
【天風録】会社の方針、異様です。 パソコンやスマホで文章を作るとき、入力した文字が思わぬ字面に化けることがある。「それは会社の方針とのこと、正しいようです」。そう書いたはずが、画面に現れたのは「それは会社の方針とのこと、但(ただ)し異様です」▲変換ミスを集めた日本漢字能力検定協会のコンテスト「年間変漢賞」の上位作品にあった。16年も前に切り抜いた記事だから、今は昔の話と思っていたら…。この会社では20年前から、異様な方針がずっと続いていた▲トラック製造の最大手、日野自動車である。偽のデータでエンジンの排ガスや燃費の試験をすり抜けていたという。新規まき直しの調査報告書から1カ月もたたず、新たな不正が明るみに出た。泥沼はどこまで深いのか▲「上に物を言えない」「できないことをできないと言えない」。調査報告書が非を鳴らした「言ったもの負け」の企業風土。そうした上意下達の土壌は、ほろ苦いことだが、「言われたことをよく聞くのが良い子」という学校風土の延長線上にある▲例の作品集から、もう一つ引く。「常識力検定を導入してはいかが」が、「上司気力検定を…」に。どちらの力も、出題や採点は部下に任せる方がいい気がする。(中国新聞・2022/08/25)

今だって問題にされるのですが、原稿を活字にする作業で不可欠なのが「校正」です。ぼくも、数は少ないけれど、これまでにも原稿を書かされ、それを一冊の本にしたことが何度かあります。これはいいことか悪いことか、ぼくは一度だって本を出してほしいと出版社に頼んだことがない。第一、わざわざ原稿を書くという作業が苦手中の苦手だったから。しかし、「書くのは考える練習」だから、決して嫌いではなかったが、それをどうして出版するのかという、その乗り越える溝が大きかったのです。浮世の付き合いで、原稿を書いて(本を出して)くれまいかという、奇特な出版社が、あるいは編集者がいた結果、ぼくは気後れしながら原稿を書いた。いまから半世紀前から、そんな「不承不承」という不心得が続いていました。原稿を出版社に渡し、戻ってきた「ゲラ刷り」に手を入れる作業が、ぼくには面倒この上ない仕事でした。「校正」という作業です、それは、ぼくには切りのない作業で、何度も何度も「校正」をするので、原稿を書いてまでして、本を出版することは向いていないと気がついたのです。
大半の人々は「完成原稿」を編集者に渡すのでしょう。ぼくにはその「完成」がいつまで経ってもやってこないという、一種の悪癖が根っこにあるということがわかった。だから、いつも編集者に叱られながら「いい加減にけじめを付けてください」と言われるのがオチでした。原稿を書くのは簡単ですが、それを「完成」させるのは、ぼくには至難の技でした。いつまでも、ぼくのものは「草稿(ドラフト)」のままでした。やがて、原稿も「手書き」から「Word」というソフトで作るようになったら、ぼくの「校正病」は際限がなくなり、「病入膏肓 (やまいこうこうにいる)」という具合になりました。ぼくの「校正」の方法、つまりは原稿の直しは、じつに単純で、「字数を削ることが第一にあり、その中で文意を損ねないように手直しするのです。これはじつに面白い作業(遊び)で、ぼくは、今でもすっかりそれにハマっている。同じ文意を、より少ない字数で言おうとするのですから、勢い、そこに「推敲」という暇人の、趣味のような「遊び」が行われるのです。

どういうことかというと、まず字数が「百字」のものを「七十字」に削り、さらにそれを「五十字」に減らす。字数が半分になったから、原稿の質も半分になるのかどうか、それは自分ではわからないが、だんだん「スッキリしてくる」という気になってくるのです。(このブログという「駄文録」ではそれをしない、しているとキリがないから、「一日一題」はおぼつかないという点もありますから。もっと大きな理由は、原稿をいじるのが面倒だからです。この駄文の記録は、すべて「書き下ろし」、いや「書き放し」「書き捨て」です。「旅の恥はかき捨て」というでしょう。行き交う時もまた旅人ですから。
一旦書いたら、まず「校正」はしないという勝手な原則です。もちろん事実の間違いや、明らかな誤字は訂正しますが、急いで書いたり(キーを打ったり)、間に合せに書くものについては「校正」、つまりは「変換ミス」などは訂正しないままであることがほとんどです。実に恥ずかしい話ですが、それが実情。ところが、この「変換ミス」にも、時には仰天するような傑作があるから、始末に悪い。まだ教師まがいをしている時、「次の文章に、変換ミスと思われるものがいくつかあります。それ(ミス)のない文章に直してください」などというふざけた問題を作っていたことがありました。
この駄文録は、誰もが読まれないことを想定して原稿を書いているのが、こんな横着な態度になってしまっているんですね。後で見直して、あまりにひどい「間違い」、大半は「変換ミス」ですが、それも「公開」してからしばらくして、読みながら直すことがあります。直しに入ると、際限がなくなるので、それもまた「中途半端」で留めておきます。こんな文章にならないものをも読んで下さる方々には、「まことに申し訳ない」という気持ちでいっぱいです。

コラム氏の指摘について。この日本漢字能力検定協会は「流行語大賞」などを主催している団体です。いつでしたか、お金にかかわる事件を起こし、いろいろと取りだたされたことがあります。いまは、この「年間変換賞」はやっていないようですね。自らが「社会的変換ミス」を犯し、味噌をつけたからかどうか。手書き原稿時代には「校正」が不可欠の編集作業でしたが、著者が正しく「校正」したものが、思わない表現になることもしばしばありました。それを称して「校正、恐るべし」と言われたものでした。その具体例には、残念ながら触れません。

今回のメーカーの「変換ミス」は、明らかに「意図」してやったものですから、ミスではなく、犯罪ですね。日野に限らず、多くの自動車メーカーで、この犯罪行為が見られるのはなぜでしょうか。その代表例は三菱自動車でした。やがてこの会社は存続できなくなり、日産に吸収され、さらに日産の不祥事で、今はどうなっているのか。自動車業界で「不正」が日常業務になっている理由は何か。単純化して言えば、日本経済の基幹産業だという自負というか、自惚れと、それをさらに維持するために元官僚を「天降(天下)らせている」ための、ある種の「傲(おご)り」「昂(たかぶ)り」がそうさせてきたのではないかと、ぼくは見ています。日野が摘発された段階でも、他社は堂々と、それを横目で見ながら、平気で「不正」をしているという事態がいつまでも続いています。この「不正行為」で、自動車が走行中にハンドルが抜けて、事故を起こす危険性があるわけではないといいますが、製造も検査も販売も「自給自足」「自分次第」という尊大産業のしからしむるところでしょう。「不正天国」であり「犯罪者大国」ですね。

こう見てくると、まず政治家が「虚偽」を積み重ね、官僚がそれを上回る「不正」に手を染めている、だから民間企業でも「見つからなければ」という輩から、「見つかったって」という手に負えない連中まで、「日本劣島虚偽大国」という惨状を晒しているのです。たしかに、日本もひどいけど、よそだってもっとひどいと、「酷(ひど)さ」比べをしている気になっているんじゃないですか。上には上が、下には下が、と言いつつ、この国は上にも下にも「一番」になりつつあるようです。上は「不正」で、下は「正直」でという観点において、です。

「『上に物を言えない』『できないことをできないと言えない』。調査報告書が非を鳴らした『言ったもの負け』の企業風土。そうした上意下達の土壌は、ほろ苦いことだが、『言われたことをよく聞くのが良い子』という学校風土の延長線上にある」というコラム氏の指摘は図星でしょうか。学校関係者はどう反応するか。「どんなひどい校則でも、守る子はいい子」というのは誰でしょう。不正や虚偽、それを見過ごしていると、やがては、誰もが相手をしなくなるものです、人でも会社でも、国でも。そうじゃありませんか。ことは「変換ミス」で済ませられないのです。
「それは会社の方針とのこと、正しいようです」 ⇆ 「それは会社の方針とのこと、但(ただ)し異様です」
IIIIIIIIIIIII
・商人の嘘は神もお許し ・嘘にも種が要る ・嘘つきは泥棒の始まり ・大嘘はつくとも小嘘はつくな ・死にたいと麦飯食いたいほど大きな嘘はない ・人の噓は我が嘘 ・譬えに嘘なし坊主に毛なし
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