政治判断の齎す「被害」は卑小軽微ではない

 どこに腰を据えているか 「国葬については、元総理のご冥福を祈りつつ、静かに見守りたい」(7月14日)と容認表明も束の間、「首相が政治的に急ぎ過ぎた…。政府は追悼の在り方を熟考すべきだ」(翌日)と、「反対(偽装)」に転じた、ある政党代表。これを「咄嗟の判断」の悪しき典型と言う。拙速に賛意、稚拙に否認。後続する味方がいないという「醜態」に気づいたか。「国葬」に賛否あって当然だが、一党代表、己が無思慮をどう弁解するか。この「偽装転向」は「本音の吐露」とぼくは断ずる。「気分は与党」に。「咄嗟の判断」を支える「思想(姿勢・態度)」があるし、あってほしい。代表にはそれがなかった。彼の心中に、いつも「公私のアマルガム」が厳存している。かくも自分すら偽る議員の「政治判断」とは何か。背信行為を自覚せぬ政治家輩。変心の理由は? 政治家、いや人たる「誠意」に欠けていないか。この批判の要諦は「現総理」にも妥当する。(「愚見しかいわない」第二回)(2022/07/20)

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立憲民主党の泉健太代表

 立民泉代表、国葬に「冥福祈り静かに見守りたい」立憲民主党の泉健太代表は14日、安倍晋三元首相の葬儀を国葬として行うと岸田文雄首相が発表したことについて「国葬については、その性質から厳粛に行うものであり、元総理のご冥福を祈りつつ、静かに見守りたい」との談話を発表した。/ 談話では「改めて安倍元総理に深く哀悼の誠を捧げるとともに、この凶行を強く非難し、我が国の民主主義と社会の安全を守ることをお約束する」とした。(産経新聞・2022/7/14 19:24)

 立民泉氏「国葬」容認から一転反対へ 立憲民主党の泉健太代表が、安倍晋三元首相の葬儀を「国葬」として行うことに一転して慎重姿勢を示した。岸田文雄首相が国葬の実施を発表した14日には、事実上容認する内容の談話を発表したが、16日になって「慎重に議論すべきだった」と態度を一変させた。この間のいきさつは、立民が抱える課題を改めて浮き彫りにしている。(以下略)(産経新聞「政界徒然草」・2022/7/19 01:00)

 小なりと雖(いえど)も、政党代表の判断の迷いは、時には取り返せない「災厄」「被害」を齎(もたら)します。小学生が、教師の質問に答え損なったのとは、やはり違うでしょうね。見通しの立った「判断」というのはなかなかむずかしいと、思うべし。「こう言ったつもりなのですが、誤解を与えたとした、ら申し訳ない」と、「誤解した側」が非難されるのが、当今の、実にいやったらしい風潮だ。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)