和して同ぜず、同じて和せず(二)

 底なしの泥沼というべきか。人権として認められるべき「信教の自由」は侵されてはならないのは当たり前。誰がどんな信仰を持とうが、何人もそれを阻止することは間違いだ。しかし「信教の自由」という名のもとに、宗教に名を借りた不法行為や非道な所業を許してはならないのは、論をまたない。現に、この劣島を襲撃している「偽宗教の嵐」は、信教の自由にも中(あた)らなければ、宗教活動としての範囲を、遥かに逸脱しているとぼくは早くから(二十年も三十年も前から)指摘してきた。勤務する学校の学生が信者になり、今とまったく変わらない「宗教活動」と称した洗脳活動を諫めるためにも、ぼくは身をもって、その「宗教行為」を体験してきた。霊感商法も、その「教団」の典型的な逸脱行為の一つだった。

 (盲信、あるいは狂信の徒には、物事を冷静に判断することはできなくなるし、そのような状態になることが「信仰」だと、固く思いこんでいるので、なかなか、金縛り状態にあることを気づかせることは困難だった。それは今も変わらない。「君のは邪教だよ」というと、烈火の如く怒るのがオチだったから。いかなる宗派にも、この危険性や狂信性の要素はあるのだ。自己の尊厳を失わないで、信仰に身を捧げるというのはというのは、思いの外、困難なことではないか。自分を失うことが信仰者だと錯覚しているのだ。あるいは、自己喪失を求めるのが宗教だというのなら、それは宗教にあらずして、宗教に名を借りた「洗脳(金縛り)」だというほかない。当該の「教団)は「カルト」に等しいことを行ってきたし、現に、そうしているのではないだろうか)

 ある時期まで、公安警察がこの「教団」を「特異集団」としてして観察の対象としていたのは事実だったし、それがある政治家とその取り巻き勢力の台頭とともに指定を外されたのも事実だった。「教団名称変更」の認証も、彼等の絶頂時だった。それ以降、この「偽宗教教団」は我が物顔に振る舞い、その汚染された集団結集力(あるいは集票力)を、銃弾に倒れた元総理が、「意気揚々」「意気軒昂」として利用し尽くしてきた。「偽教団」からすれば、勢力範囲を拡張するために、この単純な「お山の大将」を利用してきた、しゃぶってきただけだったのだ。これが持ちつ持たれつの関係になって、それ以降、ある時期には政権政党の「総裁選挙」にまで「党員票」として参加したのです。「教団の信者」が「党員」となって、投票権を行使したとされる。「信教の自由」は保証されるべきだが、その名のもとで「逸脱行為」「反社会的行動」を取っていたのだから、それは「偽宗教」というほかない。(参照・「安倍氏は三代にわたって付き合いがあった」マスコミが書かない山上容疑者・統一教会・自民党をつなぐ点と線:鈴木エイト・プレジデントオンライン:https://president.jp/articles/-/59539)(左上の写真も)

 みずからの権力掌握のために、この悪勢力を引き込んだのが元総理だった。彼一人の仕業だというのではない。ぼくはこの小心者の嘘つきが「権力の頂点」と目される総理の椅子に座ったのは、取り巻きや、その他大勢が「寄らば権力の影」と、神輿の担ぎ手になったからだ。担がれる御仁は「無能」がいいというのが衆目の一致するところ。その点では、彼は格好の担がれ役だった。これをして、「時宜を得る」「悪運が強かった」とぼくは言ってきたし、今も言う。それが「歴代最長」とかなんとか、寝言をいっている間に、惰眠を貪っていたぼくたちも同罪かもしれぬが、この社会は引き返すことのできなところまで曲がってしまい、這い上がることのできない奈落にまで落ち込んだのだ。

 政権党の総裁は即「総理大臣」である現状を見るなら、この「偽教団」は政治権力に癒着して、国政にまで大きな波及力(影響力)を行使してきたことになる。繰り返すまでもないが、信教の自由は死守されるべきものだが、それを騙(かた)って、違法行為、逸脱行動を繰り返してきたのが、この「教団」で、ぞっとすることだが、その「偽宗教教団」と昵懇の仲になっていたのが、時の権力者とその取り巻きだったということ。現総理の後援会の会長も「癒着派」だったということが明かされている。この総理は「私個人は旧統一教会とは関係ない」と怯えつつ話していたが、それこそが「関係ある」ということなんだな。まず「辞職すべき」は総理大臣ではないか。「毒を喰らわば皿まで」というが、「票を取るなら悪魔と心中する」ということかもしれぬ。しかし、我々までが道連れなどとは、まっぴらごめんだ。

 この政権党の幹事長は、問題発覚当初、「我が党は一切関係がない」と大見得(実は、怯えながらの虚勢だった)を切っていた。生徒の三割も四割もが「コンビニで万引き」していたとしても、「(万引きは生徒個人の問題で)我が校は無関係」と白を切る校長のような「屁理屈」が通用すると考えている、その不真面目な姿勢こそが、国民(人民)を舐め切っていると、ぼくが言う点なのだ。その後、「襟を正し」とかなんとか、おちゃらかしの弁明をしていたが、嘘で生きている人間集団という、政権与党には、恐らく「解体」か「分裂」が待っているだろう。

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 ぼくは萩が好きです。「おはぎ」も好きですが、それ以上に秋の花の代表のような「萩」を好んでいます。荒れ庭にも一、二本、咲き出しを待っているのがあります。種類は「江戸小紋」とか。今は草に覆われていて、暑苦しそうですが、その草をすっかり取りのぞくと、じつにスッキリとした、穏やかな優しさを振りまいてくれるのです。万葉の昔から、この秋の草花は愛でられていました。「さを鹿の朝たつ野べの秋萩に玉とみるまでおける白露」(大伴家持)あるいは、「色かはる萩の下葉をながめつつひとりある身となりにけるかも」(賀茂真淵)もっと新しいところの歌人のものに、「ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ」(前川佐美雄)などなど。

 「くゞらせて色々にこそ萩の露 」(嵐雪) 「しら露もこぼさぬ萩のうねりかな」( 芭蕉) 「凩やこの頃までは萩の風」( 蕪村) 「折りとりて花みだれあふ野萩かな 」(蛇笏) 「萩に伏し芒に乱れ古里は」( 漱石)

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 「付和雷同」、「雷同一律」、現下の「偽教団」騒動を見ていて、まず浮かんだのがこの言葉でした。とにかく、定見も何もなく、強そうなところにより掛かる、無定見の衆、それが集まって徒党(政党)をなしているのではないか。自らの頭でものを考え判断しようとしないで、誰かの意向を受け入れることが「信仰」なのだ、無定見であることが「信者」だという、そのような「教団」も、定見も節操もない「政党」も、その根っこは同じじゃないか。その指向(志向)性は、「政治宗教」であり、「宗教政治」ともいうべきものではないかとぼくは考えている。政治と宗教は二つであって、一つなんだ。だから癒着するのも容易なんだな。

OOOOOOO

 今の「政権与党」は名称を変更すべきだろう。この「与党」には、表向きは「野党」を名乗っている(甘んじている)多くの議員も入る。新政党名は「一味郎党」、または「一族郎党」、それとも「一家眷属」、「一家団欒(だんらん)」「家庭連合」としたらどうか。「宗教教団」に関しては、まずそれを認証した当局の責任において、時間はかかろうが、適切な処断を下す必要がある。被害者救済を果たしつつ、時間をかけても、法律に基づいて「旧✖✖教会」は解散させるべきだろう。「認証」に関わった政治家や官僚は職を辞すのが当然さ。しかし、「仲間(身内)」が「仲間(身内)」を切れるかどうか。大いに怪しいのだが。

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