我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず

 【三山春秋】▼深緑の木々に覆われた尾根一帯が、今年も鎮魂の思いに包まれる。520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で37年。遺族らが現場の「御巣鷹の尾根」(上野村)を訪れ、安全への願いを新たにする▼「また1年、ここから頑張ろう。そんな感覚になる」。遺族らでつくる8.12連絡会の事務局長、美谷島邦子さん(75)は慰霊登山への思いをこう語る▼仲間と会い、言葉を交わし、前を向く―。その積み重ねでここまでやってきたという。歳月を経る中で多様な交流が生まれ、今では他の事故や災害の遺族との支え合いも大切にする▼連絡会を中心に緩やかに連帯し、慰霊行事には近年、東日本大震災などの遺族も参加。大切な人を突如失うという共通する悲しみを抱える人たちにとって、御巣鷹が命や安全について考える場所の一つとなっている▼連絡会の会報「おすたか」の最新号には、知床半島沖の観光船沈没事故の遺族らに向けた言葉も掲載された。〈悲しみを社会が共に引き受けていくことで、失われた日常性を少しずつ取り戻すことができる。共に涙を流したい〉。同じ被害者家族として、決して孤立させないとの会員らの思いがにじむ▼きょうの慰霊登山も、さまざまな遺族が悲しみを分かち合いながら、犠牲者の霊を慰め、再発防止を願う。その思いに共鳴するように、尾根には「安全の鐘」の音が響くことだろう。(下野新聞・2022/08/12)(ヘッダー写真はgettyimages.co.jp/写真/御巣鷹山

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 日航機墜落事故の起きた年の四月、約十年ほど住んでいた家(千葉市)から、佐倉市に転居していた。理由は、単純で、ぼくは、その直前に「クモ膜下出血」症状で倒れた。瞬間的に意識を失いましたが、すぐに戻りました。検査の結果、「クモ膜下出血」のごく軽い症状と診断され、事なきを得た段階にありました。当時住んでいた家の前に県道が通っており、かなり交通量も多く、騒音がやたらに神経に響いていたので、「どこでも、静かであるなら」と、不動産屋に土地を探してもらい、まったく土地勘のなかった佐倉市に越したばかりでした。

 引っ越し直後に、恩師ともいうべきH先生の死去の報が入り、肝を冷やしたばかりでした。この人に関しては、この駄文録の何処かに、数度ばかり触れています。やがて八月、ぼくはテレビを見ていたと思う。テロップが流れ「日航123便が音信不通」という文字の流れに、一瞬、戸惑いました。まさかという思いと、どうしてまたという懸念が入り混じり、続報が待たれた。その瞬間から、もう三十七年が過ぎました。御巣鷹山には登ったことはなかったが、その麓は何度も行き来した。事故の原因には、複雑な要因が絡んでいるのではないかと思われたし、あまりにも初歩的な整備ミスが要因だとされ、まるで砂を噛む思いをしたことも記憶しています。

 事故直後、転居先の同町内に住んでおられた方が、事故機の機関士だったと知り、何度かお宅の前で合掌したものでした。犠牲者は、数名を除き、ぼくには未知の方々だった。有名無名合わせ、五百二十名が亡くなられたという。その後、時間を追って明らかにされてきた事実には、すべてに応接する暇もありませんでしたが、いくつかの記録や報告書を読み、今更のように、この「五百二十人は死ななければならなかったのか」という思いが募るばかりでした。天災も人災も含めて、誰にも「死の必然性」などあるはずもないのに。

 昨日の駄文で「死とは句読点ではないか」と書きました。しかし、誰もが自分の人生の句読点を、自分で打つことはできないのです。打とうとする(思う・願う)ことはできますが、打つ瞬間は、自らの意識や意思には関係がなくなるのです。誰が打つのか。「寿命」、というほかありません。この事情には、自死した(する)ときも、事故死の場合にも差はなく、すべて同じではないでしょうか。「もっと生きたかった」という思いを残す人がいるし、反面で、一瞬でも早く人生に「ケリ」をつけたいと念じる人もいます。寿命が尽きる(天寿を全うする)というのは、さまざまな「死の様相」(死に方)を通じて共通している、そのようにぼくは考えてきました。異論があるのは承知しています。しかし、ぼくにはそのように思われるのです。寿命(生きた時間)の長短にも関わりなく、「天寿」というものがあるのではないでしょうか。

 日航機事故の場合、亡くなられた方それぞれの「人生」というものを、当たり前ですが、ぼくは考えてみます。残された遺族が、その大事な人の死をどのように受け止められたか、いろいろな記録や手記などを通じて知ることができます。一人の人生は「死をもって終わる」のではなく、「死によって、また新たな『生涯』を生き始める」と、言いたい気がします。何年経ても、現実に死んだ人は、別の次元では「死んでいない」「死なない」のです、ある人たちにとっては。別の言い方をするなら、現実の死を受け止めることを通して、新たな存在(「霊」といい「魂」、あるいは「仏」と言ってもいいでしょう)が「自分」とともに生き始めるのでしょう。「死は終わり」ではなく、「あらたな始まりだ」と、ぼくが言うのはそういうことです。いかにも抹香臭い話であり、口ぶりですが、ごく当たり前の感覚から、ぼくは言っているつもりです。

 ヒロシマやナガサキに代表される「戦死者」もまた、遺族を含めた多くの人々の中に「生き続けている」のではないでしょうか。「戦後七十七年」という意味は、その期間をずっと、死者(犠牲者)ともに生き続けている人がいるということの刻印(証拠)です。人は「生まれる」というのは、生まれさせられるということであり、「死ぬ」というのは「生を全うする」ことです。「もっと生きていたい」という、自らの意思にかかわらず「命を奪われる」ことは否定できません。その死者の無念を引き受けて「もっと生きていたかったろう」「こんなこともしたかったに違いない」と、死者を弔う人が、その「生きたかった生」を引き受けるのではないでしょうか。

 「青柿が熟柿弔う」という言い方があります。ここで使うのは不適切の誹(そし)りを受けることを承知でいうと、誰もが死ぬという現実を射当てているのです。「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」というよく知られた「御文章」にもあります。

 若い頃に学んだカントという人に「いつ人生の精算があっても、大丈夫なように生きる」という意味の言葉がありました。なんという辛気臭い表現だろう、いかにも堅物のカントだなと思ったのは事実でした。ソクラテスは「考えるとは、死の練習だ」と言いました。解釈はいろいろにできます。しかし、死が避けられない運命にあるのが「生きる」ということだというなら、その死に向かって、正直に生きようではないかと言うことだったと、ぼくは考えることにしてきました。ここには「阿弥陀仏」は出てきませんでしたが、彼らが言おうとすること、しようとすることは「自分一人で生きているのではない」ということの指摘だったと思うのです。ぼくも、ここに阿弥陀さんを持ち出そうとは考えませんが、することや言うことは、「御文章」に変わらないとも思うのです。ギリシアの昔にも、カントの時代にも、当然のように、あまねく「阿弥陀仏」は偏在していたことになるようです。

 三十七年前の「同時刻」が近づいてきました。ゆっくりと線香と蝋燭を立て、庭の花を「仏前」(霊前)に捧げようと思う。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)