よく「社会の窓が開いてるよ」と誂(からか)われたことがあります。ズボンのチャックのことでした。今でもそんなことを言う人がいるのかどうか。この「窓」からは何が見えたのか、逆に、窓の中が見えるではないかという、危険防止の指摘だったかもしれません。とかく「窓」というものは、大小に関係なく、人間の生活には不可欠な「空気孔」のようなもの。ぼくたちは真空状態で生きているのではないので、つねに空気の入れ替え(換気)が必要だし、場合によっては、社会(外部)の出来事(風)を知らないで過ごすこともできなくはありませんが、それなりに社会で生きているという実感を持つためには、社会に流れている「空気」をよく呼吸する必要があるのです。一人で生きているのではないという実感を、ぼくたちは得たいんですね。

ある時期までは、Television is a window on the world. などと言われたものです。今では時代が変わりましたから、テレビではなくネットでしょう、その証拠に 〈Windows〉が世界を席捲(せっけん)しているのです。もともと、「窓」は「風が入る穴」をさして言われた。その風(wind)は「時代の風」であったり「世界の風」であったりします。「風を読む」は「空気を読む」につながるし、その反対を指すこともある。空気の波動が風であることを考えれば、空気と風は同類同種の別名であり、そこには多様な意味合いが込められていることがわかります。気配だとか臭い、あるいは噂や暗示、雰囲気なども。それほどに、ぼくたちは自分が生きている時代や社会の「気配」「空気」を感じながら、安心し、あるいは心配しながら生きているのです。
かつて、新聞は「社会の窓」だったと思う。今はそうではない、と断定はしませんが、社会の窓の役割を果たしていないほうが多いのではないでしょうか。あるいは、この社会にたった一つの「窓」しかないともいえます。そこから見える景色は、誰にも同じようにしか見えません。これは不自由なことであって、あまり健全とはいえません。同じ景色や出来事を見ても、見る人によって異なって見えたり感じたりするのが健全であり当たり前なのですが、誰もが同じように見るとなると、それは本当に見ていることになるのかと、ぼくは訝(いぶか)しむ。「仰ぐは同じき理想の光」という歌を、どこかで何度か聞いた気がします。その前の句は「集まり散じて 人は変われど」だったと思う。日露戦争時の、この島社会の意気軒昂ぶりを煽るような曲風に聞こえたのでした。人は生き死にして、世代が変わることはあるが、「仰ぐは同じ理想の光」と、燦然と輝く「国是」があったんですね。曲にも風は吹く。音楽もまた、一陣の「風」だ。

ある歴史家の書いた本で、イギリスのジャーナリスト(歴史家)が、ある時、近所で起こった事件を見ていた。翌朝、新聞にその事件が、自分の見たのはまったく違って報告されているのを読み、自分が書いていた記事(報告)を破り捨てたという逸話が出ていました。若い頃にこれを読み、ぼくは深い印象を与えられたのです。「十人十色」「人それぞれ」は、あらゆる場所に妥当するほうが、社会は健康であるといえます。その昔「一億一心」ということが盛んに標語として掲げられた。「一致団結」「一糸乱れず」「一枚岩になろう」と、どうして、こうも生きている存在を窒息させたがるのかな。無理に無理を強いるというのが、国の指導者の仕事か、あるいは趣味か。人間のロボット化は、かくしてますますはびこるのだ。(左の記事です。「窓」なしパジャマをぼくも買ってしまった。かみさんに、「これあなたのでしょ」といっても、サイズが合わなかった。左の投稿者は八十四歳、ぼくはかなり年下ですが、「社会の窓」がなかったんですね。ぼくは瞬時に、これは今の時代風なんだと悟りましたが。ここにも「風」は吹いていた。男性の女性化は、かくして進行する。ぼくは言いたい、女性にも「窓」を作ろう、でも、どこに?)

あるいは、ぼくたちが使う道徳の「徳」は、旧字では「德」と書き、そのこころは「十目一心」でした。人は違えど、見えるもの、感じることは同じということだったでしょうか。「心を一つにして」ということですね。いかにも窮屈だし、一人一人が独自に存在することを認めない教条主義ではないですか。この駄文を書き出してから二年半以上が経過します。毎日のように新聞の記事を目にしますが、いたるところで「十目一心」がかなり進んできたということを実感します。決して願わしい傾向ではないですね。その「新聞は社会の窓」といえば、ぼくは読売新聞大阪版のコラム「窓」の熱心な追っかけでした。社会部のキャップは黒田清さん(故人)、その下に大谷明宏氏など、実に多彩な面々が「窓」をこじ開け続けていました。実に爽快なもので、清風が吹き通っていた気がしました。やがて、東京本社と一戦を交えるまでもなく、ナベツネに完膚なきまでにしてやられて、完敗。会社を去って、新たなジャーナリズムを追求するも、途中で戦死する兵のように倒れた。ぼくは彼をこよなく敬愛し、家の猫に「クロダキヨシ」と、その名を借りて、黒田さんを偲ぶ縁(よすが)にしています)(右写真は黒田さんと大谷さん)







本日は、別のことを書こうとしたのですが、「正平調」なるコラムに目を奪われて、しかも二つも並べる仕儀になりました。「国葬」を巡る回顧あり、現実認識ありの論調です。さらに「教育と愛国」の記録映画に触れています。このテーマに関しても、ぼくはすでに少しばかり感想を述べました。「国葬」「愛国」と、どうして、こうも「国」が出たがるのでしょうか。いや、「国」を出したがるのでしょうか。国は一つの仕組みに過ぎません。それが「人格」を有し、モノを言うように錯覚している面々が五万といるんですな。これも、今現在のこの社会の「空気」であり「風」なんですね。「間もなく、終戦の日が巡ってくる。何者かに忖度(そんたく)する空気や同調圧力を感じることなく、内心の自由を守り不戦の誓いをかみしめられるのか。今夏の「憂い」はいつにも増して、色濃い」とコラム氏は語り、政治の教育への介在では「勝ち負けは/さもあらばあれ/たましひの/自由を求め/われはたたかふ」という家永さんの、熾烈な「自由への覚悟」の歌を引用されています。国葬も愛国も、あるいは「教科書検定」制度も、いずれも「ツワモノドモの夢のあと」のごとく、貧寒とし、荒涼とした風景に、気が萎えそうになります。「一将功なりて万骨枯る」と、その昔は言われましたが、今では一将も、万骨も、みな枯れ果てるという、不毛の野原が広がるばかりです。
【正平調】朝、窓を開けると、セミの鳴き声が塊のようになって押し寄せてくる。猛暑の象徴だが、8月に入ると、その音に「憂い」のようなものを感じてしまう◆戦没者追悼式や広島、長崎の平和祈念式の報道番組を見るたびにセミの音を聞くからだろうか。ウクライナ戦争や東アジアで高まる緊張感を背景に、岸田文雄首相は防衛費の増額を示した。もう一つの「憂い」だ◆銃撃された安倍晋三元首相の初盆でもある。政府は9月27日の国葬を決めた。安倍氏の外交や経済政策を評価する意見がある一方で、この決定に違和感を抱く人は少なくない◆国民一人一人が弔意を示すことは自由だ。しかし「国の儀式」で弔意が国全体に広がると、憲法改正を悲願としていた安倍氏の遺志が美化されまいか◆政府は「国民に喪に服することを求めるものではない」とするが、戦後初の国葬だった吉田茂元首相の葬儀はテレビ・ラジオで報じられ「吉田一色」になったという。当時なかった交流サイト(SNS)はどんな反応を起こすだろう。自治体や経済界は…◆間もなく、終戦の日が巡ってくる。何者かに忖度(そんたく)する空気や同調圧力を感じることなく、内心の自由を守り不戦の誓いをかみしめられるのか。今夏の「憂い」はいつにも増して、色濃い。(神戸新聞・2022/08/01)

ぼくが入学した(一九六四年)段階あたりから、家永訴訟が始まり、その前後に「統一教会」の激しい布教活動が起こりました。奇しくも、前回の東京五輪開催の前後にあたっています。やがて、ぼくは、家永裁判も統一教会問題にも、いささかではありますが、関わりを持ちました。ぼくは活動家ではなく、まったくのノンポリでありましたから、当時の大学内外の騒擾にも「ヒトリシズカ(一人静)」を気取って、図書館や自宅でひたすら本読みに徹していたと思う。その姿勢は、それ以降もまったく変わりなく、ある意味では平穏の、また別の意味では平凡そのものの生活に齷齪(あくせく)していたのでした。時を同じくして、元総理大臣の「国葬」が行われていたことも記憶しています。その当時(学生時代)、ぼくはいっかな「時代の風」を読まなかったし、読む必要を感じもしなかった。上から下までの「ノンポリ」でした。今だって、根っこの部分では少しも変わっていないつもりです。もちろん、事の良し悪しを言うのではありません。とは言っても、飛びかかる火の粉は、自分の力で消し止めてはきました。

【正平調】歴史家の家永三郎さんが国を訴えたのは1965年だった。有名な「家永教科書裁判」である◆一人の寡黙な学者を行動に駆り立てたのは、戦争体験を忘れ始めた時代への危機感だった。教科書に国家が介入すれば、いずれ子どもの内面の自由が奪われる。そして再び…◆最高裁判決で検定自体は合憲とされたが、個別の検定内容は「教育の不当な支配に当たる」として主張の一部が認められた。法廷闘争は32年に及んだ◆教科書の“現在地”を描くドキュメンタリー映画が全国で上映されている。毎日放送ディレクターの斉加尚代さんが監督をした「教育と愛国」。反響がじわりと広がり、どの映画館も盛況という◆2006年、教育基本法の改正で愛国心条項ができると、国は教科書の検定基準を見直し、記述に政府見解を反映するよう義務付けた。斉加さんは「教育再生」の名の下に政治が教育に介入していく実態を丁寧に掘り下げる。「特定政党へのアンチではない。教育の普遍的な価値が変質していくのを見逃さないで」と上映後の舞台あいさつで話していた◆家永さんが残した歌がある。〈勝ち負けは/さもあらばあれ/たましひの/自由を求め/われはたたかふ〉。斉加さんが守りたいのも、子どもたちの魂の自由だろう。(神戸新聞・20022/07/31)

この二十年以上、この社会は、一面では、上を下への「勝手放題」、その昔、「五倫五常」などと言われた、社会倫理や公衆道徳の存在すらが懐かしいくらいです。親子も夫婦もあることか、どこでも個人主義の花盛り、政治は国民をないがしろにし、行政は国民の生活に関心を示さない、まるで「✗✗一強」などと言われた時間と同じくする期間を、この細長い島社会は、恣意私欲、放恣を旨とし、ひたすら個我の利権あさりに集中することが求められた、そんな感想を抱かせる雰囲気で終止して来たのではなかったか。ぼくには「末法」の時世・時勢のようにしか見えませんでした。その傾向は今も続いています。「教育と愛国」を謳いつつ、国破れて草木深しの感を強くするばかりです。
教育再生実行会議なる御用機関の長を長年勤めていたのが、若いときはかなり親しく付き合った友人でしたが、彼は昔の彼ならず(今もその椅子に座っているか)。彼が教育改革を言い募ったのではなく、御用機関の長を、順繰り(持ち回り)で、ロボットよろしく、務めただけですから、功罪は半ばするのかしないのか。いずれにしても政治の任に当たる人間が「教育改革」を掲げるとろくなことにはならないのは歴史が示してきました。現状は推して知るべしです。いうならば、当局の言いなりになるという状態を指して、「教育は正常化」したというのですが、更にその歩を進めようというのでしょう。どこまで行くのか、この道を。しかし、ぼくは意気消沈もしなければ、闘争心を喪失してもいない。さまざまな領域や方面で、愚直に、あるいはまっ正直に正義を貫こうとしている人の存在を確かめることができるのです。ぼくも、足手まといにならない範囲で、その「平和のブリゲード」に連なりたいですね。

窓はどこにでもあると思ってはいけない。窓をあけると、何も見えない、壁しかなかったということがいくらもあるのです。戦時中(「別れのブルース」昭和十二年)でしたか、やはり「窓」を開けた一人の女性歌手がいました。青森出身の方だった。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の灯が見える」「夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船はどこへ行く」戦時中も戦前も、もちろん戦後も、いつだって「風」は吹いていたのです。こういうと極論に聞こえそうですが、新聞やテレビは、同じ「窓」、一つだけ開いている「窓」であり、見える景色(景色などという洒落たものではない)、いや殺風景は「一億一心」で、誰にも同じ。空虚で空無。これがこの社会の、一面の現実です。生暖かい風しか入ってきません。息苦しいですね。酸欠状態から窒息者続出です。加えて、空気汚染はどこまで広がるのでしょうか。酸欠にマスクは逆効果だし。マスクなしでの深呼吸は「ウィルス吸引」の絶好機でもあります。それぞれに、注意深く暮らしましょうか。
・いろいろに思い乱れて葉月開(あ)く(無骨)
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