<金口木舌>不寛容な体質 自民党国会議員による神道政治連盟の懇談会で配布された冊子にはこう記されていた。「同性愛は後天的な精神の障害、または依存症」。科学的根拠はない。議員がこうした言説に異を唱えない態度にぞっとさせられる▼参議院議員選挙という最も神経を使う局面だ。個性に不寛容な体質の一端が与野党問わず露見したのも今選挙の特徴か。失言、暴言もあった▼NHK党の党首は少子化に関し「質の悪い子どもを増やしては駄目だ」。国力低下を防ぐには優秀な納税者が必要と。納税を基準に人の選別とは驚く▼元五輪相も少子化に絡めて未婚女性へのあてこすりか。「女性も、もっともっと男の人に寛大になっていただけたら」。少子化の原因があたかも女性との物言い。浅はかさにも程がある▼極めつけは山際大志郎経済再生担当相だ。「野党の人から来る話は、われわれ政府は何一つ聞かない」。少数意見を尊重し、歩調を合わせようと努めて議論を重ね、成り立ってきた戦後民主主義ではないか。それを「聞かない」とは。言論の府が聞いてあきれる。(琉球新報・2022/07/21)
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世上、何かと物議をかもす(目立ちたがる)のが政治家の仕事(性情)かもしれません。あるいは「失言」、あるいは「虚言」、あるいは「食言」と取り上げていけば、際限がないでしょう。しかし際限のない事柄を何時でも取り上げていかなければ、相手の「思う壺」だ。今はそんな時期にとっくに至っていると痛感するのです。何を言っても平気の平左。 議員の首さえ切られなければ、後は野となれ山となれ。この「軽佻浮薄の政治家」と誼(よしみ)を通じて長年の腐れ縁、官僚にも「嘘から出た真」よろしく、「言語道断」を言い放つ輩が、新規採用で引きも切らない盛況が続いていました。ところが、官吏養成機関の首領を自認してきた一旧帝大も、ご多分に漏れず劣化・損傷が甚だしく、霞が関に直進しない、あるいは中途退却の徒が後を絶たない状況が続いているといいます。暗い時代の陰翳ではないでしょうか。身分さえ確保されれば、「あとは野となれ山となれ」という手合いの天国だった感があった、往時の天下も、時代とともに変転せざるを得なくなったのです。しかるに、こんな政治や行政の風土(間違いなしの荒れ野)の上に「デモクラシー」の実がなりますか、花が咲きますか。というのが、主題になるべきであり、そうなってからは幾久しいのです。

ぼくが新聞などの記事を(主として、ネット上で)読んでいて、これは「あかん」「終わってる」という諦念を持たされるのは、報道する側の「民主主義」観のお粗末さ加減です。かくいう小生だって、似たようなものです。琉球新報を槍玉に挙げるようで気が引けますが、民主主義をどう考えているか、各報道に通底する「常識」が垣間見える(いや、どっしりと腰を下ろしている)ので、その一例として引用するばかりです。「他意はない」といいたいのですが、実は大いにあるんですね。「少数意見を尊重し、歩調を合わせようと努めて議論を重ね、成り立ってきた戦後民主主義ではないか」といわれる。その通り、と大いに首肯すべきところでしょうけれど、どっこい、そんなもんじゃない。この「通念」は、それこそ「戦後教育」が植え付けてきた教条的「戦後民主主義観」ではないですか。
民主主義には「戦前」も「戦後」もないと知るべきです。いつだって、どこにでも探せば「デモクラシー(民主主義)」は存在していたし、存在しているのです。江戸時代にだって、室町や鎌倉時代にも。もっと言えば、縄文の社会にも「民主主義」があったといえるかもしれません。「非常時にだって」あった。あるところにはきっとある、まるで「理性」のようですね。人間集団ばかりでなく、おサルの集団(社会)にもその痕跡が歴然と認められます。こんなことを言えば、笑止千万と一笑に付されるか、君の感覚は狂っていると排除されそうな雰囲気があります。この駄文録に、繰り返し書いてきましたので、ここで再論するのは面倒ですから止めておきますが、どこにも「デモクラシー」はあったし、ある。もちろん、その時「デモクラシーとは何か」が明らかでなければ、話になりません。

「個性に不寛容な体質の一端」と「コラム氏」は言われますが、女性や子ども、老人や社会的弱者とされる人々に対し、、政治家を名乗る有象無象が寄ってたかって「差別の対象」にしている。「社会的少数者」に向けるまなざしの意地悪さ加減そのものが、デモクラシーを阻害し、それを否定することになっているのです。「NHK党の党首」「元五輪相」「経済再生担当相」と数え上げていけば、社会的な地位についていると自認(誤認)している人間たちの、大なり小なりが「民主主義」否定派に立っているともいえるし、そもそもその感覚(人権尊重)や感受性(相手に対する敬意)が、その人たちには存在していないのかもしれません。政治の不毛は、政治家の腐熟・不熟に由来していると、ぼくは断言しますな。
「少数意見尊重」は民主主義の肝ですが、それを頭から否定する連中が政治的指導者に連なっているというのが、この島社会の積年の伝統、悪しき政治家的伝統です。その悪しき伝統に、実にていねいに厚誼を深めてきたのが報道関係者の大半ではなかったか。だから、何時まで経っても、時代おくれの、固定した「デモクラシー」原理を梃子(てこ)でも動かさないで、御託を並べる始末、これはれっきとした醜態です。「少数意見尊重」は「戦後民主主義」の専売ではなかった、その実例はいくらでも、往時の「農山漁村」の日常生活に発見できます。多数の横暴がまかり通って行くのが歴史なら、この社会、国はとっくに滅んでいたでしょう。「権力の交代・転換・すげ替え」が行われること自体、民主主義の一面の、または健全な表現ではないか、ぼくはそう見ている。(これに関する議論は山ほどありますが、面倒は避けるに越したことはない)

ここで明らかに明示できるのは、何業に限らず、二代目三代目は「初心を持たない。忘れている」から、なりふり構わず、己の権威や権力の片々を振りかざす嫌いがあるということ。この社会の「政治商売」は、新規参入がはかどらず、まさしく「殿様稼業」「承継家業」になってしまったのです。「家業相続」はすべからくいけないとは言うまい。しかし「売(う)り家(いえ)と唐様(からよう)で書(か)く三代目(さんだいめ)」、これが過半を占めると、家業は傾き、それに身を任せていた業界(政治)も傾くどころか、倒産(国の破綻)の憂き目にあう。その謂わんとするところは「初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの」(デジタル大辞泉)ここにいう「唐様」とは「 中国風の書体。特に、江戸時代の学者間で流行した、元・明 (みん) 風の書体」(同上)をさす。

「同性愛は後天的な精神の障害、または依存症」と書くのは「三代目」ではないでしょうが、これまた永田町に棲息している「奇人の類」でしょう。やたらに「少数派攻撃」を旨とすることに生きがいを感じているのかもしれない。しかし、このような連中にもタイマイの税金が「報酬」として配布されていることを考えれば、「民主主義」も罪なことをするともいえます。「民主主義」の眼目が「表現の自由」であると、ぼくも認めるもので、だからこそ、「現実の政治を否定する政治論」であっても表現の自由は妨げられないのです。「精神の障害」「依存症」という表現を使う自由は認めたうえで、しかし、その言葉(表現)で何を指すのかが問わなければならぬし、誰かれの「存在の否定」を意図するものであれば、それは「民主主義=表現の自由」の「履き違え」というほかないし、「履き違え」は修正なり訂正なりをしなければ、やがてその「表現の自由」そのものが「否定される」ことになるのは避けられないのです。「ヘイトスピーチ」なるものを横に置くとよくわかります。自制を失い、好き放題に振る舞えば、人種差別は実害を及ぼすことになります。世に「それは間違いですよ」と窘(たしな)める大人(他人)がいなくなったし、それに代わる子どもも、もちろん、まだ存在しない。つまりは、あらゆる場にあった「教育機能」が霧消してしまったのです。社会で失われた最大のものでしたね。デカい声、汚い言葉が、社会の主流になる、その前夜にぼくたちは眠りにつこうとしているのです。寝ている場合か。

国会自体が「言論を粗末にし、言論を封じる」のがその任であるということなら「言論の府」が聞いてあきれるとなるのですが、すでに、国会が「議論の場」でもなければ「言論の府」でもなくなって久しいのです。ぼくなんざ、もう何十年も「聞いてあきれる」で、歳をとってしまいました。「言論の府」の堕落や凋落を見殺しにしてきたのは、もちろん国民(主権者)ですが、その隊列に伍していた報道機関もまた「言論の舞台(第四の権力)」であるとするなら、自らの職務(権力批判)を放棄していたとして、「言論軽視」からはじまり、やがては「言論抹殺」に至る道筋の守護神として、その一翼を担っていたとも言えませんかな。いったい、どうしたら「立ち直れる」のかなあ。「日暮れて、道遠し」、そんな呑気な態度で事足りるんですか?自分の足元にこそ、民主主義の核心を穿(うが)ち、それを大事にしたいな。
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