競馬でも「男女混合」レースが当たり前

 <あのころ>女子マネ、初のベンチ入り 夏の甲子園 1996(平成8)年8月8日、甲子園の全国高校野球選手権大会に記録を担当する女子マネジャーのベンチ入りが初めて認められた。福岡県立東筑高校の三井由佳子さんが第1号で、盛岡大付(岩手)戦に2―0で勝利すると「私が一番緊張していたかも」と感想をもらした。(共同通信・2022/08/08)(ヘッダー写真は「優勝を決めて校歌を歌い、あいさつする神戸弘陵の選手=2021年8月23日、兵庫県西宮市で(丹波市提供)丹波新聞・2021.08.27)

 この出来事(女子マネ)は今から二十五年ほど前です。ほぼ同時期に、「全国高校女子硬式野球選手権大会」が開催されています。おそらく、男子ばかりに偏向していた「野球」の景色に、女性が参入を試みようとしていた時代であったと思われます。ぼくは、高校野球を(に)観戦(感染)しなくなってから、もう四半世紀ですから、ちょうど「女子マネ」や「野球女子」が話題になりかけていた頃でしょう。しかし、それよりもずっと前に、すでに男性と伍して、先駆的女性が競い合った時代は長かったのです。あらゆる場面で男女の差や格差が解消されようとして来た時代に、頑として「男女差」「男女差別」を譲らなかったのがスポーツ(運動)の世界ではなかったでしょうか。高校野球は「男子」に限るというのが歴史の評価で、それを最も熱心に肯定してきたのが(甲子園は「聖地」だという)「高校野球大会の主催者」だった。(夏は「朝日」、春は「毎日」という新聞社です。もうそろそろ「主催者」を降りたらどうか。所期の目的が曖昧になってきたでしょ)(これといい勝負なのが「大相撲」です。「土俵は神聖」なところだという。ホントか。その神聖な場で「エルボー」を多発し、好き放題をしていた横綱がいました。「勝ちゃいいだろ」って。今では部屋持ちの親方になったそうです。「神聖」が聞いて呆れますな。

 下に何枚かの写真を出しておきましたが、甲子園の「飾り物」として「女子高生」を使って(利用して)いることに、何の違和感も感じないくらいに、この主催者連はボケているのだと思う。なんで「プラカード持ち」なんですか(五輪なんかもそうですね)。もうそろそろ、これも止めたら、「女子高生」諸君。ノーテンキの主催者じゃ埒が明かないから、あなた方から拒否すべきだとぼくは思っています。この「プラカード一件」が終わるだけでも、ずいぶんとその後の「甲子園風景」は変わるでしょうね。チアガールというのも止めたらいいな。「チア」と言うのは女子に限るというのも、どうだか。甲子園の高校野球は「感動もの」という人々がたくさんいますから、なかなか一挙には変わらないが、この「甲子園の高校野球」も考えものだと、ぼくは以前から愚考してます。ぼくだって、高校野球をやっていた人間です。だから、余計にわかるんですね、野球(スポーツ)の意味(醍醐味)が。そのこころは「プレイ(play)」に尽きるんじゃないですか。ところが、大学入試と同様、ある種の(プロへの進路の)「偏差値」のレベルを決めるのが「甲子園」で、その、高校野球の役割は、プロ野球の下請けに甘んじている(いうまでもなく、全部ではない)、そんな気がしてきます。もちろん、純真・素朴に「野球大好き」を求めている高校生もいるでしょうが、甲子園では、そんな「時代遅れの(天然記念物級)高校生」は見られないでしょうね。

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 どうして「プラカード」なんですか。ぼくには理解できなかった。かなり前から、おかしいねというか、「違和感」が消えませんでした。甲子園のよくないところは「子ども(高校生)」を弄んでいる、一端(いっぱし)の「大人」、という構図です。よってたかった「平成の怪物」だとか、「ハンカチ王子」などと囃し立てては、商売の種にしている、「運動と商売(商業主義)」という二足の草鞋(わらじ)のそぐわないところが目に付きますね。もちろん、高校野球「オンリー」、甲子園「オタク」がいることをぼくは忘れているわけではない。しかし、あまりこの手の野球やスポーツに関心がなくなっている年寄には、プロ野球の「予備役(予備軍)」になった感のある高校野球には関心がわかないし、メジャリーグの三軍程度の役割を果たしている日本プロ野球にもなかなか耳目が向かいないんだ。野球は好きですよ。とはいっても、「演出過多」の、「女子」を下っ端として使うことに理不尽さを感じない「非常識野球界」には、もう少し「時代の現在地」を自覚してほしいですね。

 旗を掲げて行進するのは、「あなたには名誉?」かもしれませんが、女性全体の前進のためには、小さな壁になってるんじゃないですか。旗を持たせている「おっさんたち」に一言あってもいいじゃん。「どんなことをさせるんや」ってね。今度からは「あんたらが、持ちなはれ」と。

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 もう数年もすれば、男女混合(ミックス)の「甲子園」が実現されるのでしょうか。それとも、それは実現不可能な事柄なんでしょうか。いまだって「男女混合」と銘打った競技はありますが、まずそれは「(男女)ペア」をさして言うことであって、男対女という構図にはなっていません。(これも、どこかで触れたことですが、再言しておきます。どうして「全国高校女子野球選手権」なんですか。男子の場合は「全国高等学校野球選手権」ですな。バレーなどの球技にしても、水泳や陸上競技にしても「男子」「女子」です。それでもかまわないが、二十歳や三十歳の成人を「子」というのは、奇怪至極です。こんなことに拘(こだわ)るのが可笑しいのか、放置している方の筋が通っていないのか)

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【女子高校野球】横浜隼人が延長10回タイブレークの末に初優勝、聖地・甲子園球場に歓喜の声響いた 

◆第26回全国高校女子硬式野球選手権大会▽決勝 開志学園3―4横浜隼人=延長10回タイブレーク=(2日・甲子園) 女子高校野球選手権の決勝戦が昨年に続き甲子園球場で行われ、横浜隼人(神奈川)が7回制での延長10回タイブレーク戦の末に開志学園(新潟)に勝ち、初優勝した。聖地・甲子園での試合に、両チームの選手たちは笑顔でプレーし、ユニホームは黒土でまみれとなった。(以下略)(スポーツ報知・2022/08/02)(優勝の瞬間の写真は神奈川新聞 | 2022年8月2日 )

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 この場に「競馬」を持ってくるとは何事かと、「炎上」しますか、まさか。ほんの一例です。「男女混合」の真意を説明するために、持ち出すだけ。もちろん、時代は「男・女」では片付けられない、片付けてはいけない方向に向かっていることを失念しているわけではありません。ことの順番として、「男子」「女子」別々から「男女混合(ミックス・ペア)」へ。さらに、そこから「男女混」競技、つまりは「男対女(男性対女性)」へと、進んでいくことを願っているし、そこから、男女の「融和(ノーサイド)」が生まれる可能性を期待しますね。そのつもりで、一歩も二歩も先んじている「競馬界」の「牝馬(ひんば)(アマゾネス)」を紹介したくなったのです。(それに対して、男馬を「牡馬(ぼば)」(もちろん、それぞれにいくつかの読み方があります)この、史上最強とも言われた「牝馬」は今は引退してしまいましたが、その強さたるや、じつに凄かった。男対女などというのではなく、「馬」として速さを競って、「クロノジェネシス」が文句(ハンデ)なしに勝ったのでした。

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 クロノジェネシス、有馬記念を“力でねじ伏せて”勝利  強い牝馬たちが、これほど力を見せつけた時代がかつてあっただろうか。コロナ禍のなかつづけられた2020年の中央競馬を締めくくったのは、芦毛の女傑だった。/ 第65回有馬記念(12月27日、中山芝2500m、3歳以上GI)で、北村友一が騎乗する1番人気のクロノジェネシス(牝4歳、父バゴ、栗東・斉藤崇史厩舎)が優勝。昨年のリスグラシューに次ぐ、牝馬として史上2頭目の春秋グランプリ制覇をなし遂げた。首差の2着となったのも牝馬のサラキア。今年の牝牡混合GIで牝馬が勝ったのはこれが9度目、うち牝馬によるワンツーフィニッシュは4度目となった。(以下略)(Number:2020/12/28)

*「女傑=しっかりした気性とすぐれた知恵をもち、実行力に富んだ女性。女丈夫 (じょじょうふ)」(デジタル大辞泉)この辞書の説明でも、「女性」というものは「しっかりしない気性で、すぐれない知恵の持ち主。実行力に乏しいのが一般」というニュアンスがありありだね。

(「2020・有馬記念」:https://www.youtube.com/watch?v=5YMIYW-JFWg
(おまけ「2021・宝塚記念」:https://www.youtube.com/watch?v=kL8kU7UOYUg

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 ラストランのクロノジェネシスは3着 グランプリ4連勝はならず 第66回有馬記念(G1・中山・芝2500メートル)  引退レースとなったクロノジェネシスは3着。昨年の宝塚記念から続いていたグランプリの連勝は3で終わった。/ 道中は中団につけ、エフフォーリアのすぐ前を走る形。レースが動き出してからは外のエフフォーリアをマークする形になり、直線は伸びたが、相手の末脚の方が上で、ディープボンドにも先着を許した。/ 騎乗したルメールは「エフフォーリアをマークしていきました。直線でもエフフォーリアの後ろを走って頑張ってくれましたが、相手が強かったです」と勝ち馬の力を褒めた。ラストランは勝てなかったが、G1・4勝馬として力は出したレースだった。(中日スポーツ・2021年12月26日)

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 鹿とではなく、馬と競争した野球選手がいました。「世界の盗塁王」と言われた福本豊さん。馬には負けたか、わかりません。馬の方も、訳の分からない「サラブレッド(韋駄天)・福本」という人間がちょこまか走ってきたのに、驚いてか、恐れをなしてだったか、コースを外れてしまったと、記事はいう。(写真はスポニチ・ 2018年1月4日)この他に、百メートルの世界記録保持者(ボブ・ヘイズだったと覚えているが、勘違いかも)だった選手が、馬と百メートルを走って負けたという、そのレースをぼくは記憶しています。これなどは「異種混合」ですが、男女がいっしょになって「走る」「投げる」「飛ぶ」という、身体能力の競争がもっとあっていいと思う。その昔、儒教などという七面倒臭い「道徳・倫理」を説いた一節に「男女七歳にして、席を同じうせず」というものがあったとか、なかったとか。これも、実際には怪しいものだというのが、漢文学の泰斗だった吉川幸次郎氏の解説にありました。「人間」「人」を、まず第一にしたいね、性差ではなく。

 「女傑」とか「男勝り」と、当たり前に言っていた時代がありました。今もその残滓は、どこかに残っているかもしれない。あるいは「紅一点」「掃き溜めの鶴」などとも。褒め言葉のつもりだったのでしょう。口にするのは、いずれも男だった。細かいことは省きますが、人間には得手不得手があり、出来不出来があり、それには男も女も変わりがないのです。どちらも、自分ひとりで生きてはいけないのは言うまでもありません。馬と競争して、どうだったと聞かれた人が「美味(うま)かった」といったとか、さ。「甲子園開幕」「夏の高校野球」という文字が目に飛び込んできたおかげで、とんでもない方向にキーボードが叩かれてしまいました。これぞ「駄文」という証明です。今日も暑い、その昔、誰が作ったのか「言うまいと思えど今日の暑さかな」(I try not to say it, but it’s really hot today)と言う駄句に、ぼくは、数えきれないほど、ここぞというというときに、救われてきましたね。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)