「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた

 【正平調】親しみをこめ、患者から「カメ」の愛称をもらったそうだ。病室に入るとき、まずドアを少し開けて顔だけのぞかせる。誰にもぶつかっていないと確かめて入る癖が、そう呼ばせたと◆著書「いじめのある世界に生きる君たちへ」の後書きで、構成・編集にあたったふじもり・たけしさんが記すエピソードである。仰ぎ見られる存在でありながら、気配りを欠かさない。なるほどこの方らしい◆精神科医、中井久夫さんのことだ。神戸大学医学部教授だったとき、阪神・淡路大震災に遭い、失意の底にある被災者を支え続けた。いじめに悩む人たちも支えた。たくさんの涙に寄り添って、88歳で亡くなった◆本紙文化面で、「清陰星雨」というタイトルの一文を長く書いていただいた。深い知性と柔らかな感性で時代を見つめる文章は、切れ味がよかった。どんなに忙しい朝でも、中井さんの寄稿は欠かさず読んだ◆その一つ、「難事に現れるリーダー」(2009年3月)は、震災後に若くして亡くなった医師たちを弔っている。「故人たちは目立つのを極端に嫌う人たちであった」としつつ「紙の記念碑を記しておかないと私の気がすまない。許していただきたい」◆読み返しながら思う。きょうは中井久夫さんへの感謝の碑に、と。(神戸新聞・2022/08/10)

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 中井さんの死が報じられました。どう反応していいか、ぼくにはわかりません。とにかく、若い頃から、中井久夫の臨床論に齧(かじ)りついてきました。ぼくが真面目に、かつ熱心に読んだ、唯一の医者であり、精神科医でした。いまは何かを語る元気が、ぼくにはなさそうです。少し時間をおいて、書ける時が来たらと、今日はひたすら、地元の神戸新聞の記事にすがるばかりです。(神戸新聞に対しても、心からお礼を言いたい気がします)これらの記事には、中井さんについて、なにか欠けている部分がなさそうな、意を尽くした「追悼記事」であると思われたからです。

 中井先生に。謹んで哀悼の思いを捧げたいと存じます。

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 精神科医で神戸大名誉教授、中井久夫さん死去 阪神・淡路大震災で精神的ケアに尽力   阪神・淡路大震災などの被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)さんが8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。/ 葬儀・告別式は近親者で行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。/ 京都大卒。東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に。統合失調症研究の第一人者で、先駆的な診療法で高く評価された。/ 95年の阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に注力。2004年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の施設「兵庫県こころのケアセンター」が開設され、初代センター長に就任した。/ 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者らの心理的な回復を支える「ひょうご被害者支援センター」理事長として活動。甲南大教授も務めた。/ 90年から2012年まで本紙でコラム「清陰星雨」を執筆。歴史や文化を巡る高い見識に基づき、政治や戦争をはじめとする幅広いテーマに深い洞察を示し、無名の人々に温かいまなざしを向けた文章は多くの人の共感を呼んだ。/ 阪神・淡路の直後の医療現場や患者らの苦難をつづった「災害がほんとうに襲った時」や「中井久夫著作集」など著書多数。米国の精神科医サリヴァンやフランスの詩人ヴァレリーの訳書、ギリシャ文学の翻訳も手がけた。/著書「家族の深淵」で毎日出版文化賞。01年兵庫県社会賞。13年文化功労者。(神戸新聞・2022・08/09)

 いつも被災者のそばに、中井久夫さん悼む声 PTSDの研究、治療に道  精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫さんが8日、88歳で死去した。阪神・淡路大震災の被災者支援や研究などの功績に対し、多方面から悼む声が寄せられた。/「優しくて、パッションの人だった」。中井さんを「師匠」と慕う岩井圭司・兵庫教育大大学院教授(60)=精神医学=は震災当時、中井さんのいた神戸大付属病院に勤務。「孤立していない、見捨てられていないと被災者に実感してもらうことが第一」と若い医師らに繰り返し説いていた姿を記憶する。治療に当たる精神科医の役割を「一緒にふもとまで下りる『山岳ガイド』のイメージ」と語っていたといい、「心のケアという言葉を定着させたのは先生の功績」と振り返る。/ 室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授(77)=防災計画学=も「一人一人の人間に目を向けろと教わった」と語る。「心のケアという発想がなかった頃にその重要性を発信され、震災関連死や孤独死という考え方にもつながった。その後の災害支援にも大きな影響を与えた」と別れを惜しんだ。/ 中井さんの著書を心の支えにしてきたという被災地NGO恊働センターの村井雅清顧問(71)は「災害ボランティアにも造詣が深く、『黙ってそばにいるだけでいい』という言葉に、『ボランティアは何でもあり』と確信した。元気なうちに、自分の活動が間違っていなかったか聞きたかった」と声を詰まらせた。/ 中井さんは、兵庫県こころのケアセンターの初代センター長としても貢献。知事在任中に同センターを開設した井戸敏三・ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問(77)は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)へのケアの大切さを教わり、県として取り組みを進めることができた」と業績をたたえた。/ 担当編集者として40年近く親交のあった、みすず書房の守田省吾前社長(66)は、原稿を的確に直しながら別の電話に応対する姿に驚いたという。/「圧倒的な観察力を持ち、論理と科学、感覚、においといった多様なものを見事に文章化された。患者と家族だけが読むような小冊子も大手出版社の書籍も手を抜かない。全力投球なのに、どこかに余裕を感じさせる方でした」と人柄をしのんだ。(上田勇紀、中島摩子、新開真理)(神戸新聞・2022/08/10)

 

 言うまでもないこと、ぼくには何一つ誇れるようなものはありません。不本意に大学行き、不本意に就職し、その間ずっと不満をいだいたままで、生きてきました。教職についたと言っても、その実際は「教師まがい」だった。世に存在するたくさんの「本物の教師」のようには絶対になれない、あんな教師にはなりたくないなどと、いろいろな理屈を並べてみて、気づいたら「教師の出来損ない」、「教師まがい」でした。「ガンモドキ」というのは立派な食品ですが、ぼくはその「もどき」にもなれなかったのです。そんなふしだらな生活を続けていく中で、唯一学んだのは多くの先輩や先達からでした。

 ここで、いちいち名前を上げませんが、殆どが今では「一流」(この表現は嫌いです)と評される賢人たちでした。この中には、もちろん中井さんもおられました。とにかく、手に入る者は何でも読んでみようという、後先や、自らの能力を一切無視した「無謀」の振る舞いそのものでしたが、そんな乱暴な「読書経験」からでも、不思議なもので、身に得られるものは必ずあったのです。いま、中井さんの訃報に接して、この駄文を綴っているパソコンの置いてある部屋の周りの本棚には、それでも数十冊の、中井さんの著作があります。中には専門書(論文集)も。背文字を見るだけで、中井さんの文章の佇まいと、それをモノしているご本人の表情がありありと浮かんできます。とにかく、この賢人(碩学であり、実践家)は、いつでも、どんなときも冷静沈着を「絵に書いたような」姿を崩さなかった人でした。いまは、ひたすら感謝し、ご冥福を祈るばかりです。(中井さん、ありがとうございました)

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 治療においては、病気の側にも一種の疑似政治学がある。治療は、治療に伴う反作用を避けつつ、基本的には、病いと絶えざる妥協であり、その妥協の結果、病いを最善の形で経過させることが治療の政治学である。

 政治には士気の維持が大きな要素であるが、治療においても同様である。特に慢性の病いにおいて。

 土居健郎氏(『甘えの構造』の著者)は「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた。要するにそういうことだ。ナポレオンが戦争について言いそうなことだ。そういえばヒポクラテスが二千数百年前に言っている。(中井久夫「家族の深淵」みすず書房、1995年)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)