なしくずし、折り合いをつけ、どうするか

 【編集日記】折り合い 神社や寺院に参拝する前に手を清める手水(ちょうず)。新型コロナウイルス禍以来、その空間を花で飾る「花手水」に改めて目が向けられている。不特定多数の人に感染が広がらないよう使用を控えている折、鮮やかな花々は訪れる人の気持ちを潤す▼江戸時代の手水はいまと様相が異なり、全身を洗う行水に近いものだった。城下は土ぼこりが舞って汚れやすく、刀のさやや黒い羽織は真っ白になる。住んでいる長屋はすすが多いため、手水は日課だった▼清潔を旨とした理由はもう一つあった。「〈洗う〉文化史」(吉川弘文館)が参勤交代で江戸に住んでいた藩士の日記から読み解いている。不潔や無精を許さない風土があり、江戸詰は一時的でも、恥は一生続く―として、清潔を心がけてきた▼日本人の衛生観念を否定的に見る向きは少ないだろう。マスク着用の徹底や手洗いなどは、世界のどの国にも引けを取らないはずなのに、1週間の新規感染者数が「世界最多」、県内の感染者が「過去最多を更新」などのニュースが続く▼医療機関の疲弊は日ごとに増し、社会の活力はそがれ続けている。ウイルスとどう折り合いを付けていけばいいのかを、新たな観点から議論していく段階だろう。(福島民友新聞・2022/08/22)

 【雷鳴抄】新型コロナウイルスの流行は依然、先が見通せない。県内でも7月20日以降、新規感染者の4桁台が続く。このレベルに慣れてしまうのが怖い▼県内の累計感染者数は、今月18日で16万8419人に達した。全人口に占める割合は9%近くに上る。この数字ではピンとこないかもしれないが、11人に1人と言えば多さを感じられるだろう▼小欄でも注意喚起のコラムを書いてきたのだが、当事者意識を実感することは難しかった気がする。だが、その心持ちは吹き飛ばされた。ごく身近な同僚が感染したからだ▼感染対策は十分なように見えたし、危なそうな所への出入りも心当たりがないという。万全の対策をしていても感染の可能性があるということだ。常に感染と隣り合わせの現実を、危機として感じさせられた▼症状に苦しんだ別の先輩からは「絶対にかからないほうがいい」と言われた。マスクや手指消毒など警戒のギアを上げた、と言えばかっこいい。だが実際は、感染が身近に迫って焦っただけのことだ▼主流の「BA・5」は重症化しにくいとされるが今月、死亡者の最多更新が続く。さらに感染力の強い「BA・2・75」が確認された。周りに感染者が出てから警戒を強めても遅い。絶対に感染しないとは言い切れないけれど、しっかりした対策はリスクを下げるはずだ。(下野新聞・2022/08/21)

 【水や空】全数把握見直しへ 夕方になると、通信社の出稿案内のスピーカーからひっきりなしにこんな放送が流れてくる。〈○○県は△△△人の新型コロナ感染と公表済みの△人の取り下げを発表しました〉。取り下げの方はほぼ例外なくひと桁の数字だ。感染者数の「全数把握」が極めて精密に行われていることがよく分かる▲その全数把握を取りやめる検討が始まったのと同じタイミングで感染者の数が跳ね上がっているのは何だか皮肉に思える。全国の感染者数は2日連続で過去最多を更新した▲医療機関や保健所の負担が重いのだという。確かに、感染者数をきっちり把握するための連絡や集計に追われるあまり、感染者のケアや診療に手が回らないのでは本末転倒▲市民に行動の変容を呼びかけるための物差しとしての意味も近ごろは怪しい。ただ「公」の部類に属する仕事のやり方がなし崩しに変更されるのは少し気になる、と書きかけて▲ルールや決めごとがいつの間にか曖昧になったり、うやむやにされたりすることを指して「なし崩し」を使うのは誤用なのだ、と前にどこかで読んだことを思い出した。漢字で書くと「済し崩し」。元々は大きな借財を少しずつ返済することに由来する言葉▲状況を徐々に前進させ、好転させる-全数把握の見直しはその契機になるだろうか。(智)(長崎新聞・2022/08/20)

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 あまり芸のないことですが、各紙のコラムから三本。いずれも「コロナ対策」が「壁に突き当たっている」「手探りの対策」の様子が指摘されています。

 新型コロナの感染者が初めて出て以来、もう二年八ヶ月です。「新型」というくらいですから、既往の処方やワクチンでは対応できなかったのは当然であるとして、それにしても、並みいる専門家たちが、ぼくの目(老眼)から見ると、文字通りに「右往左往」していることに当惑を覚えました。あるいはコロナ対策に関して、官僚も政治家も、まるで「感染症」に対する方針も見通しもまったくないままで、おそらく「課題」を小さく扱ってきたという印象を持ってきました。発生後数ヶ月の段階で「緊急事態宣言」なるものが出された。何を勘違いしていたのだろうか。それが必要なものだったかどうか、今から考えても大いに疑わしいし、その前の三月段階では全国一斉休校の命令(措置)が、政府から一方的に、しかも唐突に発表された。これもまた、一種の政治劇場の幕開けだったかもしれない。感染症対策というよりは、政治マターとして、国民受けを狙った、誰かの「一人芝居」のようにしか見えなかった。(今からなら、なんとでも言えることですから、なんとでも言わないことにします)

 「済し崩し」に物事(事態)を有耶無耶(うやむや)にしているのかどうか。全数把握は、それは必要でもあるでしょうが、その把握の仕方に問題があるのではないでしょうか。記入項目が百以上だったと言われていました。この話を聞いて、学校の教員がやたらに書類を管理職や教育委員会に出さなければならないために、本来の授業やその準備に時間が取れないという「本末転倒(顛倒)」の状況を思い出しました。ぼくも、教師稼業の真似ごとをしていましたから、なにかと書類を書かされたし、あるいは文科省に「課程認定」のために、履歴書を繰り返し、間を置かないで提出を求められた。ぼくが少し早めに退職したのも、「同じ履歴書」を三年も続けて求められた、その作業の馬鹿らしさ、煩雑さのためでした。「全数把握」の件は、それとは別の問題だと言えるかどうか。

 目下の「(感染症者)全数把握」という手続きで行政が求めるのは、問題解決のための材料ではなく、自らが定めた様式に合致した報告書を出させたいだけではないでしょうか。もちろん、言い分はありましょうが、現実には、医療も行政も「業務逼迫」の危殆に瀕しているのですから、「全数把握」は万全の方策であったとして、その万全を期した結果、感染者が爆発的に増加し、対応に大童(おおわらわ)の状態が現出しているのです。これでは泣くに泣けない、逆さま行政ですな。感染症の初期には「日本型モデル」と意気軒昂に、感染者の少なさを誇ったのが、二年後には、形勢は逆転し、同じ「日本型モデル」でありながら、感染者数は世界一だと言う。何事でも、世界一はいいことだという、感染症対策に対する無策は、まさか、「世界一」を目指した、政治的意図があってのことではないでしょうね。

 「なしくずし」というのは、借金の山があって、それを少しずつ崩してゆくことを指します。一気にではなく、計画を立てて少しずつ返済する、じつに要領を得た方法ではないでしょうか。それを、都合よく解釈して「なしくずし」に、事態を曖昧に、あるいは有耶無耶(うやむや)にしてしまう魂胆なのかどうか。辞書には「物事を少しずつかたづけていくこと」「物事を少しずつ変化させ、うやむやにしてしまうこと」「 借金を少しずつ返すこと」(デジタル大辞泉)と出ています。言葉というのは便利なのか不便なのか。また、「折り合い」をつけるというのも、じつに変幻自在を許容する言葉ですね。「折り合うこと。譲り合って解決すること」「 人と人との関係。仲」とあります。(デジタル大辞泉)しばしば「経済をまわす」ことと「感染対策のための行動規制」を指して、両者の折り合いをつけるというのでしょうが、さて、どう言えばいいのでしょうか。物事の進め方で、一番行けないのは「中途半端」何だな。

 「人の活動を制限する」ことと「経済の動きを止めない」ことは、本来は両立しないものでしょう。だから、ここで熟考を要するのは「感染症」を収束させることを第一義にするのか、それとも、少々の犠牲は伴うのは仕方がないが、何よりも経済活動を阻害しないこと、この「選択」です。二兎を追うものは一兎も得ず、こんな事態が、まだまだ続くのでしょうね。人命も大事だけれど、お金はもっと大事、という、比べられないものを比較するというのは、どこか違うような気がします。運悪しく感染されたという現総理、ゆっくりと養生されて、その間に、しっかりとした方針と展望をもった政策を立ててもらいたいね、というのは無理というもの。何よりも回復に専念、念には念を入れて。「政治空白は一日も許されない」ということはありませんし、幸いなことに、代わり(代打)はいくらでもいるようですから。虎視眈々と、…。

 「絶対にかからないほうがいい」という「雷鳴抄」のコラム氏が言われるとおり、感染経験者の先輩の言うとおりです。「感染しないためにどうする?」が、最大のコロナ対策です。どんな策がありえるか。それとも、何度でも、ワクチン接種が効果的なのか。でも、ワクチンを何度打てば、切がつくのでしょうか。古い表現で「守株待兎(しゅしゅたいと)」があります。「株を守って兎を待つ」、うさぎが株につまずいて死んだという(それを手に入れた)幸運を、いつまでも待つというのも愚かだし、新奇を衒うのも感心しません。正攻法という、もっとも当たり前の方法に気づく必要がありそうですね。その際の核となるのは「人命大事」、それに尽きる。

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 早朝五時前(四時に起きて、猫に食事を与え出す)、例によってラジオを聴いていたら、本日の「誕生の花」と「花言葉」が流れてきました。「夏水仙」だという。別名「リコリス」とも。草刈り最中の我が庭にも何株か、「夏水仙」がピンクの花をつけています。水仙とは言いますが、彼岸花の仲間だとか。「花言葉」は、いろいろあります。ラジオではなんと言っていたか、聞き漏らしました。調べてみると「深い思いやり」、「楽しさ」、「悲しい思い出」、「あなたのためになんでもします」とじつに多様でしたね。なんでもアリの百貨店です。一つだけを除いて、「コロナ感染者」にもってこいの励ましではないでしょうか。本日が自分の誕生日でなくとも、夏水仙に肖(あやか)りたいものですね。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)