「国を葬る」儀式に遭遇するとは

 国葬について(その一)…浅薄かつ空無な「政権在位」が史上最長とされた「故総理」の「葬儀」が八百長芝居の舞台で開幕寸前だ。今や「国葬反対」の怨嗟の声は拡大一途。人みな反対の折り、敢えて「国葬賛成」を開陳する。「国葬」と書き「国を葬(ほうむ)る」と読む。誰が「国」を葬るのか。故総理であり、その「死」を悪用した政治家や政党、それに「右に倣え」をする共謀者たちである。「国を葬る」儀式なら、素直に賛成したい。国土に住む民の安寧や平和への切願を一切等閑無視、「権力欲」の醜悪極まる剥き出しの連鎖が「国葬」に行き着いた。現総理は、故総理が手を染めた「カルト集団」との連携共謀に、故人と「同穴の契り」を結んだ。「宗教政治=祭政=カルト」という忌まわしい「レガシィ」相続を宣言したのだ。加えて、原発再稼働と新規増設という「ルビコンを渡る」愚挙に出た。自らの言語も思想も責任感も持たぬ「能天気」は「国葬」に華を添えたがっている。頑陋至愚。(「言うべきことを言うだけだ」第五回)(2022/08/29)

 故人に向かって「哀悼の意」を捧げるのは、大切な人情です。しかし、葬儀の方法には人それぞれの考え方がありますから、内閣が「国葬」にすると決めたから文句を言うな、とは通らない理屈だろう。閣議決定というと、いかにも「公的」に思われるが、虚仮威しに過ぎぬ。ある故人は「国葬」で、別人は「民葬」だとするなら、そこには決定したものの恣意が入る。生まれるときも死ぬときも、「私(わたくし)=私人」、それが真実なのだ。誰彼にも存する「私事私情」というものが宿している、厳粛な趣(おもむき)を尊重したい。原敬が、東京駅頭で凶刃に倒れた際、その妻は直ちに遺体を引き取り、「亡くなれば私人です」と、「国葬」の提案を拒絶したという。(原敬はそれほど好みませんが、連れ合いの女性の心意気には高いものがありましたね)

 「政府は、安倍晋三・元首相の「国葬(国葬儀)」について、国民への理解を広げることに注力する。多くの海外の首脳級要人の参列が見込まれるため、安倍氏の外交面でのレガシー(政治的遺産)の継承を内外に打ち出す「弔問外交」の舞台としても活用する考えだ(以下略)」(左写真も。読売新聞・2022/07/21)

● 国葬(こくそう)=国が国家儀式として、国費で行う葬儀。第二次世界大戦前には、1926年(大正15)従来の先例・慣例を法制化して国葬令が制定され、国は、法定上行われるものと、特旨によるものの2種とされた。前者は、天皇太皇太后皇太后皇后大喪と、皇太子、同皇太孫、同妃、摂政(せっしょう)たる親王、内親王、王、女王の喪儀(7歳未満の皇太子、皇太孫の死去は除く)である。特旨によるものは、国家に大きな功労のあった者と、死に際してとくに勅旨のあった者の葬儀で、皇族も含まれていた。国葬当日は廃朝で、官庁と学校は休み、歌舞音曲は停止または遠慮し、全国民は喪に服し、国葬を厳粛に送ることとされた。国葬は神道(しんとう)式で行われ、葬儀の事務は国の機関が担当した。第二次世界大戦前、特旨により国葬が行われた者は、1878年(明治11)の大久保利通(としみち)の準国葬以後、次の皇族8名、一般人12名である。岩倉具視(ともみ)(1883)、島津久光(ひさみつ)(1887)、三条実美(さねとみ)(1891)、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)(1895)、北白川宮能久(よしひさ)親王(1895)、毛利元徳(1896)、島津忠義(1897)、小松宮彰仁(あきひと)親王(1903)、伊藤博文(ひろぶみ)(1909)、有栖川宮威仁(たけひと)親王(1913)、大山巌(いわお)(1916)、徳寿宮李太王煕(とくじゅのみやりたいおうき)(1919)、山県有朋(やまがたありとも)(1922)、伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王(1923)、松方正義(まさよし)(1924)、昌徳宮李王(しょうとくのみやりおうせき)(1926)、東郷平八郎(1934)、西園寺公望(さいおんじきんもち)(1940)、山本五十六(いそろく)(1943)、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王(1945)。(⤵)

 戦後は、「皇室典範」で天皇の大喪儀を定めている以外は、国葬の明文規定はない。1967年(昭和42)10月20日、元首相吉田茂の死去に際して、臨時閣議の決定によって、10月31日、日本武道館で戦後最初の国葬が行われた。また89年(平成1)2月24日、昭和天皇の大喪のが新宿御苑で行われた。(ニッポニカ)

 密かに想いを寄せていたかと思われる、一女性が亡くなった際に、漱石が詠んだ句が忘れられません。      ・ある程の菊投げ入れよ棺の中

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