詩人の川崎洋さんについて、すでに何度か触れています。茨木のり子さんらと「櫂」を創刊した。ぼくには詩の精神がないことを重々承知の上で、時々、詩人の肺腑の言や当を得た言葉の発見(使用)に、無性に出会いたくなります。その川崎さんに『わたしは軍国少年だった』(新潮社。九二年)という本があります。当時の日記の一節。「(一九四五年)一月七日 晴れ 日 ルソン島リンガエン湾に上陸用舟艇百隻が上陸のすきをうかがっているとのこと。愈々重大になってきた。早く俺が甲飛(甲種飛行予科練生)に入って敵艦を片っぱしから轟沈させなくては。明日から学校だ」人は生まれて、やがて「軍国少年」になるのではない。時代が、社会が「軍国少年を作る」のだ。だから、時代が変われば軍国少年は「平和の使徒」になるかもしれない。川崎少年はどうだったか。

ぼくらより年上の人たちには、「それぞれの敗戦」「それぞれの戦後」というものがあるでしょう。川崎さんは一九三十年生まれでしたから、敗戦時はまさに「少年兵」として敵艦を駆逐するという「覚悟」が決まっていたはずです。「私は軍国少年でした。それが敗戦で一八〇度変わって平和憲法が制定されました。私は思います。奇跡的に手に入れることができた憲法で、人類にとってとてもいいものだと」「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい。そのことで、マイナス面があれば引き受けようと思います」ともいわれた。異様な覚悟、新生の宣言であったでしょう。その感情の昂(たかぶ)りは、経験者でしか味わえなかったものだから、他人が、その理非曲直を云々しても始まらないと、ぼくは考えています。

ピストルも兵器もない日本にしたい、そのための「ことば」だったか。川崎洋さんの「詩への道」が作り出された瞬間であったかもしれません。「ペンは剣より強し」という表現は陳腐であり、適切ではないかもしれませんが、ピストルも兵器もない国にするための、川崎さんの「言葉」への覚悟が読み取れるところです。その川崎さんの「これから」という詩。「人生は朝から始まる」と教えてくれたのはフランスの高校の哲学教師でした。それと同じような鮮烈な刺激を、この「これから」から、ぼくは受けた。ぼくが存在する「現在」は一瞬ですが、それは永遠の鏡であるともいえます。その一瞬の「現在」に過去も未来も備えられているからです。ぼくたちが生きているというのは、この「一瞬」、つまりは「このとき」「これから」を生きているということです。過去も未来も、身内に伴いながら。

これから これまでに 悔やんでも悔やみきれない傷あとを いくつか しるしてしまった もう どうにもならない だが これから どうにかできる 書きこみのない まっさらの頁があるのだ と思おう それに きょうこの日から いっさいがっさい なにもかも 新しくはじめて なにわるいことがある (『川崎洋詩集』水内喜久雄選・著、理論社。〇五年)
その川崎さんから二十数年程経て生まれた政治家は「奇跡的に手に入れることができた憲法で、人類にとってとてもいいものだと」とは考えなかった。これは強制され押し付けられたものだから、独自の憲法をと、ある時期から執拗に訴え始めました。押し付けた当事国とは昵懇の仲を、内外に誇っていたにも関わらず、でした。「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい」という詩人の覚悟を、敗戦後の五十年代生まれの政治家は「核が持てる国」「攻撃能力のある国」にしようという「政治的情念」に突き動かされ、結局は身命を賭したことになった。それは「思想」でも「覚悟」でもなく、強権意識が生み出す「幻夢」に迷わされた錯誤だったような気が、ぼくにはするのです。強大な軍備を、いったい、どこに、だれに向けようとしていたのだろうか。
この「憲法に向かう姿勢」の違いは、詩人と政治家という、職業からくる違いからだったでしょうか。いや、それは生きるということ、世界の中で生きているということの、人間の尊厳に対する感受性の違いだろうか、詩人や政治家である前に、いや、そうである以上に、人間として、どのよう生きようとしているか、その違いではなかったでしょうか。「ピストル一丁ない、兵器一つない日本にしたい」という願いと、「核が持てる国」「攻撃能力のある国」でなければならぬという、この違いも、同じところから生まれてきたのではないでしょうか。
● 川崎洋 (かわさき-ひろし)1930-2004=昭和後期-平成時代の詩人,放送作家。昭和5年1月26日生まれ。「母音」「詩学」に投稿し,昭和28年茨木のり子らと「櫂(かい)」を創刊。詩集「はくちよう」,放送詩劇「魚と走る時」などをかき,32年から放送台本を中心に文筆生活にはいる。62年詩集「ビスケットの空カン」で高見順賞。方言の採集などでも知られ,平成10年「日本方言詩集」「かがやく日本語の悪態」ほかで藤村記念歴程賞。放送作品で芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。平成16年10月21日死去。74歳。東京出身。西南学院専門学校(現西南学院大)中退。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)







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