「親ガチャ」の時代に のちに民俗学の第一人者となる宮本常一は15歳で周防大島を旅立つ時、父から10カ条の心得を教わる。中に、こんなものがある。<これからさきは(略)親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ>▲<子孝行>な親を当てにできぬ子どもはどう読み取るだろう。本人の能力より、親が教育投資を惜しまぬかどうかで学歴が決まる―。そんな世の傾向を「ペアレントクラシー」と呼ぶ学者もいる。つまり「親ガチャ」▲元首相銃撃事件から10日を数え、容疑者の生い立ちが明るみに出てきた。両親とも高学歴の家庭に生まれたものの父を早くに失い、家庭崩壊…。暗転の人生に「自分だったら」と思いを巡らせた人もいるのでは▲人の命を奪った身勝手な蛮行には、どんな人生遍歴も動機もしょせん、こじつけに過ぎない。ただ事件の根っこが、日本社会に巣くう問題と絡み付いていないか。41歳の容疑者は就職氷河期世代であり、自己責任論にさらされる時代を過ごしてきた▲例の10カ条は<自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来(こ)い、親はいつでも待っている>とも諭す。親以外にも、そんな言葉をかけてやれる師や友達が要る。(中國新聞デジタル・2022/07/19)

今でも時々耳にする言葉に「生まれて(きて)くれてありがとう」というのがあります。ぼくは好きではないというか、それを口に出してまで言うのか、そんな思いがいつでもあります。産(生)んだのは自分たち(つまりは「親」とされる者)であることは事実であり、それをどうこう言っても始まらないから、産みたかった「二人」には、おそらく心底待望していた子どもだから、「生まれてくれてありがとう」となるのかもしれませんが、どうして、外に向かってそれを言うのか。しかも、生まれてきた子どもの立場から言えば、どうなるか。なかには「生んでくれてありがとう」という、珍奇な人(子ども)もいるでしょうが、ぼく自身は、誰かに聞こえるようには、まず言いたくない。きっと「このような顔立ちの、こんな気立ての女の子」という、ひそかな願望が、親にはあっても、その通りになるとは限らない、否、まずないでしょう。だからか、「こんな子を産んだつもりはない」と、とんでもない不満を子どもに対してぶつける親さえいるのです。
「親ガチャ」という語もいけ好かないものですが、ある人にとっては、そうとでもいうほかない、苛立たしさや悔しさがあるのでしょう。「親を選べない」と同様に、「子どもは選べない」と、どうして思い至らないのかしら。人間の意向でなんとかなる(人工出産時代)といっても、現実には「選べない」ことに変わりはないのです。生む、生まれるということは当たり前ですが、何十年の人生を含んだ(トータルの)「人生・人間」を親は、さらに、子どもは選べない。自分で生きることで、ようやくにして、それを求めるのですから。「生(産)んでくれと誰が頼んだか」と、言ったことも、頭の隅をかすめたこともない人は、それだけ素晴らしい人生だったともいえますし、そんなことを言っても始まらない、「それこそが人生じゃないか」と耐えている人もいるのでしょう。生きることは容易ではありませんが、それをどれだけ自覚しているか、ぼくには大いに疑問が沸くところです。どこまで行っても自分一個の人生(もちろん、多くの人の支えがあることは承知している)、その一回限りの人生に、高い、または低い希望を持つのもいいでしょうが、まあせいぜいが、地上五ミリ、言ってみれば地上すれすれの人生行路がいいところです、それが一ミリ高いとか、一ミリ低いとかで「一喜一憂」するのも、いかにも人間らしいな。どんな人間も、要するに「五十歩百歩」なんだと、ぼくは感じてきました、どんなに違いや格差があったとしても、一ミリや二ミリの差でしかない、と。

ぼくは、もちろん「親ガチャ」とは思わなかったし、「頼んだ覚えがない」と言いたくなったこともない。それだけ「親がよかった」「いい両親でした」といいたい気も(逆説的に)しますし(子どもの面倒見がよかったからではなく、環境的に恵まれていたからでも、断じてない。まったく干渉しなかった、放っておいてくれたから、という意味です)、一面ではその反対だった。親からすれば「生まれてくれてありがとう」などと、産み落とされた赤子を眺めて、微塵も考えたことはないと、ぼくは、それは確信しているのです。生まれた瞬間から、れっきとした「個人」なんだし、他人とは別個の人格だと、もちろん、ぼくは自覚していたわけではありません。しかし、そういう生き方(まろびながら、自分の足で歩いていこうとする)が内蔵されていたように考えている。(それもこれも含めて、ぼくは気が向くままに、行き当たりばったりで、自分の人生を歩いてきたのは確かのようです。それはいかにも「いい加減な」日常生活の積み重ねでしかなかったが)もちろん、陰になり日向になりして、親や兄弟が有形無形の支えをしてくれたことは忘れないし、感謝する。でも、そんなことすら経験したこともないと、いいたくなる人(子ども)はたくさんいるでしょう。親と子の、これこそ「絆」(腐れ縁)(宿縁)の為せる業ですね。選べない「親と子」の宿命のようなものです。
本日は「天風録」と、吉野弘さんの「I was born」を、熟読するばかりです。


● かげろう〔かげろふ〕【蜉=蝣/蜻=蛉】 の解説1 《飛ぶ姿が陽炎 (かげろう) の立ちのぼるさまに似ているところからの名》カゲロウ目の昆虫の総称。体は繊細で、腹端に長い尾が2、3本ある。翅 (はね) は透明で、幅の広い三角形。夏、水辺の近くの空中を浮かぶようにして群れ飛ぶ。幼虫は川中の礫 (れき) 上や砂中に1~3年暮らす。成虫は寿命が数時間から数日と短いため、はかないもののたとえにされる。糸遊 (いとゆう) 。2 (蜻蛉)トンボの古名。《季 秋》(デジタル大辞泉)

● 吉野弘(よしのひろし)(1926―2014)=詩人。山形県酒田市生まれ。酒田市立商業を卒業、石油会社に勤める。1952年(昭和27)『詩学』に載った『I was born』で注目される。これを機に『櫂(かい)』に参加。1957年、第一詩集『消息』を刊行。以後『幻(まぼろし)・方法』(1959)、『感傷旅行』(1971)、『陽(ひ)を浴びて』(1983)、『夢焼け』(1992)などの詩集を出した。詩はやさしい文体で日常のなかの生の不条理、またそれへの愛を歌ってナイーブ。機智(きち)にも富む。エッセイ集『詩への通路』(1980)や詩画集『生命は』(1996)などの著書もある。1971年(昭和46)『感傷旅行』で読売文学賞、1990年(平成2)『自然渋滞』(1989)で詩歌文学館賞を受賞。(ニッポニカ)
昨日も少し触れましたが、「銃撃事件」の容疑者の「供述内容」というものが、警察からしか発表されないのですから、一面では当然といわれそうですが、「警察発表」をひたすら「垂れ流す」だけの「報道」というのは何だろうと、不審の念しか持たないのです。権力が、今般の事件の「構図」をどのように描こうとしているか、報道機関はそれを言わず語らず明示してくれている。新聞やテレビ(報道内容は、とうぜん、まったくいっしょです)、それは権力の筆先、あるいは絵筆のごときもの。ぼくは、こんな新聞やテレビなら、まるで「国営・官営」そのもので、今どきのロシアや北朝鮮などの「独裁国家」並みの、権力への無批判そのものの、唯々諾々、無批判、翼賛報道ではないかと、減らず口を叩きたくなるのです。

今回の事件は、ぼくには、たんなる「政治犯」による事件、あるいは「怨恨」のなせる仕業なんかではなく、なかなか厄介な代物で、それこそ「コラム」氏が書かれているように「ただ事件の根っこが、日本社会に巣くう問題と絡み付いていないか」、その「社会に巣くう問題」をこそ、ぼくたちは解き明かさなければならないのだと思う。(「個人の引き起こした問題であると同時に、個人を超えた社会にも、その原因が及んでいる問題なんだ」と、なんとも陳腐な理解です。交通事故でも窃盗事件でも、ましてやテロ事件ではないということ)(*「テロリズム=政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ」デジタル大辞泉)
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