジャーナリスト・本田信一郎)(https://www.bengo4.com/c_8/n_14875/

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 数日前、友人が電話をかけてきました。「よく雨が降る」とか、「歳を取ると毎日が辛い」などという埓(らち)もない話をした上で、「心の問題」として「旧統一教会信者」の問題をどう考えるかということを訊いてきました。ぼくは、あれは「(統一教会に限らないが)信者とか信仰とか」いいますが、それは宗教の問題では断じてないと答え、敢えて言えば「洗脳」という「暴力」だといった。「洗脳」は「信仰」と同じではなく、敢えて言えば、それは、明らかな暴力、もっというと「拷問」ですらあると考えているとも話した。多くの「宗教教団」と称されるものが存在し、国家によって「宗教法人」の認証を受けているが、果たしてそれは「宗教」や「信仰」に値する事実・内容を有しているか、ぼくには大いに疑問とするところ。例えば、ある反社会的集団(暴力団)が正体を隠して、「教団」だと見せかけ、国家の認証を受け、信者獲得にあの手この手を使う、当人が気づいたら、時すでに「洗脳は完成・完了」しており、世の中がまったく異なって見えだしている、そんな、奇怪なことがまかり通ることもある。目隠しや耳隠しをされて、思考の自由を完璧に奪われて、「お経」を唱えたところで、それを宗教や信仰といいたいかもしれぬが、それはまったく言えない道理であり、そんな道理がどうしてわからんのか、そんな思いが募るばかりでした。

 上に紹介しようとしている郷路征記(ごうろまさき)弁護士は、「旧統一教会問題に関して、十四年かけて「信教の自由」違反容疑で裁判を起こし、全面的に勝訴判決を受けた人です。(詳細は上の記事を参照のこと)下記の引用部分は、「郷路征記が1987(昭和62)年3月に提訴した『青春を返せ訴訟』(郷路本人が命名)で、2001(平成13)年6月に言い渡された札幌地裁判決の一部である。2003(平成15)年に被告である旧統一教会の控訴は棄却、上告も棄却されて確定した」(同記事)

――(旧統一教会の伝道・教化活動は)社会的にみて相当性が認められる範囲を逸脱した方法及び手段を駆使した、原告らの信仰の自由や財産権等を侵害するおそれのある行為であって、違法性があると判断すべきものである――。

 ある人の「自由を拘束」した状態で「洗脳」する、その後で「宗教行為(霊感商法など)」に移るというが、はたしてそれは正しい宗教行為だと言えるか。どうして、多くの人や機関は、正面から「洗脳」は暴力だと断じないのでしょうか。不自由な状況下で、強制的に入信させられたのだから、(当人が入信したと言うけれど、考える自由を奪われた結果であるので)「信教の自由」を犯したものと見なければならないというのは、じつにまっとうな把握の仕方ではないか。他の裁判でも「信教の自由」を問題(争点)にした例がないのはどうしたことか。

 「信仰の自由が侵害されているという裁判をやっている弁護士は僕ひとりですから」というのは、郷路さんです。

 「現在、2世信者、宗教2世の苦悩がクローズアップされていますが、たとえば、その子どもたちが旧統一教会に損害賠償を求めることを考えた場合には、親自身が違法な伝道・教化によって信仰を持たされたというところを出発点にしないと責任の追及はできないんです。/ そこを問題にしないと苦しみの根源を問うことはできずに、単なる毒親問題になってしまう。それでは旧統一教会は痛くも痒くもないし、問題の本質に迫ることはできません」(同記事)

 「洗脳」とは何か。しばしば「思想改造」ともいうが、それは暴力を伴う強制的圧力のなせる事柄です。強制的転向であり、思想信条の自由を完璧に抑圧した上で、強制的に、頭脳に特定の教条を叩き込む。ある時期の学校でも、こんな恐ろしいことが「教育の名において」行われていたのです。思想教育、洗脳教育は、人間の自由を剥奪することから発生する。

● 洗脳(せんのう)=共産主義社会における思想改造をいう。中華人民共和国成立後、数年間にわたって旧体制の知識人などを共産主義体制に適合的な人間に改造する作業が繰り広げられたが、こうした作業を中国外の反対者は、非難の意味を込めて洗brain washingとよんだ。その後、このことばは、共産主義社会における強制的な政治的社会化を意味する用語として西側諸国に定着した。第二次世界大戦後、ソ連の捕虜収容所に抑留されていた日本軍兵士の洗脳が話題となったこともある。(ニッポニカ)

 今だって、いたるところで「洗脳」(時には「脅迫」「拷問」もある)は行われている。具体例は挙げないが、枚挙に暇(遑)なしです。「ウクライナ侵攻」(「信仰」ではない)でも盛んに「洗脳」による「ロシア化」が行われているではないか。これは間違いなく「暴力」=「強制」です。だから宗教であるなどと言うべきではなく、「(下劣な)政治の一種」だと言うほかにありません。信仰とか宗教ということに関しては、ぼくはまったく異なる視点から受け止めています。宗教や信仰は、ある人に取っては「生きる支え」ですが、それは「魂(たましい)の善用」(「魂の救済」)があって初めて言えること、カルトを宗教だと誤解する・したがる向きが多すぎるのは、じつに困った状況にあります。これも一種の「(ものを考えられなくなる)暴力下」に置かれたからともいえます。「強制」を伴うものは、宗教ではなく悪徳政治、それに尽きます。どんな政治にも(いろいろな意味で)「暴力」が伴う。政治を遂行する側からすれば、「暴力」は不可欠です。

 「洗脳」は一面では思想改造ですが、それは自らの意思で行われることがあるのは言うまでもありません。しかし大半は「外部からの(有形無形の)暴力」によるものです。これを「勧誘」とも「折伏)とも言ってきました。かかる問題に関して、この劣島には「禍々しい伝統」「消せない前歴」があるのではないですか。いわゆる「転向」問題です。詳細は省きますが、右から左、左から右、つまりは「右顧左眄」であり、右折・左折の花盛りでもありました。自らの信じる「絶対」を、他の「絶対」に変更すること、変更させられること、共産主義から国家主義へ、その反対もありえます。ラーメン等からソバ派に「転向」というのとはわけが違う。

● 転向【てんこう】=一般に〈権力の強制によって起こる思想の変化〉(思想の科学研究会編《転向》)。狭義かつ典型的には1930年代以降の日本のマルクス主義者による共産主義思想の放棄をいう。広義には反体制的・進歩的思想から体制的・保守的思想への転換を指して用いられるが,総じて否定的評価が込められるのが特徴。外来思想の受容,知識人のあり方,思想弾圧の実態等々,さまざまな側面から日本の思想的風土を検証するための鍵概念と考えられている。(マイペデイア)

 「信教の自由」を否定しません。しかし、何でもかんでも「信仰の自由」だと、一人芝居ならいざしらず、多くを巻き添えにしての「乱痴気騒ぎ」であれば、不問に付すことはできません。まして「カルト的振る舞い」「反社会行為」に泥(なず)んだ集団が、そのように「信教の自由」を言い募るのなら、なおさらです。ここで簡単に述べられない問題ではありますが、少なくとも、「旧統一教会」は「信教の自由」を犯して「信者」を獲得した団体であるという判決が、早くから確定しているのに、なぜそれが広く理解されてこなかったのか。そこが問題でもあると、ぼくは考えている。

「青春を返せ訴訟」と「信仰の自由侵害回復訴訟」の両確定判決で明確になったのは、『旧統一教会の伝道・教化活動は、対象者の思想信条の自由を侵害する違法行為である。伝道・布教や物品販売を行っているのは信徒会などの任意、協力団体等ではなく、旧統一教会そのものである。献金や物品購入だけでなく、献身(隷属)させられて旧統一教会の事業に専従したことは損害であり、慰謝料の加算事由である』であった。(同上記事)

 「不幸の原因は家系にあると不安をあおり、正常な判断力を奪っていく方法を教団は熟知していると郷路さんは指摘する。最初から統一教会と分かれば入信しない。宗教団体の正体を隠した布教活動を禁じるべきだ、と訴える」というコラム氏の指摘は、そのとおりで、そのような反社会的、非宗教的なカルト集団から、さまざまな支援・援助を受けている政治や政治家とは何であり何者なのでしょうか。

 「鰯の頭も信心から」といいました。信心があれば「鰯の頭」のようなどうしようもないものにも「ありがたみ」を感じてしまうのでしょう。何を拝むか、人それぞれ。けったいな「信仰」で満ち溢れているのが浮世でもあります。それに縋(すが)るもの、それで一儲けしようとするもの。まるで正体を隠した「狐と狸」の化かしあいであり、化かされあいですね。(実害が及ばないなら、それもよし)それをも信仰と言うなら、「狂信」「洗脳」「暴力」もまた、「信仰」の名に恥じないものになるのですか。

 「宗教」「信仰」のもとで、人を恨み、罵り、悪態をつく。挙げ句には暴力を振るい、自由を拘束する。更にそれが昂じれば、「神」「仏」「絶対者」の名において人を殺め、殺し合う「戦争」まで始めてしまう。そんな宗教は「(宗教という名の)暴力政治」だというほかない。信仰というのは、ぼくの勝手な見解ですが、どこまで行っても「個人」の問題です。ある何かを信じるのに、どうして「徒党」を組むのか、組む必要があるのか。そこからすでに間違っているんじゃないですか。(「集団」を作るのは、ある種の政治(権)力を発揮・行使するための方法であり、それが剥き出しになったのが「政党」ですね)

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 「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く」旧帝国陸軍盛んな頃、こんな戯れ歌が歌われていたそうだ。「輜重」とは「軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称」(デジタル大辞泉)で、その輸送を担当したのが「輜重輸卒(しちょうゆそつ)」でした。戦後になって、ある作家が、自分の軍人時代の軍務がそれであって、盛んにそのことを嘆いて、この戯れ歌を嫌な思い出として記していました。彼は馬の輸送係だったそうです。「あんなのが兵隊なら、蝶々もトンボも鳥になるし、あろうことか、電信柱に花だって咲くぜ」というものだ、と。「あれが宗教なら、カルトも詐欺集団も宗教になる」ということでしょうか。「鳥なき里の蝙蝠」ともいいます。この劣島(だけではない)に、宗教にふさわしい(名に値する)ものがないから、蝙蝠(コウモリ)は、「自分は鳥」だと言った如く、白昼堂々と「宗教だ」と、あの手この手の集団が自己宣伝するのです。被害の大きさは計り知れないものがあります。それを認証する(した)立場の者の責任が問われなければならないでしょう。

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