「センス」ということばがあります。辞書には「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの。『文学的な―がある』『―のよくない服装』『バッティング―』」あるいは「判断力。思慮。良識。『社会人としての―を問われる』」(デジタル大辞泉)と解説されています。概ね、そういうところでしょうか。

しばしば、「あのひとはセンスがいい」「なんともセンスが悪い」というように使われることがあります。ここでは、個人の感覚・感性という趣があります。それが集団になると、「コモンセンス(common sense)」という表現で「集団の感覚」「共通感覚」という意味で使われる「社会通念」や「常識」をさすこともあります。慣習や習慣というより、むしろ「集団の価値観」を示すような気味合いがありそうです。「センス」がある、ないから始まって、「コモンセンス」がある、ないということが言われる。いずれも「個人と集団」に深く関わるキーコンセプトでしょう。非常識な人間だと非難されるのは、誰もが持つであろう「センス」を欠いているからだということです。

世の中の多くの人が共有することで「社会通念」「常識」が成り立つ。しかし、それも時代とともに変わるのは当然で、まるで川の水が流れるように、ある時点で停止してしまうことがないのです。水の流れに乗れない人々はいるもので、その人たちは「時代おくれ」というレッテルを張られ、旧人類などと揶揄もされるのです。「センス」は何よりも社会で生きていく上で大切なものであることは否定できませんが、反対にその「センス」に対して、異議を唱える必要がある場合もかならず生まれてきます。なぜなら、全員が「正しい(センスがある)」ということはありえないし、その危機的状況を救い出せるのは個人の意見(非ー常識、反ー常識)になるからです。全員に対して「異議あり(ノンセンス)」ということもあるのです。
学校教育で教師がもっとも重視するのはこの「社会通念」や「常識」とされる価値観(ものの見方、受け止め方)であるともいえます。社会生活を営む上で必要な「センス」というものがあって、それを身につけさせるのが学校の仕事になっているからです。それを「社会性(社会化)」と言い換えてもいいでしょう。他者とうまくやっていく「作法」です。子どもたちが社会に出て困らないように訓練する、それこそが学校の役目で、重要なのは、このセンス(常識)をたくさん子どもたちにもたせることです。この面において、何か異論を言う場面はなさそうですが、でも、よくよく考えなければならないのは、「民主主義(デモクラシー)」という社会の在り方において、もっとも尊重されるべきは「少数意見」であり、その意見を「表現する自由」です。
一方で「誰もが持つ見方・考え方」を養いながら、他方で「みんな」の中に自らを埋没させないための、自らの足場を築くことも求められる。単に社会に生きるのではなく、「自分らしく」「他者と交わり」ながら生きるとなると、「センス(コモンセンス)」ばかりを強調するのは問題があるとしなければならないでしょう。「自由」というのは「その自由に反対するものの自由」をも含めなければ、実に歪なものになり、ついには「自由の否定」に出してしまう。口に出していうから「自由」なのではなく、実際に行うところにこそ「自由」という実践が生まれる(あるいは死ぬ)んですな。

子どもは、社会(集団)に受け入れられるためには、社会(集団)を受け入れなければならない。社会(集団)を受け入れるというのは、既存の社会集団が備えているもろもろの「価値観」であり、社会規範の総体ともいえる「社会通念」をうけいれることであります。面倒ないい方をすると、社会規範を「内面化する」ということです。その練習・訓練を学校で(が)しているのです。子どもが学校で認められるには、学校の価値観を受け入れる必要がある。理不尽だと思われる「校則」でも、それを守る。無理な要求でも、教師のいうことにはすなおにしたがう。そうしているうちに、社会のルールを受け入れられる人間になるのです。学校教育は社会に出る前の訓練期間であり、一種の助走期間のようなものとみられます。そこには「自由」はなかなか芽生えないですね。

教育は社会化であるとしばしばいわれますが、基本的には既成社会の価値観や規範を植えつけること(上品にいえば、内面化です)を意味します。教師の仕事は子どもを社会化する点にあるとされる。したがって、どの子もみんなそれぞれにちがいがあり、それを一元的に比較(序列化)することはできないというのは、社会の常識に対する不届きな挑戦とみられます。「優劣」ではなく、「平等」などというのは、ある種の幻想であり寝言だとされるでしょう。「現実はそんなに甘くはない」のであって、人間には出来不出来という「差」があるのは当然のこと。「優劣あり」が常識(センス)の立場になります。たしかに「優劣なし」、「優劣のかなた」は常識の土俵に入りそうにない。だからといって、それをまったく無価値のものとして無視していいのかどうか。個々の子どもには「出来と不出来」があるから、成績の差が生じるのは当然だと、「常識」は主張する。ほんとうにそうかどうか、とそれを疑う姿勢は「常識人」にはありません。それ以前に、「成績がいい」という価値観が無条件に受容されている、そちらの方を疑うことが大事じゃないでしょうか。

「いい子」「優等生」は学校で作られる。養成されるといっていい。自分(独学)でどれだけ立派にできたとしても、学校がそれを認めなければ、「立派」ということにはならない。学校が「人物評価」を下すのであり、その評価が、社会的に受容されているから、学校における「成績」が異常に問題視されるのです。学校の「優等生像」は素直で従順、器用で要領のいい子であるなら、反対に、学校が拒否・否定する子どもは、正直で不器用で、不得要領な子どもとなるでしょう。これができれば優等生、これができなければ劣等生というように学校専用の物差し(偏差値)に合うか合わないかで「優劣」に分けられる。もちろん、学校専用の物差しは既成社会の「規格」に合うように特注されたものです。
(ぼくは、学校という仕事場を離れて十年ほどになります。だから、学校教育につながる「ライブ感覚」も相当に鈍(なま)ってしまいました。今日只今の学校は、君が考えているような「旧態依然たる組織」などではなく、一人一人の子どもを、限りなく大事にするように心を尽くす、そんな現場に生まれ変わったんだ、と言われることを、ぼくは期待しています。そんなことはありえないよ、とかなりな部分では疑心暗鬼になりながら。いや「学校は蘇った。実社会を見てご覧!じつに素晴らしい青年諸君が学校教育から巣立っているではないか」と、白昼夢のようなことを描いている)
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「優劣あり」が世の中の実情・常識だとされます。貧富の差があり、能力の高低がありというように、なにからなにまで序列づけがされているのです。AさんよりBさんの方が優れているという比較の発想はどこから生まれてくるのか。たしかにテストをすれば点数に差がつく。でもそれで終わりになるわけではなく、教師は二人のなにをどこまで知っているのかという点になると、たちまち点数の差は仮のものだということに気づくはずです。「成績がいい」ということと、「人間として優れている」ということは同じじゃない。そんなことは誰もが知っていると思っています。でも「知っている」ということと、「それが正しい」と思い込むことは違います。あえて言うなら、学校優等生は、一面では、重要な人間的要素を失っているかもしれません。重要な要素は、しかし、学校で育てきれなかったと言ってもいい。そんなことにかまけるよりも、成績第一なのだという学校が、いささかでも「変わりつつある)なら、無性に嬉しいけれど、まずそれは無理だね。
金輪際、学校は変わらない(変わったか、と思わせることは時にはあるが)のだから、そのようなときに、とても大切なのは、学校を見る姿勢、学校との付き合い方、つまりは自分の姿勢を変えることなんだ。すると「学校は変わる」し、「世の中も変わるよ」と、ぼくは言い続けて半世紀です。社会なんか変わらんさ、社会に生きる自分を変えること。
「優劣あり」という常識に対して、いや優劣などはないのだという立場に、ぼくは、敢えて立つ。すると、どのようなことがおこるか。成績至上主義、学力一点張りという「センス」(常識)に対する疑い(否定)がそのような姿勢をぼくに取らせる。それはきっと、「社会通念」や「常識」で凝り固まっている「センス(意味)」を笑いとばすはずです。その力こそが「ナンセンス」なんだと、ぼくは考えたり感じたりしてきました。「センス」に対して「異議あり」(ナンセンス)というのです。「みんなと同じように」ではなく、「君はどう思うか」、それをまず大事にしてきたつもりだし、それを更に大切にして生きていたいと、今でも求めているのです。

センスの訳知り顔に対して、それは仮面だよと直言し極言する、それこそがナンセンスのよくなし得る技だと言いた。男と女は平等だというけれど、「ちからの差」があるのは目に見えているじゃないか。どう言おうと、男は女よりも優れていると、今でも信じ込んでいる人はいないと思いますが、それでも男のほうが上であってほしいと念じている、遅れた男が多すぎるのも確かです。仮に「男がセンス」だとするなら、それを「ナンセンスと笑い飛ばす」、それが女性なんだ。だから「力の差」がある、それをそのまま受け取るのがいいのかどうか。違い(差)があるけど、平等なものとしてあつかう、それはだれにでもできる芸当じゃなさそうです。でも、それくらいのことは平気でやりすごさなきゃ、という想いに駆られています。比べて得られるものは大したことではない。違いを生み出しているものの値打ちをもっと知るようにしたいね。
山下清さんは「男は偉いと言うけど、兵隊の位にすると、どれくらいなの?」というようなことをいつも言っておられた。貨幣価値ではなく、人物価値を「兵隊の位」に換算するのが、彼の人物判断の手法でした。その「兵隊の位」に変わる「秤(はかり)」が、今も求められているのです。誠意(誠実さ)、他者への尊敬心、人間の優しさなどなど、そんなもので「飯が食えるか」といわれるか、目に見えないもののなかにこそ、人間の値打ちがあるように思いますが。こんな事を言うのは、われながら気恥ずかしすぎますが、お金でもない、学歴でもない、社会的地位でもない、そんなものをすべてひっくるめても、到底かなわないもの、それが人間の値打ち。
make (a) nonsense of A((英))Aを無意味[だめ]にしてしまう(プログレッシブ英和中辞典)

*ヘッダーの写真は山下清作「長岡の花火」昭和二十五年。今年は生誕百年とされます。 ● 山下清(やました-きよし)(1922-1971)=昭和時代の画家。=大正11年3月10日生まれ。養護施設八幡学園ではり絵をまなび才能をしめす。点描風の作品はたかく評価され,昭和14年の展覧会は人気をよんだ。各地を放浪して気ままな制作活動をつづけ,「放浪日記」を刊行。「日本のゴッホ」「裸の大将」とよばれた。昭和46年7月12日死去。49歳。東京出身。画集に「山下清画集」。【格言など】兵隊の位になおせば(山下流人物評価のものさし) (デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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