腐っても腐らなくても鯛は鯛。鮪じゃない

 嘘と偽りは違う 咄嗟に口をつくのが嘘なら、悪意が籠もるのは偽り。騙すための小道具だが、嘘言する態度があざとい。与党議員百数十人が「旧統一✖✖」から各種の便宜を受けていた。図らずも、今回の銃撃事件で露見、各人各様に周章狼狽し、醜くも「弁解し釈明し」三十六計に大童。聞いて呆れないさ、反吐が出る。「居直り」の陳腐さ、厚顔を曝し「どこに問題があるのかわからぬ」とほざく。ぼくらの手に負えぬ面々が、この島の「政(まつりごと)」を恣にする。嘘と偽りは、出自が違う。嘘から真は出ても、嘘も方便と言うが、偽りから真は出ず、偽りも方便とはついぞ聞かぬ。犯罪を重ねたワルが、役所に「改名(偽名)」を届けた。「旧統一✖✖」が数多の偽名や虚名を使って本体を隠した。便宜を受けていた、担当大臣が「偽名」を認めた。「認めたのは部下だ」と、それはないよ。元大臣は名代の「偽人」だ。悪意の籠もる擬人が行う商売を「悪政」という。(「愚見しかいえない」第三回)(2022/08/04)

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 本日の「小社会」(下に引用)を読んで、清張さんが懐かしく思い出されました。もっとも好む「或る『小倉日記』伝」に触れている。安吾氏の選評もよく記憶しています。これくらいに深く読めなければ、「小説家」にはなれぬと、教えられた気がしました。「昭和史発掘」も熟読した。歴史家や研究者は何かと不満を述べるし、清張さん自身に牽強付会の点がなくはなかったでしょうが、三鷹事件や下山事件など、ぼくは、戦後の「歴史の真実」の一面に触れたような感慨を持ったものです。日本国家が、何をし、この先をどうしようとするのか、それをアメリカがきっちりと「グリップ」しているという戦後の「構図」が描かれていると思った。そしてまた、政治はいつでも「権力の暴走」を孕んでいるし、それを阻止する捨て身の役割を誰かが担わなければ、「権力の暴走を許す」ことになる、それをぼくたちは、日常性の中で見せつけられている。

 「腐っても鯛」という。そのこころは、「腐らなくても鯛」ということ。それだけのこと。腐っても腐らなくても鯛は鯛、鮪じゃない。腐っても腐らなくても、魚は魚だと言って、何も頓知がないから、そこに「鯛」を持ってきただけ。腐っても政治家だし、腐らなくても政治家だといえるか。腐った政治家は「泥棒」であり「詐欺師」であり、要するに、犯罪人だということ。世が世なら「お縄頂戴組」が徒党を組んで、政治でございという、笑わせるんじゃないよって言いたいね。下の記事にある清張さんの言、「イデオロギーとか、主義だとかそういうようなことは抜きにしても、最低限の民主主義的な気持ちは守っていただきたい」と、いわれても聞く耳を持たないんだな、これが。(二時間ほど前まで、激しい雷に襲われ、強い雨が降っていました。きょうは、これから、また襲来するそうだ)

 【小社会】清張の「警告」1953(昭和28)年、芥川賞の選考で選考委員だった坂口安吾を「ものすごい作家が出た」とうならせた人物がいる。松本清張、43歳。「或(あ)る『小倉日記』伝」で受賞した。▼体の不自由な青年が、森鷗外の北九州・小倉時代の足跡を丹念に調べ上げていく物語である。そこに主人公の孤独感や社会の現実といった、あの清張独特の世界が織り込まれている。ただし清張がいわゆる社会派推理小説の分野を切り開く前。この作品も推理小説とは違う。▼安吾が残した選評が興味深い。「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり」。清張の方向性を見抜いていたのかもしれない。作家の半藤一利さんが著書「清張さんと司馬さん」に紹介している。▼清張はその追跡力をノンフィクションにも発揮してきた。代表作「昭和史発掘」では戦前に実際に起きた権力者の暴走や事件の真相に迫った。講演でその理由を将来の再発への「警告」だと述べている(「オール読物」昭和46年7月号)。▼警告が現実になっては困るが、ここ最近の政権や与党の言動はどうだろうか。議論や説明責任への軽視があまりに目立つ。やがて暴走を許すことになりはしないか。▼「イデオロギーとか、主義だとかそういうようなことは抜きにしても、最低限の民主主義的な気持ちは守っていただきたい」。清張が同じ講演で聴講者に訴えたことが重く響く。きょうは清張の没後30年。(高知新聞・20022/08/04)

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