自然も息をしている、森は生きている

 【明窓】土砂崩れは大地の深呼吸 自家製みそにする大豆を自然栽培で育てており、この時季は週末の早朝、草刈りにいそしむ。根こそぎ刈ったり抜いたりはしない。どの草も必要だから生えており、草の頭をなでるように刈る。すると地中で細根が増え、土が軟らかくなる。徹底除草すれば土中は一気に乾燥し、イネ科などの強い植物がはびこる▼山梨を拠点とする造園家で環境再生医の矢野智徳さんは、これを「風の草刈り」と名付ける。矢野さんを追ったドキュメンタリー映画『杜人(もりびと)』を先日、雲南市で観賞した▼植物が枯れ生き物が減りゆく各地を巡り、矢野さんは「大地の呼吸」が弱っていることに気付いたという。大地の血管である水脈がコンクリート構造物でふさがれて、水と空気が循環せず、固まり傷んでいるのが原因。そこでスコップや重機で穴や溝を掘り、分断された水脈をつなぎ、窒息寸前の大地に息を吹き込む。「土砂崩れは大地の深呼吸。息をふさがれた自然の最後の抵抗」。矢野さんの言葉が深く胸に刺さった▼作家の故石牟礼道子さんも、テレビ番組で同様のことを言っていた。場所は、抗議活動で足を運んだ水俣病の原因となった工場の本社前。アスファルトに覆われた街の姿に「東京の大地は生き埋めになっている。その上のビルは近代の卒塔婆だ」と▼コンクリートの堅さで災害に強い地域を目指す国の国土強靱(きょうじん)化(か)対策が時にもろく、恐ろしく感じる。(衣)(山陰中央新報・2022/08/28)

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● 矢野 智徳 (やの とものり)元 一般社団法人 大地の再生 結の杜づくり 顧問 合同会社 杜の学校 代表=1956 年福岡県北九州市生まれ、花木植物園で植物と共に育つ。東京都立大学において理学部地理学科・自然地理を専攻する。全国を放浪して各地の自然環境を見聞し、1984 年、矢野園芸を始める。/ 1995年の阪神淡路大震災によって被害を受けた庭園の樹勢回復作業を行う中で、大量の瓦礫がゴミにされるのを見て、環境改善施工の新たな手法に取り組む。/ 1999 年、元日本地理学会会長中村和郎教授をはじめ理解者と共に、環境 NPO 杜の会を設立。/ 現代土木建築工法の裏に潜む環境問題にメスを入れ、その改善予防を提案。在住する山梨県を中心に、足元の住環境から奥山の自然環境の改善までを、作業を通して学ぶ「大地の再生」講座を開催。(https://daichisaisei.net/#about)

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 もう二十年の昔になりました。知人でもあった、沖縄の建築家Mさんが「沖縄県は、一人あたりのコンクリート(セメント)消費量は世界一」だと言われていたことを思い出します。地形的な問題から、「台風の通り道」とも呼ばれていたのですから、むべなるかなと、強く記憶に残りました。また、その昔話とほぼ同時期、「コンクリートから人へ」という軽薄なキャッチフレーズを飛ばした政党や政治家がありましたが、コンクリートならぬ「人材不足」と「不勉強」で政権の座を奪われた(転げ落ちた)ことがあった。それに変わって登場したのは、旧来型の土建国家建設で政治を占拠・独占した利権第一主義の政治家たちでした。「国土強靭化」などという、おぞましい政策(なのか?)、いや政治題目で、劣島をコンクリートで固めようとしたのでした。コラム氏が書かれている石牟礼さんの表現(告発)の場面を、ぼくはよく記憶しています。「東京の大地は生き埋めになっている。その上のビルは近代の卒塔婆だ」いよいよ、「現代の卒塔婆」は高さを競っている。愚かしいこと限り無し。(右は熱海の崩落事故現場、2021/07/04。下も)

 この一月ほどの間、日に数時間の割で、「草取り」を続けてきました。敷地内の大方を済ませたところです。最初に刈り出したところには、すでに別の草が、元気に成長している。この繰り返しで、まるで「いたちごっこ」ですが、ぼくはまず「除草剤」は使わない主義です。大した理由はない。草木が枯れる(死ぬ)ということは、間違いなく人間にも、動物にも危険が及ぶと経験済みだからです。除草剤や殺虫剤に関しては、これまでにも何度か触れています。要するに、ある環境に住んでいる(棲息している)「生命体」を外部からの毒性の威力で「根絶やし」「絶滅」にするということでしょう。どうしても、やむを得ずという場合もありますから、必要最低限度の使用に気を配ってきました。除草という「切のない作業」は、少なくとも、年に三回は行うことにしています。

 ぼくが住んでいるところは、標高百メートル。小さな山の頂上です。大雨が降ると、しばらくして「地下水」の流れる音がはっきりと聞こえてくる。ものすごい勢いで流れている。その地下水道の真上に住んでいることになります。もちろん、湿気が多くて生活に支障を来すことはありますが、それをコンクリートで固めて地下水脈を閉ざすという考えは起こってこない。近所の田んぼの畦道は、大半が土ですが、中には護岸よろしく、コンクリートで固めているところも見られます。年々、それが少しばかり増えてきたように感じています。

 「土砂崩れは大地の深呼吸。息をふさがれた自然の最後の抵抗」という指摘はそのとおりでしょう。三年前の今頃、台風の直撃で街に出る道路は崩落した。山に降った雨水の流れる道が奪われていたから、自然の摂理で、坂道を下るように、土砂を削って流れる道を作った結果、道路は何箇所か崩れ、つい最近まで、その修理に時間と金を費やし、それ以前よりさらに強固なコンクリート道路を作ったのです。台風の爪痕はまだ何箇所か残されており、その修復の過程もつぶさにたどれる。前よりも強靭で強固な工事をしたのでしょうが、それを上回る豪雨はきっとやってくる。それに負けじと、「国土強靭化」が叫ばれるという仕組みで、土建業やそれに群がる政治家たちが利権を漁(あさ)る・得る仕組み(政治)が整っているのです。

 築二十年、三十年の家屋(多くは木造)を重機で破壊している現場に遭遇して、何度も辛くなった経験があります。作るのと変わらないような費用がは破戒するのにかかるという、どういう魂胆なんでしょうか。コンクリート造りでは半世紀しか維持できないが、木造なら、一世紀にわたり住んで生活することができます。よく暇にあかせて、ぼくは法隆寺などのことを調べたりしました。創建当時使用された檜(ひのき)の部材は樹齢千年を超えていたといいます。それからさらに千年以上が経過して、なお「ひのき」は生きていると言われました。山と川は兄弟です。一体不可分の「全体」を構成しているもので、山を荒らせば川が暴れることは、誰にもわかりやすい現象です。にも関わらず、山を荒らし、川を暴れさせて、その御蔭で「国土強靭化」政治が止むことがないのでしょう。(「杜人」予告編https://www.youtube.com/watch?v=ySrnMT2v1ls&t=224s

 この時世、まだ機会が得られていないので、「杜人」は観ていない。おおよその見当はついていますから、急いで出かけようとは思いません。加えて言うと、この矢野さんのような方は、各地に沢山存在しておられ、それぞれが貴重な仕事をされていると思う。小さい頃から、近所に植木屋さんや林業関係の仕事をされている家があったので、自然に森林や植物に親しくなった。思い切り、それに近づいて職業にするということはありませんでしたが、ぼくの関心は一貫していたように思います。樹木医という職業の職人の何人かを、ぼくは知っています。

 いらぬ心配かもしれませんが、今年は「台風の当たり年」のような予感がしています。たくさん来るというのではなく、大きな被害をもたらすものが「いくつか」襲来するのではないかという危機感です。想定を遥かに超える豪雨はすでに何度も経験しています。自然現象が、純粋に「自然の出来事」とはいえない状況で、ぼくたちは大きな被害を受け続けている。こうなると、避けられる「戦争」と同様に、「准自然災害」(一義的には人災)から生命や財産を守護する確実な方法はどこにあるのか、それが問題となるでしょう。石牟礼さんの言われる「卒塔婆」は、高ければ高いほど値打ちがあると、誰が決めたのでしょうか。ひょっとすると、「なんとかも煽(おだ)てれば木に登る」の同胞ではないんですか。

 じつに迂遠な話に思われます。しかし「杜人」が成し遂げようとしている道を歩き続けることから、避けられる・避けられたであろう「災害」に遭遇しないで生きることが可能となるにちがいありません。今日の都会の「風物」はタワーマンションですね。これをして「バブルの塔」、いや「バベルの塔」と言ったらどうですか。すでにその条件は備えているし、何年か後には、始末に負えない「卒塔婆」となっているはずです。誰が、線香を上げるのか。

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● バベルの塔(バベルのとう)(Tower of Babel)=旧約聖書創世記』中に出てくる塔。大洪水のあと同じ言葉を話していたノアの子孫たちは,東方のシナルの平野に移り住んだとき,民族の分散を免れることを願って,煉瓦瀝青を用いた町と,天に達するような高い塔とを建設することを企てた。ヤハウェはこれを見て同一言語を有する民の強力な結束と能力を危惧し,彼らの言葉を混乱させ (バーラル) ,その企てをはばんだ。民は町と塔の建設を断念して各地に散った。この町はバーラルという語の発音に似せたバベルと呼ばれるようになった。この物語は,民族と言語の多様性を説明すると同時に,神と等しくなろうとする人間の罪を描いている。こうしてバベルの塔はノアの子孫たちの分散の原因となった (11・1~9) 。ただし『創世記』 10章における諸民族の成立の記事にはこの塔のことは触れられていない。バベル (バビロン) はアッシリアでは「神の門」の意味であるが,『創世記』はヘブライ語の語根バーラルと結びつけている。なおこの塔は,ジッグラトと呼ばれるバビロンのピラミッドをさすという説もある。(ブリタニカ国際大百科辞典)(左はブリューゲル画による「バベルの塔」)

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 治水・治山が国を起こすし、その反対に、治山や治水を騙って、人間の都合で乱開発する「自然破壊」は国を、いや土地や土地に住むあらゆる生命体(森羅万象)を滅ぼすことになるのです。環境問題は、地球規模で起こっている。ということは、ぼくたちの身の回り、生活範囲においても、当然のように生じていることになります。ペットボトル一つの始末に、実は困難を感じているのが現実です。リサイクルされるものの何倍もが、投棄され、環境汚染源になっている。海洋汚染は、少なくとも海洋環境に生息する「生物」を汚染し、翻って、それを食料とする人間にも危害が及んでいるのです。環境汚染の連鎖と言うべきです。人間もまた、「生態系」の環からは免れていない。 

 では、どうすればいいか、現実に発生している多くの問題は(頭では)理解されている。しかし、そのとおりに実行実施すれば、現在のコストを遥かに凌ぐから、結局は「今だけ」「この時代だけ」という、勝手主義や商売根性が汚染や破戒の修復不能状態を、近未来あるいは将来に確実に回しているのです。極めつけの「刹那主義(ephemeralism)」というべきです。

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