いたるところに「橋のない川」が存在する

 現代社会にはいくつかのタブーがあります。大っぴらには触れにくい問題、いわば、言わず語らず(暗黙)のエニグマ、あるいは「公然の秘密」とみなされている問題群です。「天皇制」と「部落問題」も、以前ほどではないにしても、軽々には論じられにくい問題として今なお、ぼくたちの社会に「床の間の掛け軸」(まずい例えです)のように、見ようとする人には見えますが、それに関わらなければ、等閑に付すこともできる、そんな雰囲気の中に存在しています。それでは、重要な課題となっていないのかというと、けっしてそうではない。歴史の深い部分に覆われている、いくつかの問題があるのです。そんな課題について、率直無比な「対談」を。昨日の続きのようになりましたが、この「天皇制」というものもまた、藤村の書いた小説のテーマである「破戒(breaking)」を惹起しかねないものの一つではないでしょうか。

 ずいぶん昔の「親子の対話」(増田さんは、住井さんの次女)です。そして、この部分はこれまでの駄文録の何処かで、すでに紹介しているような気もしますが、積もり積もって雑文の山をなす、小文が千数百にもなりましたので探す気もしません。(索引も目次も、一切放擲して、ひたすら「日々の汗と恥のかき捨て」のように、だらだらと連ねてしまいました)だからという言い訳ではなく、どれ程考えたところでキリがない問題を扱っていますので、乱暴な扱いはご寛恕いただいて、お二人の語る「問題のサワリ」の部分を読んでいただけたら幸いです。できれば、一冊そのものをお読みになることを勧めます。

 奇しくも(というのか)、本年三月は「全国水平社」設立百周年でした。奈良の御所市に集った青年たちが、「差別からの解放」を求めて呱々の声を上げたときから一世紀が経過しました。京都岡崎の公会堂で開かれた際の呼びかけの「ビラ」が、右上に掲げた写真です。住井さんは奈良の出身。「橋のない川」は全国水平社立ち上げに中心的な役割を果たした奈良の青少年たちの運動と弾圧に始まる、解放運動の軌跡を描いたものです。「天皇制と部落差別」という主題を展開していったとも受け取れるものでした。古代天皇制発祥の地、奈良に芽を吹き出した解放運動。無関係ではないものとして、奈良には「天皇」にかかわるたくさんの「遺物」「縁のもの」があります。御所(ごせ)市には「神武天皇社」までもがいまに語り伝えられています。

 「御所市「柏原」に鎮座するこの神社の祭神は「神倭伊波礼毘古命」。初代神武天皇の即位した場所であると言われています。享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。/ 一説にはこの神社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼いてしまったと言われています」(https://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001433.html)

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 いささか時代がかった問題だと受け取られそうですが、いかがでしょうか。明治以降に限定しても、「天皇制」は古くて新しい問題だともいえますから、いまこのような問題を考えるのも決して無駄ではないと、ぼくには思われます。また、今日の課題としても「現行天皇制」の継続をいかにして担保するかが政治日程に上ってもいるのです。それゆえに、この問題を自らの視点を持って考える一助にもなると考え、住井さんの著書を紹介するための一助として、「対談」の一部を引用する次第です。

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 増田 天皇制と被差別部落は政治、支配という人為の最たるものよね。

 住井 そうそう、だから人為的になにかをつくったら、それの反動、シワ寄せはどこかにかならず生まれるわけね。天皇制をつくったら、被差別部落ができるのは当然だ。だから天皇制も人為だし、被差別部落ももちろん人為的につくられたものだから、人為だから、これは偽り。偽りからは解放されなければならない。

 だから何度も言うけど、「偽り」という字は人為と書いて「偽り」。そのウソごと、いつわりごとにいつまでひっかかっているのかね。法則からいえば、人間にひとつも変わりないんですから。

 重さとか面積とか長さとか量とか、そういうものは全部測り分けて、数字でだせるのに、貴賤だけは数字では出せないからウソだということになる。

 増田 これはつくりごとだからね、架空のもの。 

 住井 だから宇宙の法則にかなったものはみな宇宙の法則どおりに数字で出せる。  

 増田 実際に賤の方に分けられた人たちというのは、もう徹底的に人間性を否定され、生きて暮らすことを否定されたのね。

 住井 賤なんてとんでもない迷信。ウソ、科学でも何でもないのよ。

 増田 その迷信によって痛められて、一方のほうは、迷信によってのうのうと生活できると。しかし、そういう構造がいったんでき上がってしまうと、人間社会というのは、それを困ったもんだ、おかしいおかしいと思いつつ、いっこうにこわそうとしない。差別する側は痛くもかゆくもないからね。

 住井 しかし、こんなことがいつまで続くかね。そんなことが、偽りのからくりいというか、ウソごとがね。

 増田 それはね、もうすでに崩壊しつつある。戦後の憲法でもって、半分は崩壊したと思う。(住井すゑ『わが生涯 生きて 愛して 闘って』聞き手 増田れい子。岩波書店、1995年刊)

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 代表作の『橋のない川』が刊行(1959年)以来、何十年にもわたって読みつがれてきた理由を問われて。

 「人間の愚かさを遠慮なしに書いているからです。ばかな人間の話はおもしろいものです。人間社会の中で、日本の部落差別ほど、ばかげたことはない。深刻でこっけいで、考えようによっては、これは笑い話ですよね」 「私の肩書は作家ではなくて、人間です」「人類の母親は人以上のものも、人以下 のものも産まない」(同上)

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● 住井すゑ(すみいすえ)(1902―1997)=小説家。奈良県生まれ。1919年(大正8)農民作家犬田卯(しげる)と結婚。夫婦で「土の芸術」を目ざして24年農民文芸研究会(27年、農民文芸会に改組)をつくる。以後、アナキズムや重農主義の立場から「農民自治」と「女性解放」運動の旗手となるが、戦争下の圧迫に抗しきれず35年(昭和10)茨城県牛久(うしく)沼のほとりに退く。第二次世界大戦後、『夜あけ朝あけ』(1954。毎日出版文化賞受賞)や『向い風』(1958)で再登場し、新しい農民作家として高い世評を受けるようになった。57年(昭和32)夫が病没しているが、その直後にまとめた夫婦共同の回想記『愛といのちと』も深い感動をよんだ。大作の『のない』は、61年に第1部を出し、73年の第6部でいったん完結した。被差別者の人間的解放を願った大河小説であり、執筆には16年間を要した5000枚の大作であるが、20年後に第7部を刊行。ほかに『野づらは星あかり』(1978)、児童文学の作品に『みかん』(1952。小学館文学賞受賞)その他がある。(ニッポニカ)

● 増田 れい子(ますだ れいこ、1929年1月5日 – 2012年12月12日)は、日本のジャーナリストエッセイスト毎日新聞東京本社論説委員、学芸部編集委員、サンデー毎日記者を歴任。(weblio辞書)

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  <社説>水平社宣言100年 反差別の志受け継いで   「人の世に熱あれ、人間に光あれ」。百年前に創設された全国水平社の宣言文だ。部落差別の解消のみならず、水平社の理念は人権運動総体をけん引した。その志を受け継ぎたい。   全国水平社の創設は一九二二年三月三日。京都市での創設大会には被差別部落出身者ら三千人が参加した。明治政府は一八七一年の解放令で「穢多(えた)」「非人(ひにん)」などの身分制度を廃止したが、その後も厳しい差別が続いた。その解消を目指し、水平社は日本で初の当事者団体として結成された。   その歩みは戦後、部落解放全国委員会(現在の部落解放同盟)に継承され、運動により部落差別の解消を「国の責務」とした同和対策審議会答申が勝ち取られた。   一方で水平社時代の戦争協力や戦後も同対審事業を巡る不祥事など、運動には曲折があった。   ただ、日本初の人権宣言として百年前に放たれた水平社宣言の光彩はいまも色あせていない。宣言は当時、米誌でも紹介され、その後は障害者、アイヌ民族など他の人権運動に影響を与えた。   宣言の画期性は差別された当事者が同情を乞うのではなく、自尊の精神を抱いて社会変革を訴えた点にある。さらにその訴えを自分たちだけに閉ざさず、「人間を冒涜(ぼうとく)してはならぬ」と社会全般に普遍化したことにあるだろう。   言うまでもなく、差別をなくす闘いは容易ではない。現在も被差別部落を巡っては結婚などの差別が残り、地名の一覧がネット上に掲載される事件も起きている。   在日コリアンやアジア人らへのヘイトスピーチ、技能実習生らに対する暴行や搾取の横行、入管施設での長期収容や死亡事件にも人権感覚の欠如が表れている。     日本だけではない。社会格差の拡大は排外主義の台頭を促し、ネット社会は偏見や憎悪を助長しがちだ。特に非常時には人権意識が損なわれやすい。コロナ禍での感染者への差別は記憶に新しい。   現代社会を見つめれば、水平社宣言が過去の遺物ではないことが分かる。次の百年に向け、私たちにはその理念を共有し、反差別のバトンを受け継ぐ義務がある。(東京新聞・2022/03/03)

● 水平社(すいへいしゃ)=1922年に被差別部落自主解放を目指して創立された団体。正確には全国水平社という。西光万吉,阪本清一郎らを中心とした奈良,三重,大阪などにある被差別部落の青年グループが呼びかけ,京都で開かれた創立大会には全国から 2000人あまりの代表者が参加した。大会では自主的解放,職業と経済の自由の要求,人間性の覚醒など3ヵ条の綱領と宣言を採択し,明治末年以来,政府によって遂行された恩恵的な部落改善,融和政策を排撃した。組織は中央に全国水平社連盟本部を置き,府県水平社,部落水平社が置かれた。創立大会以後,運動は全国に広がり,部落民に対する差別と偏見を打ち破る力となった。 1926年には共産主義の影響下で,左派が部落解放を無産者階級の解放に直接に従属すべきものとしたり,1931年には水平社という身分組織は部落労農大衆の階級的自覚を妨げるとして水平社を解消しようとしたため,運動は一時低迷したが,のちに左派は自己批判した。それ以降,身分闘争と階級闘争を結合した部落委員会活動が行なわれることによって再び組織も発展したが,1937年日中戦争勃発後,政府の圧迫のもとで,1940年8月第 16回大会を最後に運動は自然消滅した。第2次世界大戦後部落解放全国委員会として再建され,1955年に部落解放同盟と改称した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 部落解放運動はようやく百年、それ以前の数多の人々の「差別への闘争」を知るなら、おそらくこの島社会にあって、何らかの根拠のない根拠(でっち上げられた神話・作り話)による「差別」の歴史は悠久の昔からというべきかもしれません。明治以降の「西洋文物到来」の一環として、「人権尊重」「天賦人権思想」が流入して以来、ジグザグの道行を辿ってきた感が強い「差別解放運動」でした。(断る必要もありませんが、差別拒否、差別からの解放は、明治以降に始まったものではなく、いつだって、どこにだって人間集団内では「反対闘争」はあったのです。縄文時代にあっても、それ以前にも、集団ができているなら、どこでだって)一方の天皇制も、現下の皇室事情から、早晩「後継天皇問題」が不可避の課題となってくるでしょう。この両者が踵(きびす)を接して「問題」となり続けてきたとは言い難いとしても、「聖と賤」の問題は、歴史の途上にいつでも「立ちふさがって」いたともいえます。

 「人権尊重」という、効き目の薄そうな、「水戸黄門の印籠」じみた表現を使うと、多くの歴史的課題が後景に消えてゆく気配があります。しかし、いまもなお、人間の集団には「差別事象」は、絶えることなく湧出しているのです。「天皇制の保持」如何を含めて、「人間であること(人間存在)」の譲れない「自由の問題」として、ぼくたちは、「差別からの解放」の問題にま向かうことが求められている。差別する、差別されるという事象(事柄)は、日常生活における小さな出来事から、歴史的な背景を持った、国家規模の大掛かりな人為的差別(例えば、身分制など)に至るまで、さまざまな階梯がありますが、そのどれをとっても、根底には「他者に対する優越感」の裏返しであったり、「劣等感からの逃走」が、そこに潜んでいることが見て取れます。人間は、他者に負けたくない、劣っているとみられたくないという「優越性の差別感情」に突き動かされるのです。その「差別感情」を政治的に塩梅して偽造されたのが「身分制」だったと思う。偽りは、人間が為すものだとする住井さんの指摘は、人間の弱さを見せなくする(隠す)ための作為・装置として、いつの時代でも用いられてきたものです。その「嘘」「虚偽」「虚構」を射抜くだけの、「作為への・に対する膂力」を育てたいものだと、長い間、ぼくは念じてきました。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。