
「咄嗟(とっさ)の判断」といいますが、あるいは衝動的な、情念・情動に突き動かされた反応であることがほとんどでしょう。手持ちの材料もなければ、頼りになる助け手もない、まして、考える余裕さえもない。そんな場合がいつでも、わが身に起こるとは思われません。でも、考えようによっては、誰でもが自分の領分(所有している思考のための財産)に立脚してしか考えられないのですから、まちがえたり過ちを起こすのは当然でしょうね。ぼくはものの見方や考え方の面においても、あるいは行動を起こした場合でも、数限りなくまちがいや過ちを犯し、自分を苦しめるのは「自業自得」というほかありませんが、そのために他人を苦しめたり傷つけたりしたことも数限りありませんでした。ぼくの「後悔」の九分九厘はここに因します。年齢とともに、そのための「悔悟の念」が深くなるばかりです。

人並みに生きている間に、時には「咄嗟の判断」を迫られる、迫られるという時間的余裕すらない時があります。だから「咄嗟の判断」(言語矛盾みたい)、それは一面では「判断」なんかではなく、むしろ「直感」(「直観」)、「反応」「即応」というべきかもしれません。物事を判断する(事態に反応する)際に、しばしば「アクセル(右)とブレーキ(左)」の踏みまちがえをするのは、誰もが経験するところでしょう。現実に「アクセルとブレーキ」を踏みまちがえて、大きな事故に至るのは日常茶飯事のようで、危険極まりありません。車の運転での「踏みまちがい」なら大ごとになりますが、ものを考える際の「踏みまちがえ」などは大したことはないと、ぼくたちは考えてはいないか。それが自らを傷つけるもとになるし、他人をも困らせ、迷惑をかけることになるのですが、一向に改まらないのはどうしてか。(「人間が弱い」といわれる証拠ですな)

いまさら「新機軸」ということではなく、以前から予定していたことです。ここに「ぼくの主張」「わが愚見」という意味合いで「短い駄文」を、思いついた瞬間に書いてみようという趣旨です。普段、偉そうにプロの新聞記者諸氏の「コラム」を好き放題に批判し非難し、揶揄し、軽侮し、面罵さえする、まことに罰当たりの振る舞いに、実は本人が辟易(へきえき)しているところ、いまさら罪滅ぼしにはなりませんけれども、(制限字数は)四百字(原稿用紙一枚)に限定して、何が、どこまで書けるか。そのとき、判断上で「アクセルとブレーキ」の踏みまちがえがないとさいわいなのですが。この方面では、ぼくはいまだに「若葉マーク」です。思い浮かんだ段階で書き始めます。本日は前口上のつもり。