【天風録】御巣鷹37年 8月12日になると、読み返す詩がある。〈…涙は 山の草を濡らし/涙は 山の土に溶け/枯れることはない…〉。その山は他でもない、37年前に日航ジャンボ機が墜落した現場「御巣鷹の尾根」▲遺族でつくる「8・12連絡会」事務局長の美谷島(みやじま)邦子さんが書いた。9歳の息子を襲った非業の死に、張り裂ける思いだったろう。520人の犠牲を数でなく、一人一人の命の重みとして詩はかみしめ直させてくれる▲きのう慰霊登山に訪れた遺族から、こんな言葉が漏れていた。ニュースで「遺体確認」と耳にすると、ぎくりとする―。家族を突如失った心の傷がうずくのだろう。何十年たっても▲残念ながら、乗り物の事故は相次いでいる。連絡会の人々は、事故や東日本大震災の現場を歩いては遺族と語り合い、声をかけていると聞く。「御巣鷹に一度、来てみませんか」と。コロナ禍による入山規制が明ければ、弔いの人波は戻ってこよう▲ことし事故機のものとみられる酸素マスクが山中から掘り起こされた。昨年もエンジン部品が見つかっている。御巣鷹そのものが、まるで巨大な「墓標」に見えてくる。そんな気になるのは、お盆と重なるせいではないだろう。(中国新聞・2022/08/13)(ヘッダーの写真は「日航ジャンボ機墜落事故から37年を控え、「御巣鷹の尾根」の麓を流れる神流川に灯籠を流す人たち=11日夕、群馬県上野村」共同通信・2022/08/12)
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八月十三日はお盆の入です。旧暦の七月を新暦にかえて、それぞれの家や地域で、先祖に対する報恩と慰霊の日を兼ねる行事となってからは久しい。素朴な自然信仰(祖霊信仰)と鎌倉以来の仏教行事が重なったものであります。八月のお盆の時期に近かったためもあり、日航機事故の慰霊祭が、この時期に行われてきました。神流川(かんながわ)にはたくさんの灯籠が浮かべられ、亡き人々の慰霊を念じることになっています。この「灯籠流し」には古い記憶があります。今ではもうやられていないでしょうが、京都の嵯峨広沢池で、この時期に灯籠を流していたものでした(池だったのに)。この行事を、ぼくは小学校の夏休みの課題の絵にしたものでした。その際、各自が持ち寄る「灯籠」には、先祖の慰霊の意が込められているのは当然ですが、同時に、悲運にも生を全うできなかった「他者の霊」をも慰める思いが込められていました。
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● ぼん【盆】〘名〙① (盂蘭盆(うらぼん)の略) 七月一五日に行なわれる仏事。《季・秋》② 盂蘭盆の際の供物・布施。③ 盂蘭盆の七月一五日前後数日の称。(● ぼに【盆】〘名〙 (「ぼん」の撥音「ん」を「に」と表記したもの) 七月一五日に行なわれる仏事。また、その際の供物)(精選版日本語大辞典)
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日航機事故の遺族の方々で作られている「8・12連絡会」の美谷島邦子さんは、事故によって傷つけられた多くの関係者の間に立って、さまざまな活動を重ねてこられたのでした。一瞬にして、次男を亡くす(失う)という衝撃に打ちのめされながら、徐々に自らの「生」を回復されたとも言われておられます。次男に生かされた、健くんとともに生きた、事故後の人生とも。そして、近年は、「傷ついた人へのいたわり」に思いを致し、さまざまな事件や事故で「大切な人」を奪われた人との心のつながりを深められておられます。

理不尽な行為によって、肉親の存在を奪われた何人もの人々と、ぼくは知り合ってきました。名前は出しませんが、それぞれの方々は、どうしようもない悲しみと怒りと憎しみ、加えて、それに対して何もできない自分の無力さなど、殆どが、いわば全心身を賭した「格闘(葛藤)」の中を生きてこられたのでした。その昔よく読んだ、エリザベス・キュブラーボスの書かれたままの体験を示されていたようでした。ロスさんの人生自体が、まことに数奇なものだったことがぼくを驚かせましたが、その体験に根ざした指摘は大きな示唆を「生と死」問題に遭遇している人々に与えてきたと言えるでしょう。
唐突にロスを持ち出したのは、美谷島さんの姿が、ロスさんと重なって見えてきた時期があったのです。失われたいのち、それによって傷つけられた人々の存在、そのような人々が出会い、つながるのは必然でもあったかのように、支え合いの輪が広がりだしていことに、ぼくは大きな希望を見出しているのです。
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● エリザベス キュブラー・ロス(Elisabeth Kübler Ross(1929 – 2004)=精神家医。スイス生まれ。アメリカ精神医学界で活躍する。代表作品に「死ぬ瞬間」(’71年)がある。死に面した患者との対話の中から真摯に学ぶ態度を通じて医療側のあるべき姿を描き出す。そして、死を予想される患者に病名を告げるか否か。患者の不安にどう対処すべきか。家族への対応の仕方など、現代医療のもつ問題点の解決に示唆を与えている。(20世紀西洋人名事典)

( ロスが書き表したのは(死に臨んでいる人自身の)「自らの死の受容」でした。そのプロセスは、ある人にとっては自らの命と同等に大切なものと見られたもの(愛すべき存在)が奪われた時、その死を受け入れる過程は、自らの死の受容と同じような経過をたどるのかもしれません。もちろん、さまざまな条件が異なりますから、すべての人が同じ経過をたどると考える理由も根拠もありません。しかし、大きな観点から言えば、ロスの指摘には、妥当(合点)する部分が極めて大きいと言わざるをえないと、ぼくは考えている )
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(上掲の記事は京都新聞・2019/11/24)(記事中の「いのちを織る会」:https://inochiwoorukai.jimdofree.com/)
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・盂蘭盆の出わびて仰ぐ雲や星 (飯田蛇笏) ・盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙 (正岡子規) ・立ちかこむ杉真青に盂蘭盆会 (水原秋櫻子) ・ささやかな魂棚庭の花剪つて(山口青邨)

お盆といえば、「盆踊り」と、陳腐な連想が湧いてきます。各地で恒例の盆踊りもコロナ禍に遭遇して、心なしか遠慮がちの踊りぶり。民衆のエネルギーが横溢するのが盆踊りの「真骨頂」だったのに、と思わないでもありません。これも、民間習俗に加えて、れっきとした宗教行事でもあったのでしょうが、いまではその面影もどこえやら、すっかり興奮と憂さ晴らし(ストレス解消)の通常行事となりました。それでいけないというのではありません。身体を賭けて夢中になれるものがあるなら、その後の生活は気分一新となるからです。しかし「諸事控えめ」なご時世です。いずれ心ゆくまで踊り明かすことができる日が来るでしょう。
ここは、普段にあってはめったにないこと、先祖や亡き人々を偲ぶ、またとない機会にしたいもの。お墓参りは、ぼくはあまり熱心ではありませんが、恒例のごとく、秋春の彼岸に合わせて出かけることにしています。「たまきはる いのちともする すずみかな(蛇笏)」
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