「評価」を強制しないのに、なぜ「国葬」か?

 【日報抄】その言葉をここでも使うのか。報道を目にして思った。「ここ」とは、死去した安倍晋三元首相の葬儀を国葬とすることを巡る松野博一官房長官の記者会見。「その言葉」は松野氏による次の発言だ。「指摘は当たらない」▼野党や一部国民からは、国葬にすることで安倍氏への政治的評価が事実上強制されるとの懸念が出ている。これについて問われた松野氏は「国民一人一人に政治的評価を強制するとの指摘は当たらない」と述べた▼国葬とする理由について政府は安倍氏の政治的実績を挙げる。国葬は元首相の死を悼むとともに、その実績を歴史に刻む場にもなるはずだ。“実績”の負の側面を指摘する声もある中で、全額を税金でまかない、国を挙げて元首相をたたえるとなれば「政治的評価の強制」という懸念が生じるのもうなずける▼思い起こせば「指摘は当たらない」という言葉は、第2次政権時代の安倍首相や菅義偉官房長官がよく口にしていた。相手の指摘に耳を貸すことなく、議論を打ち切るような冷酷さが漂った▼世を去った人の批判は、はばかられるような空気も存在する。それが人情だという声もあろうが、元首相という公人中の公人であれば、その実績は慎重かつ冷静に分析されねばならない▼国葬に対して多様な声があるのは健全なことだろう。政府は国葬とすることの意義などを丁寧に説明するというけれど、懸念に耳を貸さないような口ぶりはどうしたことか。現政権の看板は「聞く力」であったはずだが。(新潟日報・2022/07/22)

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 件(くだん)の「記者会見」の模様が下の記事(毎日新聞)です。野党は「弔意の強制」と批判すると、「それは当たらない」と官房長官。なぜ「当たらないのか」という理由はあるのかどうかわかりませんが、それを言わないで、「その指摘は当たらない」と、鰾膠(にべ)もない。本当は「責められると困る」からは、双方ともに先刻承知です。これは「八百長」だね。この悪しき「会見方式」を生み出したのは、棒読み S 元総理だった。官房長官を七年も八年もやっているうちに、編み出した「記者殺し」「質問逃れ」の必殺技と自己評価したのか、T 新聞社の女性記者からの執拗な追及に「逃げ出した」「降参した」と悟られるのを避けて「指摘は当たらない」、「あなたには応えない」と、屑(くず)そのものの面汚しだったが、それが逆に「評価」されるんですから、政界というところは「理」ではなく「情」というか、堅気にはわからないつながりがあり、それを差配しているのが、なんと同じ新聞記者だった。自らの「無知無能」を隠蔽するための「サル芝居」で、とっくにお里は知れていたのに、自覚が足りないから、総理大臣になりたいと思い、あろうことかなってしまって、散々「味噌をつけた」にもかかわらず、もう一回やりたい・やる気だとさ。懲りない面々だな。

 「記者会」という某政権「政党支部」が、新聞記者の姿を取っていたことになる。松下政経塾出身の松野氏、彼もまたそうなのかもしれない。まさか、記者会の幹部とは「ズブズブ」なのではないでしょうが、それなりの厚誼は結んでいるはず。「その指摘は当たらない」と言われて、記者風の身内は、二の句が継げなかったのか、二の矢が出なかったのか。「一人、一問」、たった一問しか質問できないという「会見」否定の約束を記者会が受け入れているのですから、そもそもの過ちはここにあるのでしょう。「内閣記者会(記者クラブ)」が「知る権利」を率先して阻止し阻害しているのですから、それこそ「開いた口がふさがらない」というほかない。記者会見変じて、大本営発表(右から左へ)報道機関に「置き換わり」してしまったんだ。この手の「垂れ流し」を「記者会見」と言わないでほしい。「問答無用」報告会と改称すべし。政府御用達認定報道機関とね。記者クラブと内閣官房がともどもに、肩を組んで劣島の「政治劣化」に日夜務めているとみれば、なかなか壮大な堕落劇ですね。

 「政治的評価を強制の指摘は当たらない」 安倍氏国葬で官房長官 松野博一官房長官は20日の記者会見で、安倍晋三元首相の国葬に対し野党から「弔意の強制だ」などと反対の声が上がっていることについて、「国民一人一人に政治的評価を強制するとの指摘は当たらない」と述べた。  政府は、9月27日に東京都千代田区の日本武道館で安倍氏の国葬を行う方針で、今月22日にも内閣府設置法に基づいて閣議決定する。しかし野党からは「安倍氏の政治的立場や姿勢を国家として賛美・礼賛することになる。弔意を事実上強制したりすることはあってはならない」(共産党・志位和夫委員長)などと反対の意見も上がっている。  松野氏は「国内外から幅広い哀悼、追悼の意が寄せられている」など国葬を決めた理由を改めて列挙。「引き続きしっかりと説明する」と述べた。 / 木原誠二官房副長官も19日のBS番組で「国民に必ず喪に服してくださいと強制するものではない。安倍元首相に対する政治的評価を押しつけるものでも当然ない」と説明した。【村尾哲】(毎日新聞・2022/07/20)

 当日は「学校を休日にはしない」「弔意を強いることはない」などといっておきながら、やがて当日近くになると闇雲に、「弔意を示せ」「半旗を掲げろ」と、きっと(通達が)来るはず。これにはたくさんの前科・前例があるのです。ぼく自身も経験しています、その経験談はくだらないから言いませんが、きっと「こうせよ」「ああするな」と言ってくる。それが「日本の政治」だといっておきます。コロナ感染拡大の「第七波」が来ていますが、政府からは、「今のところ、行動制限は課さない」「緊急事態宣言は出さない」といい続けています。つまりは、だから間もなく「行動制限」「自粛要請」「宣言」が来る・出るということでしょう。小出しというか、様子見というか、「咄嗟の判断」ができないんですね。そうこうしているうちに「政治は風見鶏」に堕してしまうんです。「見識」もなければ「良識」もない。内閣や政府には五万と「有識者会議」があるのにね。こんな面々が「政治を司る」のがこの劣島。「風見鶏」「日和見主義」の全盛時代です。本音だか建前だか知らないが、何時だって、どう転んでも非難や批判の雨霰(あめあられ)を受けないように、塩梅して「本音と建前」を入れ込んでいる。美しくないどころか、醜悪だと思う。

 故人の「政治利用」といえば、角が立つから言わない。しかし、この機会を最大限に「自己主張」の好機にするという点に関しては、政治家の面々は、実に「果断」というべきか、何とも厚顔至極の芸当です。自己主張、自己拡大、自己宣伝・自己保存と、とかく「自己」確保には抜かりがないのが「三代目的政治家」の「お家芸」ではないですか。政治が三代目的なら、報道は「何代目」か。似たようなものというより、ぼくに言わせれば、親子・兄弟・姉妹(同族)のように、「切磋琢磨」ならぬ「切歯扼腕」ならぬ、「偕老同穴」「同病相哀れみ」で誼(よしみ)を通じてきたのです。まさしく「共存共栄」というやつですね。なかなか「隙間風」は吹かないな。

 「国葬に対して多様な声があるのは健全なことだろう。政府は国葬とすることの意義などを丁寧に説明するというけれど、懸念に耳を貸さないような口ぶりはどうしたことか。現政権の看板は『聞く力』であったはずだが」と、ここでもコラム氏は「異なことを」仰っている。「聞く力」が「看板」の現政権だから、「聞く力」を発揮してくださいと言っいてるようにも取れる。「看板」というのは「看板倒れ」を言うのであり、「看板に偽りあり」を指すと、コラム氏は知っていて、知らないふりをするんですか。だれだったか「国民のだれ一人も取り残さない政治」といって、選挙に圧勝しました。この「口から出まかせ看板」を「真に受けた」から投票したのですか、選挙民は。何が何でも与党に入れるという人が多数を占めているのが、国情であり、国勢なのではないか、そんなことは分かりきっているのに、新聞記者は「建前」しか言わない・書かないんですな。その建前には、薬味のように「本音」も入っているという構造です。これが新聞記者や報道記者の必要条件。けっして「権力批判」はしないのが掟、これも「本音と建て前」です。

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● 記者クラブ(きしゃクラブ)=公的機関などの継続的な取材を目的とした新聞記者や放送記者らによって構成される組織。1890年の帝国議会開催において,記者たちが傍聴取材を要求して結成した「議会立ち入り記者団」(のちの同盟記者倶楽部)が始まりとされる。取材記者たちの親睦組織であると同時に取材機関そのもので,スポーツ,芸能などを除く取材網のほとんどは,各省庁,国会,政党,警察,裁判所などに設置された記者クラブである。このため,ニュース源がこれら諸機関によりがちで,結果として為政者の情報提供による広報活動に協力することになりやすい。また,取材競争の行き過ぎを防ぐため,記者クラブとして報道協定を結び,かえって取材活動を制限してしまうこともあり,その協定違反を理由に一部の社の記者を除名して取材活動を妨げるなどの弊害もみられる。さらに,外国人記者やフリーランサーなど記者クラブに所属しない者の取材を困難にしているので,その閉鎖性への批判も強い。在日の外国人による記者クラブは別にあり,共同記者会見および親睦を行なう。このほか,外国要人の共同記者会見を主催するなど,報道機関が共有できる拠点を設けるため,1969年,日本新聞協会日本放送協会 NHK,日本民間放送連盟の各会長が発起人となり,新聞,放送,通信各社に呼びかけて日本記者クラブが結成されている。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 あまりにもこの問題にこだわっていると思われるのも、好い気がしません。しかし、いうべきことは何度でもいう必要があるという意味で、改めて「国葬云々」ではなく、政府の「物事の決め方」(閣議決定)を問題にしておく必要があると判断しました。特定の総理経験者の葬儀を「国葬」にすると決めた、その決め方というか、取り上げ方が、決して「故人を哀悼する儀式」にふさわしいものではないといいたいのです。さらにえば、この「決め方」にかかわる一連の手続きに、あまりにも「あいまいで、事なかれ主義」の政治姿勢や価値判断が明らかだということ、それがこれまでの、この社会の政治不信の増幅に多大な「貢献」をしてきたことを、この際だから、はっきりと断定しておきたいのです。(左は閣議という名の「サイン会」風景のよう)

 ぼくは元総理の告別式を「国葬」形式で実施することに反対はしない、理屈が通っているなら。いかなる人の「葬儀」も、やる側の裁量で行われてしかるべき、それで何の文句もないのです。故人が何かを注文するはずもない。しかし「国葬」という、どこにその「形式や内容」があるのか、すでに反故になっている証文(前例)を取り出し、さあ「哀悼の誠を示せ」といわれて、わかりましたという「国民」は、この社会だから、それなりの数に上るでしょう。その人々だけで盛大に、それに異を唱える人の目に入らないところでやってほしいね。しかし、「凶弾に斃れた元総理の死」を、姑息にも自己の政治的勢力拡張や、政治信条の強化のために利用しているという雰囲気が濃厚なのはどうしたことかと、ぼくは大いに疑問を持つ、いや深い不信の念を堪(こら)えきれないのです。

 明らかにしておきます。ぼく個人は「葬式」も「墓」も無用であると考えている人間です。家族にも言ってあります。葬式は「故人」を使って、世間に対する遺族の悲しみや供養、あるいは生前の厚誼に対するお礼・儀礼であり、墓もその要素をたぶんに含んでいる。ぼくがもっとも好まないのは、お寺(宗教を名乗っている)が「葬式」「墓」を取り仕切ることです。それを言うと長くなりますが、「故人」を真ん中にして、遺族と宗教が「呉越同舟」という、一種の儀式。「死者を弔う」という場にふさわしくないとぼくは考えるからです。他人がどうしようと、ぼくは四の五の言わないつもりです。

 「(最長不倒)元総理の葬儀」です。いろいろと意見や異論がでるのは当然だし、それでこその「国葬」問題ではないか。だが、どういうつもりか「政治的評価を強制の指摘は当たらない」という松野さん。当たるか当たらないか、それをあなたが決めるのか。「政治的評価」を下したから、「国民に評価を強制」したいから「国葬」にこだっているのではないのですか。元総理の政治的業績が、「前例無比」かつ「顕著稀有」だから、「国葬」にするのであり、「国葬」なのだから、「国民はこぞって弔意を」「各家庭では半旗を掲げよ」「学校や企業は、当然休校・休業」ということを、どうして断言し、かつ指示しないのか。国の内外からも「哀悼・追悼の意が寄せられている」のは国益に資するのであり、だから「国葬」というのも、一理はあるかもしれませんが、いずれにしても、これこれこういう理由で、政治的業績が「顕著」「赫々たる外交的成果を上げた」「日本国を最大限に動かした」が故に、「国葬」に相応しい、だから「国葬」にする、この「政府の決定に文句があるか、ないだろ」と言えばいいじゃないか。探りを入れ、小出しにし、気が付いたら、体全体が出ていたというのは、いかにもみっともないよ。これもまた、「政治手腕」「政治家の力量」なんですか。

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 (蛇足)本日(七月二十三日)は「大暑」という。陰暦6月の節。夏至(げし)から約1か月後。ここから八月八日の「立秋」までの期間が、最も暑い季節とされたが、今は地球が狂い、人間の脳細胞もいかれていますから、暑いのか寒いのか、よく判断が付きかねる。さらに「土用の丑」が重なります。今年は八月四日にも「土用の丑」があります。・・・「土用」とは、「土旺用事」(どおうようじ=土が旺盛で支配する)から転じた言葉で、立春・立夏・立秋・立冬の前の各18日間のこと。古くから「土用」には、胃腸に良いものを食べるべきとされてきましたが、特に夏の土用の日は、「う」の付く食材を食べると夏バテしないと言われています・・・(weathernews:https://weathernews.jp/s/topics/202207/220065/)

 ものみな値上げの季節は天災ならぬ、人災の最たるもの。政治不在を嘆き、政治家払底を悲しむ、秋の入り。もう「秋はそこまで」というより、世間のいたるところに「秋風が立つ」と言わなければなるまい。

 「秋風」とは男女間だけではなく、相思相愛の二人の間の隙間風、つまりは杉良太郎です。「いいさそれでも生きてさえいれば」「いつかやさしさにめぐりあえる」というけど、それって本当ですか。作詞のいではくさんは「北国の春」も書かれています。「秋風」という「すきま風」は吹かないに越したことはないけれど、そうはいかないから、人は苦しみ嘆くんでしょうね。これを「風情(ふぜい)」というのです。「いいさそれでも生きてさえいれば」、きっといいことなんかあるはずもないと、ぼくは知っている。芭蕉と一茶の二句を。「秋風」が染み入りますね。

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塚も動けわが泣く声は秋の風 ・見送りのうしろやさびし秋の風  (松尾芭蕉)

墨染の蝶もとぶ也秋の風  ・秋の風親なきに我を吹そぶり (一茶)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。