長岡花火、夏の夜空に大輪の花 新潟、3年ぶり 新潟県長岡市で2日、日本三大花火大会の一つとされる「長岡まつり大花火大会」が開かれた。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、3年ぶりの開催となった。/ 夜空に直径650メートルの大輪の花を咲かせる「正三尺玉」や、2004年の中越地震からの復興を願って打ち上げられる「フェニックス」などが披露されると、川沿いを埋めた観客から拍手が上がった。3日も開催する。/ 市によると、花火大会は1879年に始まり、戦時中の中断期間を経て1947年に再開した。2019年には過去最多の108万人が訪れた。(共同通信・2022/08/02)(ヘッダーの写真も同記事より) (*「長岡花火」公式WEB:https://nagaokamatsuri.com/)
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● 長岡大花火大会=新潟県長岡市で行われる花火大会。「長岡まつり」内で開催。2005年、前年に起きた新潟中越大震災の復興を祈念して行われた「復興祈願花火フェニックス」や花火の大きさが直径約600mにもなる3尺玉が見もの。画家、山下清が同大会をモチーフに制作した「長岡の花火」は彼の代表作となっている。(デジタル大辞泉プラス)

中学生ころまでは、花火はほとんど見なかったし、花火大会と称するような大掛かりなものはまったくなかったような気がします。一時期、嵐山の渡月橋付近で挙行されたが、岩田山のお猿さんが驚くからと、直ちに取りやめになったことがある。人間ではなく、猿に気を使うんですね、そんな時代でした。当節は、猫も杓子も「花火、花火」で大賑わいです。悪いことでもなく、かといって、いいことでもないようにも思われます。結婚して以来、親戚の住まい(荒川区在)の屋上からの「隅田川の花火」見物に誘われ、何度か「目と耳」にする機会がありました。ぼくには「花火」を見る趣味というか、才能がなかったから、いつだって積極的でもなく、遠くで打ち上がる花火の音に、ある種の「郷愁」を感じることがあったし、それでじゅうぶんでした。
この「郷愁」が、ぼくには曲者なんですね。それほど花火で遊んだ記憶はなく、花火大会などという見世物に興味が湧いたのでもありません。おそらく、ぼくの勝手な想像ですが、幼少の頃の、年に一度の「村祭り」や地域の行事としての秋祭り(ぼくが生まれた熊木村の祭り。これは今ではとても有名になりました)の「太鼓」の音の余韻が、花火が打ち上げられるときの「轟音」が、遠くから聞こえてくるのに重ね合わされたのではないでしょうか。この祭りは、村中が総出で、河原に集合して、一種の地区対抗の技くらべでもありました。おふくろの兄貴は、この祭りの「英雄」で、喧嘩早いのでは有名な人だったという。この神社や河原は健在で、今でも写真・ビデオを見ると、体が勝手に動き出します。その昔は、祭りには大きな意味がこめられていました。しかし今では、その形のみが受け継がれているのですね。内容がない、空虚な祭り事。(お熊甲祭り:https://www.hot-ishikawa.jp/event/6870)(youtube:https://www.youtube.com/watch?v=gLiv-GDI7vQ)
日本三大花火大会の一つが「長岡」で、もう一つはおそらく「隅田川」だとすると、残りはどこか。秋田か? 一時期、テレビで「隅田川花火」の中継をしていたことがあります。興ざめというのでしょうね。かと言って、仰山の見物客に紛れて見物するというのもいやなこと。ぼくには大勢で何かを見るとかするというのが大嫌いという「癖」があります。人間としては「付和雷同的」だと自分では思うのですが、現実には、そんなところに入り込みたくない、けったいな人間だという気がします。夜空に打ち上がる花火を、なぜ人々は見物したがるのか、それを考えてみようとしているのですが、その理由らしきものがさっぱり考えられないんですな。一つだけ、それらしいと思われる理由は、「群衆の一人になりたい」という願望でしょうか。とにかく固まりたいんですね。寄らばかたまりの中へ。花見でも、花火でも、現場へ言って、場所の空気を吸いたい、臨場感を味わいたいと。それだけではないかもしれませんが、そんなことしか浮かび上がらない。

それではあまりにも身も蓋もないので、思いっきり「当て推量」を言ってみれば、「花火は遠くに在りて思うもの」ということです。まるで「虹」を見るようなもので、その渦中にいると、轟音と暑さや人いきれで、大童(わらわ)ですが、うんと離れて、「花火の姿・形」が見えたときに、打ち上がる音がする、そんな現象が、ぼくにとっての花火なのだという、経験と観念の合体されたものが、ぼくの中に出来上がっています。多くの人は「大童(夢中)」が好きだし、ぼくはその「夢中」の塊(かたまり)から、一歩でも離れていたいという違いはあります。今では、季節も時間もお構いなく、場所も問わないで、いたるところで「花火」が上がる時代です。ますます、ぼくにとっては「遠くに在りて思うもの」になってきました。(拙宅のすぐ近くのリゾートホテルで、夏休み限定なのかどうか、ある時刻(よる七時半か)にほんの一瞬、数発の花火が上がり、ものの数分で終わりです。これは家の中からよく目えますが、ぼくは音だけで済ませています。近くにあっても「遠くに在りて」なんですね)「一瞬の現在」をどのようにして記憶に留められるのでしょうか。だから、花火は、いつしか、ぼくの脳裏にある「陰影」が、瞬時に消えてしまった幻の花火を再現してくれるのです。
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華やかな一瞬、間髪をいれず、たちまちの不在(闇)。その華やかさの「余韻」が音と色(形)のかすかな陰影となって、ぼくたちの記憶に残るのでしょう。おそらく、その「余韻」こそが花火の醍醐味だと言ってもいいかもしれません。長岡の花火といえば、山下清さんの「ちぎり絵」を思い出します(下右写真)。膨大な作品を作られたのですが、花火の作品は圧巻、というよりは「華やかさ」と「儚(はかな)さ」の「陰影」の刻印をぼくは、強烈に感じます。その作品を眺めていると、打ち上げられるときの轟音と、一瞬にして消え去る「色と形」、それをじつに「静かなもの」として、小さな色紙の破片で表しています。見事というほかありません。山下さんの「花火」のちぎり絵を見ていると、遠くの方から、遠くの方でかすかに打ち上がる花火の音がしている。一瞬で消えるはずの「花火」が、記憶の襞(ひだ)に克明に記されている、それが作品だとぼくは観てきました。

この駄文録のどこかでも触れましたが、ぼくは、山下さんが大好きでした。彼の言行録には、強い親しみを覚えたからでした。小学生の頃、担任の教師が「特別教室」担当を兼任していたこともあり、しばしばそのクラスの子たち(友人)と遊びました。教師の家に遊びにいったこともしばしばでした。そこには「特別教室」の子も何人もいた。そのような交流は、その教師ひとりきりでしたから、教師の人柄と「特別教室」の友だちが結び付けられ、ぼくにはそれ以降も何人もの「知的障害」を持つ友人が、いつでもいることになったのです。( K先生、ぼくは学校の教師に親しみを感じたのは、この人だけだった)山下さんに親近感を覚えたのには、そのような事情もあったのでしょう。それと、八幡学園時代の式場隆三郎氏と彼との繋がりも、ぼくの興味の一因になりました。精神科の医者だった式場さんは、ゴッホ研究では高名な方でしたから、ぼくは早くから式場さんの仕事に興味をいだいていました。その方面からも山下さんに深く近づこうとしたのでした。(山下清さんが亡くなってから半世紀以上が過ぎました。彼の存在は、ぼくには「一閃(いっせん)の花火」(flash)のように思えてきます。「咲く」と「散る」が、ほぼ同時のように、ぼくには感じられましたから)
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● 山下清(やましたきよし)[生]1922.3.10. 東京 [没]1971.7.12. 東京=画家。小学校に入学するも,知的障害のため級友にいじめられ,何度か刃物を振回すなどの行動を起したため,1934年に知的障害者擁護施設,八幡学園に入る。ここで張り絵 (ちぎり絵) を習得し画才を発揮,精神科医師でゴッホ研究家の式場隆三郎らの紹介で 39年に銀座の画廊で展覧会を開き,世に認められた。記録的な観覧者数で,会場の床が抜け落ちたというほどの盛況ぶりだった。翌年,徴兵されることを恐れて突然施設を抜け出し,3年の間各地を放浪。この間に記した『放浪日記』が 56年に出版されるが,55年の『山下清画集』の出版と相まって,一種のブームを引起し,全国で展覧会が催された。 58年には山下をモデルにした映画『裸の大将』が制作され,純朴で愛すべきキャラクターが人気を呼び,以後も芦屋雁之助が主演のテレビドラマがシリーズ化された。生涯,学園での絵の制作と,放浪の日々を送った。(ブリタニカ国際大百科事典)
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