「お金で買えない価値がある。買えるものは…」

 【筆洗】英語の「priceless(プライスレス)」は「金銭に換えがたいほど貴重な」という意味。クレジットカードのCM映像が記憶に残る▼子連れの夫婦がみやげを買って実家に向かい「父に気に入りの地酒、七千円。母にカシミヤのショール、二万円」とナレーションが語る。孫を笑顔で迎える父の映像とともに「いちばんのみやげ、プライスレス」。そして、続く。「お金で買えない価値がある。買えるものは○○カードで」▼驚くほど高額な支払い命令が出た。東日本大震災の原発事故で東京電力に損害を与えたとして、株主が旧経営陣に東電への賠償を求めた裁判で、東京地裁判決は津波対策を先送りしたなどとして四人に計十三兆円超の支払いを命じた。単純に割れば一人三兆円超▼判決確定なら、分割払いでも納付は厳しそうだ。各人が破産し全額確保できない可能性も原告側は織り込み済み。弁護士は支払い命令自体を「懲罰みたいなもの」と評した▼判決が認めた東電の損害額の過半は、避難などを強いられた住民らへの賠償。穏やかな日々という本来はプライスレスなものを毀損(きそん)したから、巨額になったのだろう▼「買えるものは○○カードで」のコピーは、金に換えられる品やサービスを扱い、そうでない価値には累を及ぼさぬ商売の道を示している気がする。そもそも原発は商いになじむのかと考えてしまう。(東京新聞・2022/07/15)

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 東京電力の旧経営陣4人に13兆円賠償命令 株主代表訴訟で東京地裁判決 津波対策を放置「著しく不合理」 東京電力福島第一原発事故を巡り、旧経営陣が津波対策を怠ったことで東電に巨額の損害が生じたとして、株主が勝俣恒久元会長(82)ら5人に会社への22兆円の損害賠償を求めた株主代表訴訟の判決で、東京地裁(朝倉佳秀裁判長)は13日、勝俣元会長ら4人に計13兆3210億円の支払いを命じた。/ 4人は勝俣氏のほか清水正孝元社長(78)、原発の安全対策の実質的な責任者だった武藤栄元副社長(72)、その上司だった武黒一郎元副社長(76)。原発事故で旧経営陣の過失を認定した司法判断は初めてで、裁判の賠償額としては過去最高とみられる。(↙)

 争点は、旧経営陣らが大津波を予見し、対策によって事故を防げたか。判決は、政府の地震調査研究推進本部が2002年に公表した地震予測「長期評価」と、これに基づき最大15.7メートルの津波の可能性を示した東電子会社の試算を「相応の科学的信頼性がある」と認定した。/ その上で、08年7月に試算の報告を受けた武藤氏が長期評価の信頼性を疑い、土木学会に検討を依頼して見解が出るまでの間、津波対策を放置したことを「対策の先送りで著しく不合理だ」と指摘。武藤氏の判断を是認した武黒氏に加え、09年2月の「御前会議」で敷地高を超える津波襲来の可能性を認識したのに対策を指示しなかった勝俣、清水両氏についても、取締役の注意義務を怠ったとした。(東京新聞・2022/07/13)

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 「三竦(すく)み」という慣用語があります。どういう状態を指すのか。辞書には次のような説明があります。「《「関尹子」三極から》蛇はなめくじをおそれ、なめくじは蛙 (かえる) をおそれ、蛙は蛇をおそれること。転じて、三者が互いに牽制し合って、それぞれが自由に動けない状態」(デジタル大辞泉)ここに出てくる三者は、ぼくにもなじみ深いものばかりですが、それぞれが竦む相手が、このようであるとは聞いたこともなければ見たこともありません。つまりは、見聞に欠けているのです。拙庭には、それぞれがいつでも遊んでいますが、蛇と蛙の組み合わせで、SがKを飲み込もうとしている場面には、少年のころに何度か出くわしました。蛇はどうしてナメクジを恐れるのか、理由がわかりません。またなめくじはカエルを怖がるというのもよくわからない話です。

 元来「竦(すく)む」とは「驚きや恐れ、極度の緊張などのためにからだがこわばって動かなくなる」(デジタル大辞泉)状態を言うようです、ここから「立ち竦む」という語が派生する。一人(一匹)や二人(二匹)ならいざ知らず、三人、あるいは三匹です。「三人寄れば文殊の知恵」というのは、空想の話であり、そうだったらいいなあという、たんなる願い事に見えてきます。音楽の言語として「トリオ(trio)」があります、もちろん、イタリア語。三部形式の楽曲の中間部を指します。それはともかく、くだんの「原子力発電」という政治マターは、今に及んで、なお紆余曲折を経ています。あるいは、素人目には「右往左往」に映りますが、実は、そう見せかけて、なかなか決めがたいが、電力ひっ迫の折、頼るのはこれしかないと、国民に思い込ませようという魂胆で、このトリオには、何が起こっても「原発推進」の一本道しかなかったのです。

 もちろん、この国が一人決めできることではなかった。何によらず、大樹とも頼りにしている「米国」の言いなりで、原発は、何度爆発事故があろうと止めない(止められない)という運命にあるんですね。米国の従僕の身では「自己決定権」は皆無だということで、悲しさを通り越して、情けないことおびただしい。原子力発電という「危険な金儲け」に、「原子力の平和利用」とアメリカ大統領(アイゼンハワー)(左写真)の鶴の一声を聞いて、千載一遇のチャンスとばかりに「立ち竦んだ」のか、あるいはこれぞ「打ち出の小づち」と欣喜雀躍したのか。狂気に満たされた面々が織りなす「トリオ・ソナタ」がありました。俗に「政・官・財」という室内外に喧(かまびす)しい輩です。原子力は「禁断の木の実」というか「禁断の金のなる木」だったというわけでした。

 詳細は省きますが、アメリカの「指導」「命令」を受けて、原子力の「平和利用」という「錦の御旗」を立てた先達がいた、二人の怪物だった中曽根元総理と正力元読売新聞社社主だった。以来、嘘と誤魔化しで「原子力の平和利用」を貫き通し、ついに「未曽有の原発爆発事故」を起こし、その「平和利用」は完遂された(完成を見た)と思ったのは、ぼくだけだったか。「平和利用」に徹していた「原発」が「前代未聞の大惨事」を起こし、その被害者の数たるや、どこまで増えるのか、誰もその全体の帰結・帰趨を知らないのです。「三竦み」とは、「三者が牽制しあって、それぞれが自由に動けない状態」を言うとありますが、この原発突貫トリオ(政・官・財)の場合はどうでしょう。果たして「竦んだ」のか、「ツルンダ」のか。よく言われる「三バカトリオの絆」というものが肉体にまで食い込んで、三体一心の気分のままに抱擁し合っていたとでも言えばいいか。

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 さて、東京地裁で行われた裁判の判決です。ぼくは「判決内容」そのものにも快哉(快なる哉)を叫びたいほどですが、実を言うと、裁判長個人に大きな興味を抱いています。ここでは書け(書き)ませんが、よくぞこんな判決を「裁判長」は下せたなあと、「夏空に想外の感ありホトトギス」です。(どこかで書くことになるかも)それは別にして、よくぞ出した「十三兆円」です。誰が払えるものか、判決は象徴的な意味(厳罰・損害賠償の対価)などという論評もあります。どうせ上級審で否定される運命にある「判決」だというものもありました。「よく言うよ、諸君」とぼくは糾弾したいですね。

 東京電力(TEPCO)という「財」は、どんなに大爆発が起き、どれだけの大被害が出、その賠償が気の遠くなような巨額になる、としても、「いささかも驚かない」、そんな企業でした。もとをただせば「政」が主導した計画で、その下請けに回されただけだという「卑怯千万」な「国策企業」の体質を持ち続けていたのですから。だから「十三兆」であろうが「百兆」であろうが、「カエルの面に小便」の態度を取り続けてきたのです。「政」は、このプロジェクトは「際限のない金づる」と見た。好き放題に「法律制定」を重ね、好き放題に税金を投入し、そのうちのいくらかはいつでもキックバックできるのだという、周知の芸当を披露したのが田中元総理だった。何でもかんでも「原発手形」は電気料金に「上乗せ」できるんだ。

 「官」はどうだったか。田中も悪知恵が働きましたが、官僚群の「悪知恵」は底なしであり、人智を超越してあくどいものでした。「高い偏差値人間の厚かましさと怖さ」ですな。官僚の「お得意」は「無責任(=責任を問われないように振る舞う才能にたけているという意味)」でしたから、この三者の「三竦み」は善悪を超えて、資本主義のあくどい営利主義に拘束され、実は、助太刀されていたのです。あるいは「鉄鎖」といってもいい「トライアングル」が「禁じ手」を「得意芸」に仕立て上げて、あろうことか最大時「五十四基」までの原発を作ったのです。独占企業の電力会社と、独占権力の政治家(与野党問わず)と、あるいは前二者を「巧みに御す」官僚たちが、国を滅ぼすこともいとわない「悪手」に染まった結果の、「大事故」だった。「国防」ではなく、「亡国」の「三竦み(トリオ)」でした。

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 さて、「お金で買えない価値がある」というカード会社の「あやかし・まやかしのCM」です。今時、本当に「お金で買えない価値」があると、誰かが考えているのでしょうか。このカード会社は、もちろんそんなことは微塵も思っていない。だから、「金貸し」商売がやめられないんです。あの手この手を使って、悪質な金融にも勤(いそ)しんでいる。買えないものがあるとすれば、「あまりにも高価」だからであって、もしお金がふんだんにあるなら「買えないものはない」というでしょう。Horie…とかいう元企業経営者が「なんだって金で買える」という見本に、「宇宙ロケット」を飛ばしては失敗しています。金があれば、どんなものでも買える、それが世の中なんだという時代の「寵児」だった人。悔しければ、金を稼げよと言ったかどうか知りません。

 「『買えるものは○○カードで』のコピーは、金に換えられる品やサービスを扱い、そうでない価値には累を及ぼさぬ商売の道を示している気がする。そもそも原発は商いになじむのかと考えてしまう」という箇所に、ぼくは少し違和感を持ちました。何を言ってるのかなあ、と。「商いになじむ」とか「商いになじまない」の問題なんでしょうか。なじむどころか、「打ち出の小づち」だとトリオが判断したがゆえに、国策として強引に推進してきたし、それを圧倒的多数の国民は支持してきたんでしょう。ぼくは「原発立地反対」では数少ない成功例である新潟県巻町の事情をつぶさに見てきました。その反対・賛成運動のなかに、親戚筋が入っており、「内輪」で戦いが繰り広げられていたことを知っているからでした。親族を二分し、親子までを分裂させてまでも、原発推進という「打ち出の小づち」の威力、それこそが「商いになじむ」を超越した、「こんなに旨い儲け話はない」ということの証拠だったでしょう。事故が起こっても、トリオの誰かがきっと面倒を見る、それは固い絆(きずな)の中で確かめられているんですからね。売る方がモノの値段を決められるというのは、商売の鉄則に大きく違背しているんですが、電力会社がそれをしてきた。

 「買えるものはカードで」、「買えないものもカードで」というのが資本主義という、ひん曲がった貨幣至上主義の経済社会の標語(モットー)ではないですか。「いちばんのみやげ、プライスレス」というのは、なんという嫌味な表現ではないか。月並みな、家族感情を刺激する(舐めさする)ような、そんな感傷に浸れる時代はとっくに終わったのです。親が子を殺め、子が親を遺棄する、一人所帯というか、究極の核家族が急増している背景に何があるか。「金に換算不能な価値」が信じられない時代社会の象徴が、これ以上は核分裂を起こし得ないところまで分裂した「一人所帯」ではないかという、とても救われそうにない気分に襲われます。「金で買う」「金で買えない」という、何かを計る秤(はかり)に「金」が出てくること自体、「金権の猛威」を知るのです。「命あっての物種」という昔のことわざは、今風に翻訳すれば「金のない世の中なんて」ということになるのでしょう。

 上部に掲げた「写真」に写っている二人の弁護士は「現代の正義の味方」に見えます。いろいろと評価は分かれるのでしょうが、難しい裁判を戦っておられるのも事実です。「判決確定なら、分割払いでも納付は厳しそうだ。各人が破産し全額確保できない可能性も原告側は織り込み済み。弁護士は支払い命令自体を『懲罰みたいなもの』と評した」とあります。判決の「裏と表」を見るようで、あまりいい気がしない。「13兆円」は象徴であるというのは、実際には、支払い能力にかんがみて、とても無理だから「賠償請求しない」といっているようなものではないでしょうか。今回の原告は「株主」だったから、こんな風な感想がでるのかもしれない。しかし、人生そのものを、中途で「取り上げられ」「中断された」人々の「人生の意味」は、「金では買えない」からといって済ませられないことで、だからこそ「せめてもの償いの一端に」というのが、被告側であり、国側であり、その強引な政策を支えてきた官僚たちの言葉である必要があるのではないか。

 いまなお、困難な環境に甘んじておられるであろう、あまたの原発事故被害者への「賠償」責任は、どこまで行っても尽きることはない、ということを証明するためにも「原発裁判」に大きな関心をもって見据えていきたい。「金で買える」「金で買えない」を超えて、金では買ってはいけない「目に見えないいのちの輝き」があるのだということを、ぼくたちはどのようにして実感できるのでしょうか。「原発再稼働」を言い出している面々もまた、「金で買えないものはない」という金の亡者なんですが、そんな連中が「トリオ」を組み「三竦み」を継続している、その「絆」をぶち切らない限り、ぼくたちの社会に「安心」安全」というものの実態は生み出されないことだけは確かです。「まず事故は起こらない」が「万が一、起ったら地獄だ」という、恐怖心をもって「明るい生活」を送れるのでしょうか。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)