「人生百年時代」はお題目、要は中身です

 【談話室】▼▽「明治の男は気骨があった」。そんな話を聞くたびに「明治の女性も立派です」との思いが募る-。報道写真家笹本恒子さんは75歳にして明治生まれの女性の取材を始めた。ひたむきな情熱を後世に残す必要があると。▼▽写真集を開くと個々の肖像写真に取材時の逸話が添えられている。本県の女性の姿もあった。基督教独立学園高(小国町)の書道教師桝本うめ子さんは当時98歳。授業中は立ちっ放しで、生徒たちに手本を書いて回る。「どの字が難しいの。そうか、あなたはまだ1年生ね」▼▽洋画家桜井浜江さん(山形市出身)が東京都内の自宅アトリエで後進を指導している場面も印象深い。飾らない姿で当時87歳。多くの後輩から「思いやりのある優しい方」と慕われている。後進への稽古について尋ねてみると「食うためにね」とおどけた答えが返ってきた。▼▽自らも生涯現役を貫いた笹本さんが107歳で亡くなった。近著では地球儀をそばに置いてほしいと若者に語りかける。「くるり、くるりと、そこに生きている人の命と暮らしを想像する。そうすれば世界はもっと仲良くなれるのではないですか」。心に染みる言葉である。(山形新聞・2022/08/25)

  報道写真家の笹本恒子さん死去 女性では草分け 女性報道写真家の草分けとして知られた、笹本恒子(ささもと・つねこ)さんが15日、老衰のため神奈川県鎌倉市の施設で死去した。107歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。喪主はおい正男(まさお)氏。  1940年財団法人写真協会に入り、日独伊三国同盟の関係者らの会合など日米開戦前夜の現場を記録。戦後は日米安保闘争など現代史に残るシーンを取材した。  一時撮影から離れたが、85年、昭和史をテーマに撮りためた作品による個展「昭和史を彩った人たち」が反響を呼び、70代で写真家として復帰。写真集に「きらめいて生きる明治の女性たち」「昭和を彩る人びと」など。(共同通信・2022/08/22)

 いつも元気、いまも現役(フォトジャーナリスト 笹本 恒子さん) 日本初の女性報道写真家の誕生「日本では初めてですが、女性の報道写真家になってみませんか。女性の目で、あなたの目で見た写真を撮るのです」。写真協会の創設者の林謙一さんの言葉に後押しされて、昭和15年(1940年)に日本初の女性報道写真家となった笹本恒子さん。                                         代表作は、戦中の「日独伊三国同盟婦人祝賀会」、「ヒットラーユーゲント(ヒットラー青年団)来日」をはじめ、戦後の復興時代の「マッカーサー元帥夫妻」や「三井三池争議」、「安保闘争」など、日本の激動時代を女性の目でしなやかに捉えてきた。こうした歴史的場面を撮影する一方で、さまざまな分野の「時の人」を写真に収めた。/「最初は報道写真家なんて、わたくしにできるのかしらと不安はありました。林さんがライカ(ドイツ製カメラ)にフィルムを入れてくださって、日比谷公園でのスナップを勧めてくださったの。その写真を見て、『画家をめざしていただけあって構図がよくまとまっている』と言ってくださいました。それが少しの安心でしたね」と笹本さんは当時を振り返る。(以下略)公開日:2020年10月 1日 09時00分更新日:2022年8月23日 09時27分(https://www.tyojyu.or.jp/net/interview/itsumogenki-imamogeneki/sasamototsuneko.html

 「よく明治の男には気骨があるといいますでしょ。でもわたくしは男性ばかりでなく、明治の女性にだって立派な仕事を成し得た方がいるはずだと思っていました。戦前は女性には選挙権もなくて、男性だけが威張っていた時代。そんな中で矍鑠(かくしゃく)と仕事を続けてきた明治生まれの女性たちの功績を、大正生まれのわたくしが世の中に知らしめ、次の世代へ伝えていくのが使命ではないかと思いました。1人ひとりに手紙を出して撮影の約束を取り付けて、45名を写真に収めました」(上記の「いつも元気…」から)(左写真も笹本さんの作品。上野駅前「北畔(ほくはん)」の経営者、阿部なをさん。どうでもいいことだが、ある時期、ぼくはこの店によくでかけていました)

 笹本さんの作品を見るようになったのは、彼女が百歳を超えた時期からでした。ぼくの敬愛おく能わざる存在であった、むのたけじさんとしばしば並んで報道されたり、対談なども行われたからでした。もちろん、その名前は早くから知っており、作品にも何度も目を通していたはずですが、ぼくには、その段階では名だたる(男性)写真家に目を奪われていたから、彼女に視点(ピント)を定める余裕がなかったのだと、今更に白状します。写真よりも活字というふうにぼくが好んでいたのではなく、活字(文学や評論など)も写真もという、欲張りの志向を持っていたために、結果的には「虻蜂取らず」というか、両方への関わり方が中途半端なものになったのです。この「中途半端な(half-way)」こそが、自慢するのではありませんが、ぼくのなけなしの「特質」になったのは言うまでもありません。(映画『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』、下の写真も:https://www.youtube.com/watch?v=aHj_-OA-mac) 

 いつの頃から言われだしたのか、「人生百年時代」と。あまり好まない表現です。おふくろは「百歳」でなくなりました。九十五歳を前にして、脳梗塞を患い、以後は病院で過ごした。親父が早くに亡くなり、その後、彼女は一暮らしを続けていたさなかの「脳梗塞」でした。最後の数年は、文字通り「眠るような」状態でありました。いま、社会の大きな課題になっている「介護」をどうするか、姉たちと話し合って、ぼく自身が引き受けることにしていたのでした。幸いにしてなどと言うと罰が当たりますが、そうなる前に病院に入り、手厚い医療のもとで、おふくろは亡くなった。

 入院中は何度か病院に出かけましたが、やがて昏睡状態に入り、静かに亡くなったと言う。おふくろは、言うともなく、「長く生き過ぎた」としばしば漏らしていました。ぼくにはまだよくわからない心境だった。九十を超えると、今では珍しくもないのでしょうが、以前(二十年ほども前)は珍しいことで、盛んに「長寿」と人にも言われ、我にも感じられていたのでしょう。長く生きることは尊いことなどと、単純には言えないでしょう。しかし、人によっては「健康で長生き」を絵に描いたような人生を過ごされる方もいる。実際はどうなのか、外部からは推し量れませんが。何が幸か不幸か、人それぞれだし、人によっても、その「幸福や不幸」は一人勝手に生み出せるものではないものでもありますから、運命でもあり、流されるままという「流転」のようなものでもあるでしょう。(下図は【人生100年時代に関する意識調査】・https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000035779.html)

 上に出てきたむのさんも百歳を超えて、各地で講演をしておられた。ぼくの先輩が、やはりむのさんの追っかけで、「むのさんの講演はすごいものだった。大きな声で、会場の外まで響いていた」と、その矍鑠(かくしゃく)ぶりを話してくれたことがある。笹本さんも極めて健康で過ごされていたが、百歳で転倒し、そのために入院(施設入所)されたと言う。リハビリに務められ、「もう一歩で本復」というところで亡くなられたのでした。「長く生きること」ではなく、「健康で長生き」をこそと思いますが、健康といい長生きということに関しても「定義」があるものではありません。だから「健康で長生き」は、各人が「そうだ」と思えるような生活を続けられるなら、それはそれで結構なことだと、ぼくはじつに素朴に考えています。

 長生きは「数字(年齢)」だけではないし、健康もまた、いろいろな条件を備えているのですから、ぼくにとっては「これが健康」というものがあれば、それに越したことはないでしょう。「病気」でない状態が健康なのだとはいえない。いつも言うことですけれども、病気の中にも健康な部分はあるし、健康の中にも病気の要素が入っているのです。健康と病気は「糾(あざな)える縄のごとし」ではないですか。(左図は厚労省の調査(2018年)による

 「(地球儀を横において)くるり、くるりと、そこに生きている人の命と暮らしを想像する。そうすれば世界はもっと仲良くなれるのではないですか」(笹本恒子) 

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