
「毎日が四月朔日(ついたち)」、それが政治家の明け暮れ、変わりない暦というものなのでしょう。その心は「 April Fool」です。「嘘をついても、嘘をつかれても」許されるというのですから、相当に神経が図太いか、あるいは無神経(insensitive)でなければ務まらない職業だと思われます。「嘘が真であり、真が嘘である世界」とは?政界の常識は世間の非常識で、世間の常識は、ぼくにとっては非常識ということになれば、なんともややこしい、煩わしい社会に生きていることになります。
どんなに嘘つきと言われても、「あれは千三(せんみ)つだから」と呆れられつつ、存在が許される(かどうか、怪しいが)。あいつは嘘つきで、千の内、三つしか本当のことを言わないのだ、と。ぼくがもっと好きなのは「万八(まんぱち)」です。《万の中で真実なのはわずかに八つだけの意》(デジタル大辞泉)この偽名で、小さな原稿(コラム)を、あるところにしばらく書いていたこともありました。それほどに「嘘」はつきたいものであり、つかれたくないものなんですね。この流儀では達人の域にある政治家にはどんな冠をつけたらいいのか。使いたい言葉が出てきません。

【正平調】うそつきと政治家を結びつけることには「異論がある」と、作家の星新一さんがエッセーに書いていた。希代の皮肉屋がなぜ、と意外に思ったら続きがあった◆「政治家はうそつきではない。なぜならうそをついているとの意識がなく、とんでもないことを本気でそう信じているらしいからである」(「きまぐれ星のメモ」)◆たしかに世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係をめぐる数々の“弁明”を聞いていると、そんな気になる。地元での深い関係が明らかになった自民党の萩生田光一政調会長も最初は「特別、承知の上でお付き合いをしていたわけではない」と余裕だった◆最近、目を引いたのは山際大志郎経済再生担当相。関連団体主催の会合への出席を指摘されると「当時の資料がないので確認できない」を連発した。この人は手帳でスケジュール管理をしないのだろうか。多忙だろうに◆ボードレールの詩がある。〈見よ、見よ、此処(ここ)に、偽りの顔の後(うしろ)にのけ反りて 酷(むご)たらしく痙攣(ひきつ)れる、真の首あり、実の顔あり〉(「仮面」より、斎藤磯雄訳)◆自民はようやく全議員の調査を始めたが、もう結果に驚くことはない。弁明がうそであれ、本気であれ、〈真の首〉と〈実の顔〉が見えたことだけは、はっきりした。(神戸新聞・2022/08/31)

自分のことを棚に上げておいて、「この嘘つき!」と、他人を詰(なじ)る、誰にでも覚えがあるでしょう。それでも、毎日が「四月朔日」というのですから、相当にしんどいことで、それなりの根性というか、覚悟(修練)が必要になる。洋の東西を問わず「政治家は嘘つき」というのが相場らしいと、大体の見当は付きます。というより、「嘘つきが政治家なのだ」といったほうが正確です。「嘘つきは泥棒の始まり」ともいいますが、その言われるところは「悪いと思わないで嘘をつく人は、泥棒をするのも平気になるということ」(デジタル大辞泉)さすれば、政治家はまっとうな「泥棒」だということになりますね。この実例のお手本になるような、稀代の政治家がいました。疑惑をかけられても、嘘で塗り固めて逃げ切りを謀っていた。果たして、逃げ果せたのだろうか。小心が大悪を犯す。

泥棒とは、他人の物を盗む輩であり、それ故に、政治家という「嘘つき」は選挙民の「投票」を盗み、「票に託した願い」を盗む。更に言うなら、民衆のなけなしの「善意」をいとも軽々しく盗んで、溝(どぶ)に捨てるような人を言うのでしょう。つまりは、政治とは、根本において「盗むこと(steal)」で成り立つ職業です。選挙民に向かって「平然と嘘をつく(公約という)」のが選挙運動という、自己(虚偽)主張であり、その習性は変わらず、国会議事堂においても、姿が見えない国民に向かって(テレビを介した、衆人監視の中で)虚言を吐く。それが政治だと納得するには、あまりにも「国民」は愚弄されていると、ぼくのような気の弱い人間でさえ、怒りが湧き出してくるのです。つまり、政治家という職業人は、自分が相手にしているのは人間ではなく、人間の顔をしている「木偶の坊」だと見做しているにちがいない。だから、平然と嘘をつくのだ。嘘をつくことに疚(やま)しさがないのですから、それを「嘘つき」と詰(なじ)るだけ、当方の気持ちが、次第に壊れる、萎えるというものです。しかし、軒並みに「嘘とわかる嘘をつく」連中が出てくると、見ていて、反吐さえ出なくなるのですから、面の皮の厚さと他者を愚弄することにかけては、並み居る政治家は「見上げたもんだよ」と、うっかり感心してしまいそうになる。(左上の「コラム」は東京新聞)
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● エープリル‐フール=〘名〙 (April fool) 欧米の習慣で、四月一日は嘘をついてもよい日として楽しむこと。本来はだまされる人のことで、フランスでは poisson d’avril (四月の魚)という。キリストがユダヤ人に愚弄されたのを忘れないためとも、キリストの命日ともいい、あるいはインドの揶揄節(やゆせつ)に基づくともいう。日本には大正ごろ(一九一二‐二六)に伝わった。万愚節。四月馬鹿。《季・春》(精選版日本国語大辞典)
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交通違反切符を切られると貯まる「違反点数」のように、あからさまな「嘘」とわかる嘘を吐(つ)いたら「虚偽点(嘘つき偏差値)」が貯まるようにし、一定の点数に達したら、公民権停止としたらどうか。でなければ、この状態では「嘘の皮」が政治家だけでなく、マスコミにも波及・感染する(すでに感染中か)からだ。マスコミの連中は、「▼さん、それは嘘だ」「✖先生、いまのは嘘でしょ」と、絶対に言わない。政治家と深い交わりをしているのだから、どんなに鈍感でも真偽はわかろうというもの。わからないなら、よほど感度は不良で、マスコミ人には向いていない。政治家向きかな。わかっていてもわからないふりをするのは、すでに「政治家の仲間」だとみなす。
今頃のマスコミ界には「政治家」顔負けの、錚々たる紳士淑女(会社員)記者(ブン屋じゃない)たちがいるというのも、流石(さすが)に、この社会の現実ですね。テレビ草創期に(某放送協会の制作する)「事件記者」という番組がありました。警視庁記者クラブのようなところに屯している「各社の事件記者」が、まるで刑事顔負けの張り込みや犯人探しをするというもの。どんなに難解な事件でも「きっちり、三十分」で解決していました。暇な折に腰掛ける飲み屋があり「瓢(ひさご)」といった。その女将がなかなかいい雰囲気の女優さんでした。(ぼくの中学時代の記憶)(番組では、政治ネタは扱わなかったかも)実話ではなくとも、実話(現実)を下敷きにしたドラマだったと思う。トップ屋と名指された週刊誌の記者もいた。何が真実か、それを必死でを追っかけていた時代でした。職業には、その職業にふさわしい義務感というものがあった気がします。

すべてが「大本営」側の人間では、もはやマスコミはいらない。語るに落ちた嘘を平気で垂れ流す政治家に、誰一人として、水もかけない、いや洟も引っ掛けない、そんな報道陣は滓(かす)だか、屑(くず)だか、どっちにしても掃いて捨てるしかない。罵倒してご覧よ、民衆が背中を支えているからさ。いつの頃からか、政治家になりたがる「ブン屋」くずれや「放送人」あがりが叢生しているのは、こんなに美味い商売があるのかと、政界を、常々見ているから、すべてを熟知したからでしょう。マスコミの人間として「政界の人々」を見ていると、いかにも「隣の芝生は青い」という気になるのかも。他人がどう動こうと、ぼくには関係ありませんから、そのことをとやかくいうのではない。役人から、あるいは、新聞・テレビ界から政治家に転出・転身するのもいっこうかまわない。芸能人から政治家に早変わりするのも結構でしょう(本音は嫌ですが)。国会は「二世(偽・にせ)」や芸能人上がり、スポーツ界崩れなど、それぞれが「功なり、名を遂げ(かけ)た」名士たちで満杯です。いい国作るよ、源頼朝、かね。(1192.1917)(左写真は「オンライン」の不思議な光景、違和感がないのかね、画面前に居並ぶ「木偶」諸君よ)
しかし、政界の住人になった途端に「嘘つきが始まる」のはどんな因果かと、ぼくは訝(いぶか)るのです。天性の「嘘つき」が、今までは隠していたが、「政界」では天真爛漫に振る舞えるから、嘘をつき出すのか。それとも、政治家になるというのは、嘘をつくことだという「仁義」を切るからでしょうか。どなたも、じつに見事に「嘘つき」になりきっている。こんな輩に大枚の税金を払うのは、「お天道様」が許さないのではないか。たとえ、お天道様が許しても、ぼくは断じて許したくないね。

これまで、政治家は「嘘つき」とか「嘘をつく」といってきましたが、じつは、それにとどまらず、もっと恐ろしいことが進行しているのです。率直にいうなら、選挙民、あるいは国民を、著しく「愚弄」しているということ。図抜けた厚かましさで、平然と、堂々と「嘘をつく」、それも明日の天気は晴れとか雨などというのはご愛嬌です。自体は深刻、じつに深刻劇だね。人間の深いところで感じられる「人間性」「人間の感受性」などという、それなしでは人間であることが困難な「資質」を失ってまで、政治家である理由はなんですかと、ぼくは問いたい(と、一応は言ってみるが)、それは無駄ですね。ぼくごときの手に負える代物ではないでしょう。
彼や彼女(政治家)に、最も欠けているのは「誠意」「誠実」です。それがなければ、人間じゃないとは言わぬが、人間として大事なバックボーンを失ってしまうのです。それをして、歴史的には「木偶の坊」と言ってきた。もしそうならば、木偶を使いこなす存在があるはずです。それは何者か。まさか、国民(選挙民)だというのか。政治家は選挙民を愚弄し、選挙民は愚弄されながら、政治家を使い倒している、これが「倭(やまと)的民主主義」、つまりは相身互い身であり、持ちつ持たれつであるということになるのかしらねえ。まるできつねとたぬきの、騙し合いと騙され合いで、いかにも深い、欺瞞に塗(まみ)れた、汚らわしい友情(契)に満たされているのかもしれない。ぼくも選挙民であるのを、いまさら隠さない。
この劣島には、先の展望はまったくないというほかありませんね。(たとえ駄文とはいえ、本気で怒りだしそうになってきて、ここで何が飛び出すかわかりませんから、本日はここまでにします)
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