言葉の潰滅、潰滅の言葉。そこから何が生まれる?

 【雷鳴抄】「誤解」と「謝罪」 誤解を与えたのであれば申し訳ない-。政治家らが問題発言の幕引きを図る場合、この言葉が定番となってしまった。公人がこうした“謝罪とは言えない謝罪”を繰り返していては、社会全体の倫理観の欠如につながるのではないか▼最近では、日銀の黒田東彦(くろだはるひこ)総裁と、山際大志郎(やまぎわだいしろう)経済再生担当相の発言が記憶に新しい▼黒田氏は「家計の値上げ許容」発言、山際氏は参院選の街頭演説での「野党の話は、政府は何一つ聞かない」発言である。両氏とも批判が高まると「誤解を招く表現だった」などと釈明した▼黒田氏の場合は「申し訳ない」と陳謝しているものの、両氏の弁明に共通するのは誤解の余地がない発言であるにもかかわらず、自分に全ての責任はなく、誤解した方も悪いとの言いっぷりだ▼こうした現象は日本に限った話ではない。英語にも「non-apology apology」(謝罪なき謝罪)や「fake apology」(うわべだけのおわび)などの言葉がある。「誤解を与えたなら」と同様、「もし、あなたがそう受け取ったのなら」など条件付きのおわびを指す▼謝罪は弱者がするもの。強者は謝らない。「謝罪なき謝罪」横行の背景には、こんな考え方も見え隠れする。誠実さを失った為政者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい。(下野新聞・2022/07/21)

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 下野新聞の「下野(しもつけ)」は、今日では大半が栃木県に、ごく一部が群馬県に残る「旧国名」です。これまでに何度か訪れたし、好い悪い取り混ぜた「記憶」「思い出」がたくさんある土地です。下野(しもつけ)は、またの名を「野州」ともいい、いかにも山や森林の多かったことが想像されます。今はどうなりましたか。明治の「元勲」山縣有朋は、この野州あたりに膨大な土地を占有しており、今もなお「末裔」に当たる人が住んでおられるといいます。この島国は国土の七割が山林で、一歩も里に足を下ろさないで、本島の北から南に行けるとまで言われた「山の国」でもありました。いまでも、山林王は世の中に何人かおられますが、山縣もその一人というべきでしょうね。彼の所有していたもので、後年に名が知れたのが、東京目白の「椿山荘」、立派なホテルが営業を続けている。もちろん、こんな話を展開しようというのではなく、「下野(しもつけ)」に少し触れてみたかったので、つい脇道にそれた次第。ちなみに、この「雷鳴抄」も数あるコラムの中では、ぼくの好む(贔屓する)もので、何かしら、知り合いの「お兄さん」が書いているという気分になることがあります。

 ぼくは半世紀も車を運転してきました。これまでに事故を起こしたことがないのが自慢ではありませんが、悔やまれる一件、この野州「矢板」のパーキングエリアで、20トントラックに接触され、車体を大きくへこまされたことでした。もう四十年も前になるでしょうか。まだ関越道路ができていない時代、国道17号線を新潟まで行く途中の出来事。もちろん、トラックの運転手の不注意でしたが、ぼくも、どういうことがあるかわからない、そのことに気が回らなかったという意味では「不注意」だったし、いい経験になりました。相手は職業運転手、「事故になる」と困ると懇願され、気を許したのですが、修理代(当時でも二十万くらいかかりました)のほとんどを踏み倒された、後味の悪い出来事、それが野州でのことでした。

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●しもつけ【下野】=東山道八か国の一つ。四世紀の頃に毛野(けの)国が二分されて下毛野(しもつけの)国が成立。大化改新のときに下野国と表記が改められた。平安後期に藤原秀郷(ひでさと)が土着し、子孫小山氏を称した。中世、小山氏とともに宇都宮那須両氏勢力をふるい、江戸時代には小藩分立。明治四年(一八七一)の廃藩置県後に栃木、宇都宮の二県が置かれ、同九年統合されて現在の栃木県となる。野州(やしゅう)。(精選版日本国語大辞典)(右地図は「関八州」)

 「ケノクニ」が二分されて、今の栃木と群馬にまで至るというのが「旧国名」の経歴です。こんな名称がつけられて以来、すでに千数百年になろうというのですから、長い(古い)というのか、短い(新しい)というのか。ぼくたちが足場にしている土地には、さまざまな歴史や文化がしみ込んでいるのであり、その歴史や文化を「受け継ぎ・守り・受け渡し」てきた「無数の民」がいたことを実感します。なにかというと、「この国は、歴史と文化と伝統の…」と言いたがる人がいますが、どれだけ自らの生活や環境において、それを実感しているか怪しいものです。そのように「いうだけの人(口先人間)」がいる、それこそが「口説の徒」の島の、「なれの果て」ではないですか。

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 「しもつけ」といえば、同名の植物があります。ぼくの好きな植物で、今も、少しばかり荒れ庭に育っています。いくつかの異名を持つ植物で、何とも言えない「花」を咲かせてくれます。「後の日に知る繍線菊の名もやさし」( 山口誓子)「しもつけ草東照宮のつくばひに」( 西本一都)「繍線菊の咲けばほのかに兄恋し」(黒田杏子)三者三様の詠みぶりではないでしょうか。いずれもが、静かなうちに、心に染み入るような雰囲気に囲まれていそうです。その名は、生育の地「下野」からつけられたとか。少しばかり怪しいというか、できすぎていますね。もう少し、自分で調べてみよう。(註 二句目の「しもつけ草」は、シモツケとは別種の植物です。紛らわしいですね)

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● しもつけ【下野】=〘名〙 バラ科の落葉低木。各地の山地に生え、観賞用に庭などに植えられる。高さ約一メートル。葉は互生し、短柄があり、葉形に変異が多いが、ふつう長さ五~八センチメートルの広卵形で両端はとがり縁に鋸歯(きょし)があり、裏面は粉白色。初夏、枝先に径七センチメートル内外のほぼ平たい花序を出して、径約五ミリメートルの淡紅色の五弁花を多数つける。漢名、繍線菊。きしもつけ。《季・夏》(同上)

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 「口説の徒」という表現があります。あまり褒められた言い方ではなさそうで、元来が「口説」という語はそういう一面を持っていたのです。「言葉。弁舌。また、口先だけのもの言い。おしゃべり。多弁」「言い争い。文句。特に江戸時代、男女間の痴話げんか」(デジタル大辞泉)ここでは「口先だけのもの言い」というのが当たっているんでしょうね。つまりは「誠意のないもの言い」のことであり、そんなことしか言わない人間の「不誠実」が言の葉になってまき散らされている、そんな世上、世相を痛感しています。右の写真は国会における不誠実の見本のような「答弁」ー 「募る」と「募集する」は違うと強弁、というよりは相手を舐め切った、答弁にならない暴言を「強弁」し、「屁理屈」をこねる「元総理」。実に正視に堪えませんでした。疚しさを抱えて、要職に就くと、どうしても尊大で高慢で横柄な態度を貫かざるを得なくなる、不誠実の見本、口説の徒のお手本のような人物だった、とぼくは深い疑いを持っていました。この手の人間が一国の「宰相」に登れるんだから、この島も民主化された、いやされすぎましたね。最近、非業の死を遂げられました。この「死」に対しては、迷わずに新人の哀悼の気持ちを、なんどでも表明しておきます。

 「誤解」と「謝罪」それぞれには、元は由緒正しい「言葉使い」があったはずですが(今だって、あるところにはある)、今日、これがもう出鱈目の限りを尽くしています。「言葉は(乱暴な)道具」と言わぬばかりに、言葉という刃物を振り回し、いたるところに「刃傷沙汰」が絶えないのです。「何とかに刃物」ということなんでしょうか。「言葉使い」の良しあしを言う、それは「刃物使い」と同様、細心の注意を要するものだと、ぼくなどは考えているのですが、今ではそんな「注意」などどこ吹く風で、当たるを幸いに、好き放題の「放言」「虚言」「讒言」の乱れ打ち、それがもっとも「醜悪さ」「軽薄さ」において顕著なのは「政治の世界」です。「シモツケ」の佇まいを頭に浮かべながら、こんな埒もないやくざな駄文を綴ろうというのですから、ぼくも酔狂だと、はっきりと感づいてはいるのです。

 昨日も触れました。「誤解を与えたのであれば申し訳ない」という捨て台詞・科白(せりふ)です。言うに事欠いて、言葉だけの問題にしておけば、首を奪われないとタカをくくっている節がありありです。(今では窃盗や強盗でも首が飛ばないと、永田町相場ができているんだろうね)実に嘆かわしい状況になったものと、ぼくは寒心に堪えぬ。とにかく、どんなことを言ってもいい、嘘八百大いに結構、追及の手をかわせばいいんだ、だから「煙にまけ」と。ぬらりくらり、知らぬ存ぜぬ、誤解を与えたなら、申し訳ないと、心にもないことを言い募るんだ、それが「金科玉条」になったのが政治の世界であり、永田町の家訓だか、憲法だか。嘘と詭弁が政治力、それが政治家の器量だと、人民も甘く見られたものですが、それも仕方がないほど、人民自身も「口説の徒」の取り巻き連なんだ、「同病相哀れむ」、あるいは「類は友を呼ぶ」、「割れ鍋(政治家)に綴じ蓋(国民)」なんだからな。

 「誤解を与えたのであれば申し訳ない-。政治家らが問題発言の幕引きを図る場合、この言葉が定番となってしまった。公人がこうした“謝罪とは言えない謝罪”を繰り返していては、社会全体の倫理観の欠如につながるのではないか」とコラム氏は、まるで「寝言」を、目覚めていながら言っています、しかも真顔で。とっくの昔に「倫理観の欠如」が生じているのだ。この「気味の悪い風潮」を作ったのは、あるいはそれが顕著になったのは「凶弾に斃れた元総理」の内閣時代でした。閣僚が「失言」「放言」「食言」のたびに辞めていたのでは内閣がいくつあっても持たないから、とにかく「辞任・辞職」はどんなことが起ろうとしないという「閣議決定」が行われたか、とにかく、言葉で胡麻化す、記者諸君も仲間・身内だから、適当にしゃべっていれば、時間切れ、追及の矢は打ち止めになる、まあ、そういう始末に至ったのです。以来、無能・不適切・不適任大臣(その任にある人材はとっくに払底していた、だから、例の御仁が総理にまでなったという嫌いさえある)の花盛り、言葉が道具にさえなっていないのですから、政治家は「読み書き」をやり直すべきだろうといいたくもなる。漢字が読めない、原稿が読めない、他人の気持ちが読めない、世界の動きが読めない、これすべて「KY」というべきか。(*食言=「《一度口から出した言葉を、また口に入れてしまう意》前に言ったことと違うことを言ったりしたりすること。約束を破ること」(デジタル大辞泉)

 誰だって、それを聞けば、「誤解」(それが、じつは「正解」なんだが)しかできない発言(「発言者が言うような「正解」は、だれもしようのない発言)をしておいて「誤解を与えたのなら申し訳ない」という、この醜悪さ、それがいたるところに蔓延し、瀰漫し、いたずらに方々で「接触感染」「空気感染」さえ発生している時代です。もう見るに堪えず聞くに堪えないにもかかわらず、それを「報道」と称して「垂れ流している」のがマスコミです。「謝罪なき謝罪」や「うわべだけのおわび」という、軽忽・軽薄・軽佻・軽骨・浮薄・浅短・無思慮・無分別…、どこまで行っても止まりそうにないくらいに、この手の「悪戯」を非難する言葉選びには事欠かない、そ肝は、いかにも「口説の徒」が引きも切らないほどに、烏合の衆の如くということでしょう。(前総理が官房長官時代、原稿棒読みで「内容に関して無知」だったにもかかわらず、質問されると、一言のもとに「答えるに値しない」「あなたには応える必要がない」とか何とか、嘘、誤魔化し、恫喝まがい、をいかにも「堂々と」やらかし、顰蹙を買うどころか、あろうことか、首班にまで指名された。ぼくに言わせれば、盗人と猛々しいとは、このことを指す。何が書かれているか、内容や問題にまったく興味がない人間が、官僚筆になる原稿読んでいる、それで官房長官が務まるんですよ。バカ臭いね!)

 「誠実さを失った為政者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい」と、再びコラム氏は「寝言」を言うが、入り口と出口がとが間違っていますね。「雷鳴」の名にそぐわない、ゆるキャラなのかしら。為政者の出鱈目さが社会に悪影響を与えるのではありません。社会のかなりの部分が、「腐敗」「堕落」しているから、政治家になる前に、人間が腐ってしまうのではないですか。腐ってしまった人間が政治家になるのです。政治家になって「不誠実」になるのではない、はなから「不誠実」だから、それは何になっても「不誠実」ということを、政治家になっても証明しているだけなんだ。「政治家は社会の鏡になるべき」と、なんという恐ろしい「冗談」を真面目に言われるんですか、「雷鳴抄」のコラム氏さん。「社会(世間・選挙民)が政治家を生む」のであって、その反対ではない。「誠実な政治家」というのは二律背反か、矛盾・撞着か。さては、「誤解を与えたのなら、申し訳ありません」と、貴殿(コラム氏)も言われるか。「誠実さを失った報道者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい」というのは、拙者です。

(蛇足です 「シモツケの花言葉」は「無駄・無益・整然とした愛・儚さ・努力・自由・気まま」と、まことに融通無碍です。いったい誰がつけるのか、どうも「口説の徒」のような気がします。ほとんど、花の印象からは、そのような「花言葉」は、ぼくには浮かびませんな。花に言葉を託すのもいいけれど、人間が使う「言の葉」が汚れ、傷ついていますから、花も薄汚く、枯渇しそうになってしまう気がします)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。