かくすればかくなるものと知りながら

 【筆洗】近代以降、どこの国でも戦争を始める際、時の責任者が必ずと言っていいほど使う言葉があるそうだ▼どんな言葉か想像していただきたい。皮肉な話なのだが、「われわれは、戦争を望んでいるわけではない」だという▼試しに一九四一年十二月八日の東条英機首相の開戦表明の演説を引く。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」「帝国は飽(あ)く迄(まで)、平和的妥結の努力を続けましたが…」。なるほど、「戦争を望んでいるわけではない」のニュアンスが読める▼事情は想像できる。戦争はしたくないが、ここにいたってはやむを得ないと説明することで戦争に対する国民の理解を求めているのだろう。非は相手にあるとも強調できる。戦争はいやだ、望まない。そう唱えながら。こうして戦争という沼に足をとられていく▼七十七回目の終戦の日を迎えた。ロシアのウクライナ侵攻や米中の対立を挙げるまでもなく、国際情勢は緊張に向かう。戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり「戦争はいやだ」だろう。その「いやだ」を最後まで「しかたない」「むこうが悪い」に変えない頑固さだろう▼<戦争と畳の上の団扇(うちわ)かな>三橋敏雄。畳の上の団扇という平和。そこへ「しかたない」は気づかぬ間に忍び寄ってくる。(東京新聞・2022/08/15)(ヘッダー:ロイター/アフロ)

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 生意気を言えば、本日の「筆洗」は、じつに面白いし、的を射ていますね。「止むを得ず」「止むなきに至った」「止むに止まれず」「(戦争ではなく)平和を願っているにも関わらず」とかなんとか、いかにも唆(そそのか)され、戦を仕掛けられたからには「応戦せずばなるまい」と、「来るなら来い」と言ってみたいが、「きたら逃げるさ」と、上手を行くことができないのだ。いかにも、一端の口を利くが、中身は空想・妄想だし、せいぜいが観念の迷妄です。「戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり『戦争はいやだ』だろう。その『いやだ』を最後まで『しかたない』『むこうが悪い』に変えない頑固さだろう」という、コラム氏のその「呪文云々」の言を、ぼくは固く堅持してほしいと、報道の任にある方々に願うばかりです。戦後になってからだったか、朝日新聞の重鎮で、政界にあっても一目を置かれていた緒方竹虎さんが、もう少し新聞社(朝日)がしっかりと言うべきことを言っておれば、なんとかなっただろうに、というような意味のことを言っておられたと記憶しています。戦前、戦中にこそ、表明すべきだった覚悟ではなかったか。

 ぼくは、このよう「止むなきに至った」などという「口からでまかせ」の強がり(強弁)を方言し、勝つ見込みのない戦いに挑むのが「勇気」だと錯覚(勘違い・早とちり)している「頓珍漢」、ある種の観念過剰主義の典型は「国粋主義者」に多かったろうと思います。(もちろん、共産主義者にも、たくさんいた)今でも腐るほどいますが、その先輩は平田篤胤ということになっているようですが、ぼくはもう一人、吉田松陰を思い出しています。若い頃は、無理してというのも変ですが、ぼくは松蔭をよく読みました。死後は「神」として祀られるほどの人物(松陰神社)だと評価する向きが少なからずいたことは事実ですが、「短慮の人」だったという気もします。もっとも、なくなったのは三十でしたから、まだまだ変わる可能性はいくらもあったでしょう。「死ぬ必要がなかった」「打首になるような罪ではなかった」、それはまるで「ソクラテスの死」を想起させるものがあります。そう、ぼくは今でも考えています。(松蔭について書きたくなっていますが、この場は、それにふさわしくありませんね)

 松蔭はわずか二十九歳で一期を終えます。ある種の狂気であり、純粋な陽明学派が、直情径行、衝動に動かされるとどういう仕儀に至るかを絵に書いたように見せてくれました。学者としての松蔭の仕事は評価できても、「尊王攘夷」に直結する「短絡」には、ぼくはついてはいけませんでした。一人でアメリカに乗り込んで行って、「大和魂だぞ」とでも言うつもりだったのか。松蔭といえば、それこそ「大和魂」でしょうが、死の直前に認(したた)めた「留魂録」の冒頭に、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」と詠むほどの「国粋(国の美点とされるものを信奉すること)」に殉じようとした人物でした。同じ「大和魂」を言うにしても、「大和心」といった宣長さんとは大違いです。「朝日に匂う山桜花」と国学の大家は詠んだが、松蔭は「尊王攘夷」をこそ、というのです。これこそ、「日本(大和魂)陽明学」というべきでした。大和魂は、まるでお題目のごとく、衆庶の身動きを封殺(脳拘束)し、「右に習え」の号令のように機能したのでした。松蔭の影響力と言うより、人々の中に「一致団結」したい、「縛られたい」という、「いつでも号令を」という、ある種のゲス(下衆・下種)の根性があるからなのでしょう。

 松蔭の獄死からわずか八十年後に「日米戦争」が始まります。まさに「昭和の尊王攘夷」でした。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という、松蔭の毒に当てられた「大和人」は少なくありませんでした。あるいは「一億火の玉」というのは「一億大和魂」ということだったかもしれない。戦時中にたくさんの翼賛短歌を乱造した斎藤茂吉氏に「ひとつなるやまとだましひ深深と対潜水網をくぐりて行けり」という、なんとも言えない「貶められた短歌」というほかない、下劣で下卑たものが残されました。短歌が啖呵ではなく、銃器にもなる、武器にもしてみせるという戦争讃歌のお粗末でした。戦後で言えば、作家の三島由紀夫さんだったでしょうか。

 そして、翻って考えるのは、ぼくの中にもこのような「大和魂」が流れているのか、ということであり、流れているぞ、そう思うと、ガックリきますね。(この駄文集録のどこかで、大和魂と大和心について触れています。今でも、基本の考え方はまったく変わりありません。一人一人に「大和魂」、あるいは「大和心」というものが(表現はともかく)、強弱濃淡さまざまに、あるのではないですか。これぞ「大和魂」というのはマヤカシ、幻影だな。

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● 大和魂(やまとだましい)=日本民族固有の精神として強調された観念。和大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。幕末にいたり,対外危機の深まるなかで,佐久間象山橋本左内らによって「西洋芸術」に対比された「東洋道徳」の思想内容は大和魂であり,吉田松陰の詠んだ「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は,尊皇攘夷の行動精神を熱情的に吐露したものとして有名である(→攘夷論)。明治天皇制国家のもとでは,大和魂はナショナリズムの中核的要素として重視され,内容的にも芳賀矢一らによって天皇への忠誠,国家と自然への愛として強調され,さらに新渡戸稲造によって武士道の国民的規模への展開として説かれた。その後は日本民族の発展のための対外拡張を美化する精神的支柱としての色彩を濃くし,昭和の戦時には軍人の士気高揚のスローガンとして用いられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

● 吉田松陰=没年:安政6.10.27(1859.11.21) 生年:天保1.8.4(1830.9.20) 幕末の長州(萩)藩士。尊攘派の志士。諱は矩方,通称寅次郎,松陰は号。父は藩士杉百合之助,母は滝。山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。嘉永3(1850)年九州を遊学。翌年江戸に出て安積艮斎,山鹿素水,佐久間象山に経学,兵学を学ぶ。12月,友人との約束により藩から許可を得ないまま東北を遊歴,咎められて士籍を削られ,杉家育となる。同6年江戸に赴き,折から来航中のペリーの黒船を視察。象山の勧めもあり海外渡航の志を立てる。翌安政1(1854)年3月下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求め拒絶されて自訴,江戸伝馬町の獄に送られ,次いで萩の野山獄に移される。このときより「二十一回猛士」の別号を用いる。生涯21回の猛心を発しようとの覚悟である。時に25歳。また同獄の人に教授を行う。唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。12月出獄し杉家に幽居。 安政3年宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け,一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り,「普天率土の民,……死を尽して以て天子に仕へ,貴賤尊卑を以て之れが隔限を為さず,是れ神州の道なり」との断案を下す。翌年11月,杉家宅地内の小屋を教場とし,叔父玉木文之進の私塾の名を受けて松下村塾とする。高杉晋作,久坂玄瑞,吉田稔麿,山県有朋,伊藤博文らはその門下生である。同門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば,身辺を構わず常に粗服,水を使った手は袖で拭き,髪を結い直すのは2カ月に1度くらい,言葉は激しいが挙措は穏和であったという。安政5年7月日米修好通商条約調印を違勅とみて激昂,藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言,また討幕論を唱え,老中間部詮勝暗殺を画策。12月藩命により下獄。翌6年6月幕命により江戸に送られる。10月25日死を予知して遺書を書き始め,翌日の暮れにおよぶ。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の句を置き,全編を『留魂録』と命名。その翌日,斬に処せらる。年30歳。<著作>『吉田松陰全集』<参考文献>徳富蘇峰『吉田松陰』,広瀬豊『吉田松陰の研究』(朝日日本歴史人物事典)

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 戦争を始める理由には事欠きません。「止むに止まれず」ですから。なんとでも理屈をつけてやろうと思えば、始められるのが戦争。しかし、仕掛けられた方はたまりません。「止むに止まれず」といって黙っているわけには行かないのです。目下、熾烈な「殺戮」が行われている「ロシアのウクライナ侵略戦争」を見るまでもないでしょう。「戦争」(とP大統領は言わない)を仕掛ける理由は二転三転、いまは理由も曖昧なまま「止められなくなったから続けている」という最悪の指導者ぶりです。ウクライナにとって「仕掛けられた戦争」であるからこそ、戦争を続けなければならない。止めるという選択肢はない。止めれば国がなくなるのですから。

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 本日は「終戦記念日」だという。数えて七十七回目。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」といって戦を始め、「惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」(「終戦詔勅」)「帝国の努力にもかかわらず、戦の思うに任せない状況に鑑み」て、「終戦」の「やむなきに至ったのであります」といって終わりを告げたのでした。この戦争による犠牲者は幾千万ともいうべく、国内外に甚大な被害・災厄をもたらした。「止むを得ず開始し」「止むを得ず敗戦を受け入れる」というのではなく、どんな状況にあっても「武力行使しない」「戦争の手段としての軍事力を持たない」、そのことを内外に、自他に明らかにするための「一日」であり、「終戦」の覚悟を銘記し直す日であってほしい。「敗戦」の意義があるとすれば、その一点にこそ、ですよ。負けたからこそ「憲法」が生まれさせられた。いわば「憲法を負け取った」のだといいたい。

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(「憲法前文」)

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