「死もまた、社会奉仕」と湛山は書いた

 国葬考(その二)…「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」元総理の「国葬」処遇は憲法違反。「国葬」挙行の理由如何?(下記参照)。悉く「賛同」できぬ。在任中の「非政治的業績」は、「虚偽答弁」が惹起した信用失墜(不信拡大)、「アベノミクス」による財政破壊(「日銀は政府の子会社」)、「国権の無視(「私は立法府の長」)」、「北方領土」「拉致問題」などの政治的悪用。刹那的・恣意(個人)的政治行政により国益を激しく毀損、行政長たる地位を濫用した「(独善的)公私混同」によって政治本来の筋道を著しく歪めた。最たるものは「旧統一教会(カルト)」との癒着だ。石橋湛山は山縣有朋逝去に遭い、「死もまた社会奉仕」と直言。国主宰の「葬儀」ではなく、「国を葬る儀」とすべき理由は素朴そのもの。社会健全化のためにも。「(「言うべきことは言う」第六回)(2022/08/30)

(写真は東京新聞・2022/07/22)

 「地獄の沙汰も金次第」とは、この浮世のえげつない拝金主義を呪った言い草です。元総理が凶弾に倒れ、非業の死を遂げた機を捉えて、有象無象が、「その死」を(表向き)大いに悼みつつ、最大限にそれを、自らの権力・権限拡大のために利用しようとしています。人民の意向(の大勢)は「国葬」反対。にもかかわらず、政府与党等は、挙行・強行するのです。(左図表は東京新聞・2022/08/19)

 「国際社会から極めて高い評価」が出ているとするが、それは「外交辞令」、つまりはおべんちゃらだ。「憲政史上最長の在任期間」といって、その「憲政」を踏み躙(にじ)ったのが「最長期間」の総理だったではないか。「経済再生」ではなく、「経済再生不能」にまで悪政策を強行したのです。「大きな実績」とは、どこを探して言うのか。「最大の空虚・虚無」だと、ぼくは、再三に及んで、言ってきました。かかる「宰相」をあてがわれた人民は、不運であり不幸だったと、今にして(今だから、か)言うべきでしょうか。ぼくたちに、「政治の質」や「政治家の品性」を見る目(観察力)(政治センス)がなかったと言われても仕方あるまい。

 繰り返して言いました。国葬は、「やりたければ、どうぞ」、と。ただし、それは「国を葬る」儀式としての「国葬」です。国という機関が健全に機能する気遣いはないとぼくが考えるのは、その機関を運営するのは「政治的人間」「権力志向人間」ばかりだからです。政治的人間とは、自分一個の欲望の赴くままに、権力を行使したがる性癖に淫した存在のこと。そのような行政府の(肥大化する)権限による「統治(運営)方式」が避けがたいのなら、政治家や官僚(役人)、つまりは当局者には(可能な限りで)限定された権限のみを付与すべきでしょう。(「小さな政府」とは何か。これは宿題にしておきます。後日)

 これもすでに何度か触れましたが、ぼくは「アナーキー(無政府主義)」論者です。今や、政治的権限が大きくなりすぎて、守るべき人民の生命や財産を破壊し、蹂躙することが政治権力だと錯覚する輩が多出している。人民に対する「生殺与奪の権」を持っていると、恐ろしいまでの錯覚(勘違い)を自覚していないのだ。その挙げ句が「戦争」をしたがるという「暴力信奉」の持ち主です。いまも、いくつかの地で「戦争」が生じている。国民(人民)のだれかが「戦争しよう」と言ったから、戦争が始まるのではない。「臥薪嘗胆」「鬼畜米英」と雄叫びを上げ、根拠のない暴走に傾き、自らの政治的野望として「他国併呑(植民地化)」をぶち上げる「不道徳」な権力者がいるからです。

 恐らく、権力者は、悉(ことごと)く「不(非)道徳」なもの、と言いたくなりそうです。その「堕地獄」から遠ざかるのは不可能に近い。それほどに「政治権力」は、まともらしい人間を堕落、頽廃させる。その危険性を自覚している「政治家」は、果たしているのでしょうか。「権力の誤用」が常識となるのが、政治の世界であり、逆に「政治道徳」は二律背反で、道徳心は、そこでは棲息できないのではないかと思ってしまう。それは八百屋で「カツオ」を買おうとするようなもの。まことに笑止そのものではないでしょうか。

 今般の「国葬」問題の背景は、じつに単純で、「法の下の平等」を踏み躙る政治権力が、「憲法蹂躙」を繰り返した元総理を顕彰し、それによって「おのが権力・名誉」を得ようとするからにほかなりません。憲法を土足で踏み躙った元総理を弔う主が、同じく泥靴で憲法を踏み躙ってまでやろうとする現総理だというのです。「憲法」遵守を蔑(ないがし)ろにし、それでもなお政治家を続けているという、驚きべき厚顔の面々です。「顔厚忸怩(がんこうじくじたり)」という「姿勢」は絶えて見られない。「俺(お)ら、こんな国いやだ」

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)