「想像を膨らませる必要がある」、と仰るが

 【小社会】核への想像力 「記者失格」とお叱りを受けるかもしれないが、取材現場で目にしたものを文章や言葉で語り尽くすのは正直難しい。多くの人にとって、未知の出来事であればあるほど。▼例えば東日本大震災。記者自身が被災地で痛感した。目の当たりにした光景が過去の報道や記録から思い描いた被害より、はるかに悲惨であると。もちろん報道には力を注いできたが、どれだけ伝えることができたのか…。▼戦争もある。筆舌に尽くし難いのは報道だけではない。評論家の故加藤周一さんがかつて高知市の夏季大学で語っていた。「戦争体験者が話したがらないのは、話しても伝わらないと思うからです」▼医師でもあった加藤さんは終戦から約2カ月後、原爆の影響の日米調査団に加わり、広島に入った。だが壮絶な被爆体験をした住民は口をつぐんだという。▼「当人さえもそれを言葉であらわすことができなかったとすれば、どうして私にそれを理解することができたろうか」(回想録「続羊の歌」)。語り継がれてきた体験談も多いが、それとて惨劇を表し尽くせてはいまい。私たちはもっと想像を膨らませる必要がある。▼被爆国日本でさえそうだから、外国はさらに思いを巡らせてほしい。核拡散防止条約(NPT)再検討会議がまたも決裂した。ウクライナでは原発への攻撃が続く。想像力が恐ろしく欠如している。鎮魂の8月の最終日、改めて考えたい。核と平和の行方を。(高知新聞・2022/08/31)

 「百聞は一見に如かず」と言われます。「百聞」は、たくさん聞くこと。一見は「自分で見る」です。どんなにたくさんのことを(他人から)聞くよりも、自分の目で、一度でも見るほうが確かだ、と言うそうです。ある辞書にいう、「一〇〇回聞くより一回見るほうがよくわかる。何度繰り返し聞いても、一度実際に見ることに及ばない。※新聞雑誌‐一三号・明治四年(1871)九月「右は所謂百聞不一見の理にして」 〔漢書‐趙充国伝〕(精選版日本国語大辞典)。なにかと見聞を広めるのもいいけれど、実際に自分の目で確かめるほうがよく分かるというのでしょう。類語に「見ると聞くでは大違い」があります。人から聞くだけでは駄目で、自分で、直接に見なければわからないこともある。確かにそうもいえますが、しかし、そうとばかりは言えないのではないか、それがぼくの言いたいことです。それはぼくの小さな経験からでも言えることです。(ヘッダー写真は「アサヒグラフに見る昭和前史1(大正12年)」より。右奥は丸の内方面)

 言わなくてもおわかりのように、ぼくは「寡聞少見(かぶんしょうけん)」の人間です。見聞も経験も極めて少ない・拙(つたな)いという点では人後に落ちないでしょう。そのような人間だからこそ、「百聞は一見に如かず」には批判的になるのです。ある事柄(地震の被害状況や、原爆被災者の苦悩など)について、実見に及ぶという貴重な機会を持ったとしても、それを支える背景(受け止める手段・感性も知性も動員して)がなければ、どうしようもないのではないですか。「百聞」というものを広く「学習」と理解するとどうでしょう。ある事柄について、多くのことを聞く、それによって「知るもの・知識」が自分の中に蓄積される。そんな「百聞」があって初めて、実地に目にする機会を得ると、眼前の事柄がより深くわかろうというものです。一切の見聞なしでも、一見のほうが確かだというのなら、犬や猫が、人間と同じ場面を見るのと、どこが違うのか。網膜に映るものは同じ景色(対象)であっても、それを読み取り、その意味を知るための手がかりはどこにあるというのか。「一見」が意味を持つのは、「百聞」があってのことなのだ、そうではないでしょうか。「百聞」とは「学習」そのものです。それを経ない人間の「一見」に、どのような価値があるというのか、ぼくには疑問です。

 「戦争体験者が話したがらないのは、話しても伝わらないと思うからです」「当人さえもそれを言葉であらわすことができなかったとすれば、どうして私にそれを理解することができたろうか」という加藤周一さんの言葉は、いろいろな事柄を考えさせてくれます。「原爆の被害者」は数え切れないいほどおられました。その「被爆」によって亡くなった方々は数万人。あるいは関東大震災では死者は十万人を超えると言われています。東日本大震災も同様に、数多くの被害者がありました。それぞれの「被災」や「被害」の状況は同じようであって、それを経験した人それぞれに、受け止め方(被災体験)は異なるでしょう。見える部分の被災・被害状況は同じであっても、それを実際に身に受けた人によって経験された内容は異なるし、それを言語によって表現する(語る・書く)とさらに個人差がきっと生まれます。その結果、悲惨極まりない原爆投下や大震災の「被害」「被災」を風化させないために「語り継ごう」ということになるのですが、「見ると聞くでは大違い」が、いたるところで生じているのです。そのさまざまな「違い」を、真相・真実に即して受け止めるためには、どうしても「百聞」は欠かせない学習なのではないか、ぼくはそのように考えています。言い過ぎのようですが、「百聞は一見に伍する」ものだとも、ぼくは言いたい気がします。

 「語り継がれてきた体験談も多いが、それとて惨劇を表し尽くせてはいまい」というコラム氏の指摘は「的を射た」ものです。仮に経験したものが「100」あったとして、語り表せるのは、その何分の一でしかないかもしれないのです。語りきれなかった、残りの部分どうすればいいのでしょうか。その事自体は被災者自身において起こっているのですから、それを後から「また聞き」で学ぶ者には、もっと大事な部分が伝えきれない(受け止められない)ままで消えてしまうでしょう。その欠損を補うためにも「私たちはもっと想像を膨らませる必要がある」といわれるのには、大いに同感します。しかし、「想像力」を膨らませるにはどうするか、想像力は勝手には膨らんではくれないのです。その際の「元手(ふくらし粉)」になるのは、自分流の「百聞」でしかないのだと、ぼくは言いたいのです。知りたい事柄について、必要なものは書物から、映像から、伝言から、そして体験談から、さまざまな手段を尽くして「未経験」「未体験」の事柄を知ろうとする作業は不可欠となります。その「百聞」があってこその「一見」なのだ、このことを肝に銘じておきたいですね。「見ると聞くでは大違い」です。しかし「大違いの中味」はなんですか。それをこそ、ぼくたちは知ろうとしなければならないのではないか。

 「歴史を学ぶ」というのは「過去との対話」「現代と過去との対話」だと高名な歴史家が言いました。別の表現をすると、今を生きている自分が行う「現在と過去の対話(出会い)」だと言えるでしょう。よりよく過去と対話をしうる(歴史を学ぶ)人が、よりよく未来にも遭遇するのかもしれません。(未来は過去にあり、過去は未来にあるですから)「過去との対話」に努めるということは、再び「過ちを侵さない・犯さない」ための最良の生き方(学習)ではないでしょうか。(過去とは「過ぎ去った(人間の)あやまちのこと」ですよ)(本日は「防災の日」だという。九十九年前の、大正十二年九月朔日、東京・神奈川を中心に「関東大震災」が発生。多くの被害が出た。折しも、沖縄地方に「最大級の台風が襲来」しています。とんでもない「被害」が出ないように、祈るのみです)

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