健康と要介護の「中間」って、なにそれ?

 【明窓】71歳で老衰!? 知人から聞いた話。「小学校の同級生が71歳で亡くなったが、死因は『老衰』だった。71歳でも老衰と判断されるのだろうか」と。高齢者の定義は65歳以上というのは分かるが、71歳で老衰は若すぎるのではないか、との言い分だった▼医者の友人に尋ねると、「加齢に伴い心身ともに機能が低下し、脳や全身の臓器が不可逆的にダメージを受けた状態。癌(がん)や肺炎など明らかな病気がなく、食事も摂(と)ることができなくなり、自然死と医師が診断したとき『老衰』と判断する」。確かに71歳で老衰は若いと感じるが、あり得るようだ▼島根県によると、2020年の県の平均寿命は男性81・6歳、女性87・9歳。同じく健康寿命は男性80・0歳、女性84・7歳となっている。多少の持病はあっても、自立して生活できる年齢が延びていけば老後の生活が充実する。要は元気で暮らしていられるかどうかだろう▼「フレイル」という言葉がある。健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のことだそうだ。現在の状態が「健康」寄りか「要介護」寄りか。考えてみると、持病はあるし、体力も認知力も落ちた、と落ち込む▼だが「何くそ」と思う。坂道を上がるのさえ苦しい現状。フレイル状態間近なのは否定できないが、何か世間のお役に立つことを楽しく続けていきたい。まずは散歩で体力回復を目指そう。(富)(上右写真:自身のフレイルを確認できる特設ブースで、判定結果を聞く市民(右)=5月6日、米子市内)(山陰中央新報・2022/08/05)

 長く生きることが、世間に対して申し訳ないような、そんな機運が横溢していると感じるのは、ぼくが年寄りだからか。「老人性僻(ひが)み症」だと、覿面(てきめん)に診断されるかもしれない。「君は立派なフレイルだよ」とたいがいの医者なら言うにちがいない。血圧や体重、骨密度や血糖値などなど、あらゆる数値を秤にかけ、狭い範囲に閉じ込めて、その埓外に出ると、たちまちに「なんとか症」と診断名がつく。数年前、ぼくは医者から「高血圧症」と診断されました。数値が一定値以下でないと「高血圧」、医者に言われたように血圧を測り、薬を飲み、それから、と一定期間やりましたが、ある時期に医者には行かなくなったし、血圧を測ることも薬をのむことも止めてしまった。それで体調が悪くなるということもなく、ごく当たり前に息をし、自分の足で歩くことを続けています。医者は(薬を飲まなくていいよ」とはまず言わないものです。不思議というか、変だな。

 今の数値は「高いかな」とか、「正常値か」などと、ぼくはすっかり「血圧正常数値」に慣らされてしまっていた。じつに愚かしいと、我ながら思ったものです。(アメリカの学会が「血圧正常値」を時に改定すると言う。数値を下げるのです。それに従って、日本でも数値をいじってきました。そのたびに、膨大な「高血圧症」患者が生み出された。それはまた、降圧剤の製薬会社の大儲けを保証しているのです。医者はどの「薬」を処方しているか、製薬会社に管理されているし、大量処方の医師は「報奨金」をもらっているという。ことは「高血圧症」のみではないところに、馬鹿らしくなる「医療」の退廃があるのです。現下の「新型コロナ禍」問題が、いろいろな方面で、医療行政を含めた「退廃現象」を曝け出しています。かなり長い間、血圧の正常値は「年齢プラス100程度」とされていた))

 医者の仕事は、患者に「病名」をつけ、その病気に見合った大量の薬を処方すること、それで商売をしている。よほどのことがなければ医者に行かないのが、多くの人の当たり前の判断でしょう。しかし予め病気を防ぐために「人間ドッグ」に入れとうるさく言われてきました。勤め人時代に、ぼくは定期健康診断にでかけたことがなかった。工合が悪いという自覚がないのですから、行かないのが正しいと思っていたら、実はそうではなかった。何年かごとに必ず「健康診断」を受けることというのが、社会医療保険が適用される「組合」には義務付けられている(法定)と聞いたことがあります。組合員(社員)の受診率が一定程度以下なら「罰則」規定があり、規則に従い違約金のようなものを支払わされるというのです。ぼくが勤務していたところでは、数千万円の「罰則金」を払ったことがあったという。だから「君も受診しろ」ということだった。もちろん、ぼくは行かなかった。

 「検診」で病気が見つかり、事なきを得た人は当然いるでしょう。しかし反対に、検診直後に、重篤の病が見つかり、不幸な結果になる人もいます。ぼくの知り合いは、後者の方で、「せっかく検診を受けたのに」といっても、後の祭りでした。何のための検診かという気がします。この「フレイル」というのも、なにかと話題作りにはなるのでしょうが、果たしてその成果や効果はどうなのか。これは日々の、ぼくの実感です。年をとると、いろいろな面で、うまくできなくなる。うまくできなくなるのを、年をとるというのです。しかし、世間の風潮(と言っても、この風を吹かしているのは、特定の団体および個人だ)は、年をとると、何かと衰えることを「異常」とみなし、「病気」と判断します。困った風潮ですな。歩く速度が落ちろ、それが「異常である」という根拠はどこにあるか。握力が弱くなる、それが問題として、どうすると、強くなるんですか。

 「自身のフレイルを確認できる」仕組みがすでに実施されているそうですから、早手回しというのか。「備えあれば、患いなし」ではなく、「備えあっても、患いあり」、そういうことですよ。何をしても、年をとると衰えるという運命に逆らえないんじゃないですか。あまり他人(実の子どもであっても)に世話(迷惑)をかけないで、静かに朽ちるというのが、いまのぼくには、もっとも願わしい。

 「持病はあるし、体力も認知力も落ちた、と落ち込む▼だが「何くそ」と思う。坂道を上がるのさえ苦しい現状。フレイル状態間近なのは否定できないが、何か世間のお役に立つことを楽しく続けていきたい。まずは散歩で体力回復を目指そう」というコラムは、天性の「好人物」のようです。「世間のお役に立つ」ことは腐るほどあります。フレイル前であろうとなかろうと、いつでもできることがあります。それが特定の、あるいは不特定の人々の役に立つのですから、早速おやりになることを勧めたいね。それは何か、答えは後日。誰でもできるし、一円もかからないようにすることもできます。ぼくは時々、実践している。汗をかくし、息が切れるけれど、その後が、以外に気分がいい(こともある)。「人の役に立っている」という実感が、気分をよくさせてくれるのかどうか。                                    (*https://www.youtube.com/channel/UCVfcVnPae2JerM0iRT82aVQ/featured

● フレイル(ふれいる)frail frailty=高齢者における健康な状態と要介護状態の中間的な状態像として、1990年代にアメリカにおいて提唱された語。要介護状態の前段階、つまり「要介護リスクの状態」として注目され、今日に至っている。ただし、厳密な学術的定義は確立していない。/ 日本では、近年の急速な高齢化により、要支援・要介護状態の高齢者の増加が問題となっており、その対応の必要性から、フレイルへの関心が高まった。英語のfrailtyの直訳である「虚弱」「もろさ」は、不可逆的な状態という印象を与える表現である。しかし、さまざまな研究成果により、フレイルは可逆的な状態であり、改善可能であることから、日本語訳を用いず「フレイル」という表現を用いることが、2014年(平成26)に日本国内の関連学会で合意された。また、フレイルの重要性を医療専門職のみならず広く国民に周知することが必要であり、それにより介護予防が進み、要介護高齢者の減少が期待できるとしている。(⤵)

 なお、フレイルの判定には、フリードLinda P. Fried(1949― )らの提唱した判定基準を日本人用に改変した以下の五つの基準が用いられている。すなわち、(1)疲れやすさの自覚、(2)体重減少、(3)筋力低下、(4)歩行速度の低下、(5)活動量の低下であり、3項目以上該当すると「フレイル」、1または2項目だけの場合にはフレイルの前段階である「プレフレイル」と判定される。/ フレイルの予防・改善には、栄養(バランスのよい食事)、運動(ウォーキング、ストレッチなど)、社会参加(趣味、ボランティア、就労など)が有効である。/ フレイル対策の重要性を普及啓発する目的で、2020年(令和2)にスマートウエルネスコミュニティ協議会、日本老年学会、日本老年医学会、日本サルコペニア・フレイル学会の4団体は共同で2月1日を「フレイルの日」と制定した。(ニッポニカ)

 この基準でいうと、ぼくは「プレフレイル」ではなく、「本物フレイル」です。プレフレイルがあるのですから、プレプレフレイルもあるんでしょうね。自分の足で立つ(歩く)か、立てない(歩けない)、このどちらかです、人の生涯の自立度は。生まれて→働いて→老いる、これが人生なんですな。その間に色々なこと(病気や怪我や喧嘩や別れなどなど)がある、でも、それは生きている証拠でもあるのであって、段階や等級をつけて、とやかく言える筋合いのものではないんだな。「認知度5」とかさ。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)