我々が生死を共にした記録が世界平和への…

 【滴一滴】きょう8月14日は日本がポツダム宣言を受諾した日である。終戦を翌日に控えたその日の日記にこうある。〈今日もまた暑い日だ〉〈廊下の患者は減ったが、まだ便所や階段の下へ患者がつめこんでいる〉▼原爆投下から9日目。自らも重傷を負いながら、広島逓信病院長として被爆者の治療に当たった岡山市出身の蜂谷道彦さん(1903~80年)の「ヒロシマ日記」だ。被爆後56日間、医師の立場で被爆の惨状を克明に記録した▼〈一夜のうちに十六名の死人があった〉〈口がくさり熱がでて白血球が激減し遂(つい)に死という経過を辿(たど)る者がありだした〉―。日記は10年後に米国で出版され、十数カ国語に翻訳されて世界に衝撃を与えた▼第2次世界大戦開戦時のルーズベルト米大統領夫人は「世界初の原爆投下が何をもたらしたかを語っている」と書評に書いた。英国の哲学者バートランド・ラッセルは「これまでで最も心を動かされた本だ」と言っている▼時代の振り子は今、揺り戻しているのだろうか。世界で再び戦争が起こり、核使用への言及や核抑止力に頼る動きも目立つ。広島、長崎の今年の平和祈念式では、両市長が危機意識をあらわに核廃絶を訴えた▼〈我々(われわれ)が生死を共にした記録が世界平和へのささやかな捨石となれば私の本望〉。日記のあとがきに込められた最後の言葉は重い。(山陽新聞・2022/08/14)(ヘッダー写真は「敗戦を伝える昭和天皇の放送を聴く人たち=1945年8月15日、大阪市・曾根崎警察署前」:https://globe.asahi.com/article/14417433)

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● 蜂谷道彦(はちや-みちひこ)(1903-1980)=昭和時代医師。明治36年8月9日生まれ。昭和17年広島逓信病院長となり,20年病院の近く被爆被爆者治療にあたったその時の体験を「ヒロシマ日記」として出版,英訳されて海外でも反響をよんだ。昭和55年4月13日死去。76歳。岡山県出身。岡山医大(現岡山大)卒。著作に「卒中物語」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 世に「十五年戦争」と言われる長い戦いに敗れ、この国が「敗戦」を認めた時(「終戦」に到った時)、ぼくは十一ヶ月の乳児だった。それから年令を重ね、どのようにして「戦争の歴史」を学んできたか、よく思い出せない。学校時代に「社会」「歴史」に代表される多くの授業があったが、そこで、縄文人や弥生時代、あるいは鎌倉幕府の成立や江戸時代の政策を学んだように、明らかに記憶に残されるような(現代史の)「学習」はなかった。これは、ぼくの不勉強だけのせいではなかったと思う。「現代史」とは、どこから始まるのかも定かではなく、まして「歴史事実」というものが確定していない状況下では、使われる資料も限られていたでしょう。

 ここで、ぼくが言いたいことは、曲がりなりにも「十五年戦争史」についていくらかの経過を知るに至ったのは、すべてといっていいほど「自習」「自学」「独学」だったということです。それは、一面では不幸なことだったかもしれませんし、他面では「歴史を学ぶ」(それは「歴史」に限られないこと)というのは、端的に言うなら「独学」に尽きると言えるのではないでしょうか。そして、この「独学」には終わりはないということです。「教えられる」のでは足りないものがあり、その不足を満たすのは「自ら学ぶ」ということです。

 「敗戦」を「終戦」と言い募る、あるいは「『敗戦』という事実をごまかす、『終戦』という表現」と言われてきました。敗戦か、または終戦か、どちらが、この国の歴史の事実に即しているのか、大いに「論争」が展開された経緯があります。ぼくにはどうでもいいこと、多くの識者たちには捨てておけない大問題だったのでしょうな。それで、今に到って決着がついたのかといえば、そうではありません。決着のつけようがないからです。どういうことでしょうか。面倒な議論は避けたいのがぼくの常、口が裂けても「負けた」と言えるかよ、と誰かはいうのでしょう。だから「勝ち負けを争ったにも関わらず」(それに蓋をして)「戦いは終わった」と言いたい人がかなりいるのです。いてもかまわないし、いないほうが可笑しいと言うばかりです。しかし、真実に近いのは「無謀な戦争を仕掛け、長い間続けてきたが、ついに戦争状態(戦時体制)を維持できないほどに疲弊して、この国は戦いに敗れた」、だから「終戦」というのではないでしょうか。「戦に敗れた」から、「戦争が終わった」というのです。(どういう表現を工夫しようが、表している内容はまったく同じこと)しかし、「戦争の惨禍・惨状」はいたるところに刻印されていました。ヒロシマ・ナガサキへの「原爆投下」と、その余波はその典型例です。歴史は、表向きは「大文字の歴史」であるが、深いところでは、庶民の「なけなしの経験の蓄積」そのものだと、ぼくは考えています。「被爆者の体験」がなければ、「原爆」などというものは、風船玉が割れたようなものでしかないからです。

 小学校時代、ぼくは「原爆投下」と「被爆者」の映像を、授業の一環として観たことがあります。その段階では、無慈悲(鬼畜米英)、悲惨(ケロイド)などという「決まり文句」に動かされて、ほとんど実態・状況がわからなかったと思う。今日の学校教育では、いろいろと「国家の犯罪にかかわる不都合な事実」は授業では扱わないようなことになっているようです。それだからということではないけれど、「日米戦争」とか「第二次大戦」という歴史の事実を知らない人々がたくさん生まれていると聞きます。そうならないための「歴史教育」をというのですが、「自虐史観」だとか「敗北の歴史」ばかりを教えては、国家に対して「誇りが持てなくなる」と杞憂する向きがたくさんおられます。「国家に誇りを」というのは、どういうことを指すのか。そもそもの出発点から、国家が大事であって、その国家の一員として国民(個人ではない)を育てるということが針小棒大に語られる時代になっているように、ぼくには感じられてならないのです。紙風船のように軽んじられている「人情」「厚誼」が浮遊している時代や社会を指して、どこを突けば「美しい国」と言えるのでしょうか。誰にも、どこにも、美・醜は切り離し難く結びついているのですのに。

 人間は過ち繰り返す存在です。個人であれ、集団であれ、何度でも過ちを犯す。どんなに間違いをしないと誓ったところで、間違ってしまう。ぼく自身の経験から言っても、そうであります。そこから、ぼくは何を学んだか。どうにかして「同じ過ちを繰り返さない」ようにする、そのためには、過ちを犯した時点(地点)に立ち返る、あるいは「間違った記憶」を失わない、この二つを、なんとしてでも守ろうとしてきたと、言えなくもありません。間違いを犯しそうになった時、それ以前に間違いをを犯したところに立ち返る(間違いのオリジン)こと、これをなんとかして学び取りたいと願いながら生きてきました。

 原爆投下によって引き起こされた「惨禍」、そこから「人間の尊厳を回復する」ための弛(たゆ)まない努力、このような人間の足跡(軌跡)を刻した資料は数え切れないほどあります。コラム氏が挙げられている「ヒロシマ日記」は、その中でも代表的なものでしょう。自ら被爆しながらの、蜂屋さんの献身的な医療行為が克明に記録されています(ナガサキの永井博士に重なります)。「終戦」か「敗戦」かという議論とは著しくかけ離れた場所で、生きるために「懸命な(それは、厳かでもありました)」営為に、ぼくたちは「人間の深遠さ」を感じ取ることができます。人間であることはた容易(たやす)くない、しかし「人間にふさわしい厳(おごそ)かさ」を維持することは、果てしなく困難でもありのです。こんな状況下でありながらも、かかる存在が居たと知ること、それによって、ぼくたちは、少しは自分を立て直しながら生きていけるのではないでしょうか。(昨日触れた美谷島邦子さんもまた、そのような力をぼくたちに与えられてきたと思う)

 素晴らしい歴史と伝統を持った、誇りを持てる国、美しい国、そのために求められる「学校教育」があるのかどうか。そんな(歴史)教育とは別種の「歴史を学ぶ」方法や内容は、無数にあるのです。他人を思いやる心、自らを含めた人々の「平等」「幸福」「平和」を願う感情、そんな人間の「尊厳」を育てる教育は、学校でしか、あるいは、教師からしか学べないのではないのですね。歴史を学ぶ、歴史に学ぶ、それはいつでも、どこでも発見することができる(善悪交々の)人間の営みを知り、それを学ぶことに重なるのです。

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