
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諫をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざツしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね。
其先祖を尋ぬれば、、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤(こういん)、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子、高視の王、無官無位にして失せ給ひぬ。其御子、高望の王の時、始て平の姓を給はッて、上総介になり給ひしより、忽に王氏を出でて人臣につらなる。
其子鎮守府将軍良望、後には国香とあらたむ。国香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。(「平家物語・巻一 祇園精舎」)

「平家物語」には深い思い出があります。もちろん他人には大したことではありませんでしょうが、ぼく個人には、その後にもいろいろな影響を与えることになる、とはいえ、実に「ささやかな体験」ではありました。大学に入った当時、一般教養の授業で「日本文学」という科目があり、あまり考えないで、おそらく時間割の都合か何かで選んだのかもしれません。それほどたくさんの学生がいたのではなかった。授業内容は、たしか、岩波文庫版の「平家物語」の購読だったと思います。担当教師は四十歳ほどの若い男性教師で、後年、彼は「平家物語」などの「戦記・軍記物語」研究の第一人者になられた。彼の恩師はたしか「佐々木某(なにがし)」という中世の軍記・戦記文学研究の大家でした。(ヘッダー写真は林原美術館(岡山県)所蔵の「平家物語絵巻」)
授業に参加していた段階でも「平家物語」に大いに刺激され、さらに担当教師の「朗読」にいたく感動したことを今に至って記憶しているのですから、知らないうちに、ぼくの内部では「平家」は生き続けていたんですね。もうこの時期に、ぼくは岩波版の「日本古典文学大系」をすべて購入していたと思う。高校までは野外プレイに明け暮れて、本らしいものなどは一切読まなかったし、高校の古典や現代文の授業もつまらないとしか感じられないものでした(ぼくが身を入れなかったから、つまらないと感じたのは自己責任ともいえそうです)。後年に分かったことで、担当教員はいずれもその道の第一人者になられた教員でした(何人かは、高校教員から大学教員になられた)。後に筑波大の教授になられた、万葉研究の I さんなど。あるいは女性教員では、当時の古典文学研究の大御所だった池田亀鑑さんのお嬢さんが在職されていた。ぼくはこの M 先生には「徒然草」では、自分の不勉強のために恥ずかしい目に合っていました。(それは今もって秘匿しております)

まず大学入学早々の授業で「古典文学」に身を置く(というのは大げさですね)ための「洗礼を受けた」といっていいような経験をしたのが K 先生の授業でした。「平家物語」(に限らず)は読むのでは足りず、声を出して「朗読」するものだということを知らされました。これは後年、芭蕉の「奥の細道」で再確認したことでした。要するに、日本の古典文学の多くは「朗読」するために書かれているということだったかもしれません。その典型が「平家物語」であったのは言うまでもない。書かれた当時から「琵琶法師」による「弾き語り」がその主筋だった。授業では、さすがに「琵琶」の演奏はなかったが、Kさんの優しい、か細い声で読み上げられる調子は、まさしく「栄枯盛衰」物語にふさわしい抑揚を持っていたようでした。(実は、下の「辞書」に解説を書かれているのが「K」氏、つまりは梶原正昭さんだった。
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● 平家物語(へいけものがたり)中世初期の軍記物語。12巻。成立の過程 平清盛(きよもり)を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承(じしょう)物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好(けんこう)法師の『徒然草(つれづれぐさ)』(226段)によると、13世紀の初頭の後鳥羽院(ごとばいん)のころに、延暦寺(えんりゃくじ)の座主慈鎮和尚(じちんかしょう)(慈円)のもとに扶持(ふち)されていた学才ある遁世者(とんせいしゃ)の信濃前司(しなののぜんじ)行長(ゆきなが)と、東国出身で芸能に堪能(たんのう)な盲人生仏(しょうぶつ)なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇ノ浦で滅亡した1185年(寿永4)から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経(よしつね)のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円(慈鎮)のもとで、公家(くげ)出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。(下に続く)(右上写真は「延慶本」五島美術館蔵)

語物としての流布 本来は琵琶(びわ)という楽器の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこのためで、国民文学といわれるほどに広く流布した原因もそこに求めることができる。『平家物語』をこの「語物」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、琵琶法師とよばれる盲目の芸能者たちであったが、古い伝えによると『平家物語』ばかりでなく、当初は『保元(ほうげん)物語』や『平治(へいじ)物語』も琵琶法師によって語られていたらしく、また承久(じょうきゅう)の乱を扱った『承久記』という作品もそのレパートリーに加えられていたといい、これらを総称して「四部の合戦状」とよんだ。しかし他の軍記作品は語物としては発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流系と八坂流系の二つの系統に大別される。これらに対して、読み物として享受されたのが読み物系の諸本で、『延慶(えんぎょう)本平家物語』6巻、『長門(ながと)本平家物語』20巻、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』48巻などがある。[梶原正昭](以下略)(ニッポニカ)(左上写真は「七十一番職人歌合絵巻・琵琶法師」東京国立博物館蔵)
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昔も昔、六十年近くにもなろうかという過去の思い出を、今どうして取り出したのか。本人もはっきりしないままで、「平家物語」を読んでみたいと、漠然と思ったのでした。「平家」とくれば、大学時代の授業と、その担当者に触れないわけにはいかないだろうという予想は立っていました。四十歳くらいの若い担当教師、それが梶原正明さんだった。後年、ぼくは個人的にも梶原さんから、いろいろな話を伺うことができた。これは、ぼくにはとても幸いなことでした。梶原さんは、七十過ぎに亡くなられた。在職中から病を得ていたように記憶しています。お住まいは横須賀で、かなり高いところにご自宅があり、階段を昇るのが身に応えるといっておられた、その「(優しさを失わなかった)声音」が、今でも聞こえてきそうな気がします。とても小柄な方で、語り口は柔らかく、ガサツな人間から見て、なるほど「静かな紳士」なんだ、という風情を印象深くされていました。その梶原さんは、たくさんの研究業績を上げられ、ぼくは、そのほんの一部を拾い読みするのが関の山でしたが、著書を手にするたびに、彼の人柄を偲(しの)ぶのです。亡くなられたのが一九九八年でしたから、七〇を出たばかりでした。もはや四半世紀もたったのかと、ここでもまた「去る者日々に疎し」の感慨を深くします。だからこその「平家物語」再読だったかもしれません。

「平家物語」とくると、あれはいつでしたか、木下順二さんの「子午線の祀り」の芝居を観たことを思い出します。もちろん山本安江さんも出演されていました。四〇年も前になるでしょうか。岩波ホールだったと思う。またこの芝居では「群読」という実験を取り入れられていたのも印象的でした。知盛と義経を並べ、一の谷から壇ノ浦合戦にいたるまでの平家の滅亡を描いた、波乱万丈の「盛者必衰物語」でした。まさに、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」ですが、ぼくはこの物語を読んで、強く感じ得たのは「盛者必衰」、「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」「たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」という「平家物語」の通奏低音ともいうべき「人生の哀れ」でしたのはいまでもありません。でも、それを超えて痛感させられたのは、「盛者」以上に「弱者」「貧者」、あるいは「おごれるれる人」に負けず劣らず「おごれざる人」もまた、「弱者必衰」であり、「春の世の夢の如しである」という主題でした。「たけき者も」「たけからざる者」も、いささかの変わりもなく「風の前の塵に同じ」という「人生の摂理(providence)」でした。だから、どうして「そんなにおごれるのか」「おごりたいのか」という、疑念を抱かせてくれるものがありました。ここでも、ささやかな生にこそ、ぼくは立ちたいと念願するんですね。

「奢れる人」だけが「必衰」であって、「奢らない人」がいつまでも苦しみながら生きるというのは、いかにも不条理ではないか、どんな人間(生命・人生)も、きっと滅びる、それがこの人生に与えられた「褒美」だなどというと、叱られそうですが、「有限な人生」「人生の有限性」、それであればこそ、生きることに、ある種の切実さというものが生まれるのではないか、そんなことを言いたいのです。もっと言えば、人に負けたくない、他者に劣りたくないというところから、負けてたまるか、勝ちたいという、「競争の人生」が生まれるとするなら、「いくら奢っていても」「どんなに権勢を恣(ほしいまま)にしていても」、「盛者必衰」という「理」に膝を屈せざるを得ないのが、だから人生なんだというのが平家の主調(通奏)低音でした。そこからぼくは、「盛者必衰」とは異質の生きる方法。つまりは、「どう生きるか」という選択を迫られている人の姿勢を思うのです。

そして、ここにもまた、「露の世は露の世ながらさりながら」という一茶の、呻吟しながら得た「直観」が共鳴しているように、ぼくには思われてくるのです。儚(はかな)いのが人生であると、なんだか悟ったようなことを言いますが、「儚さ」に何を思い描くか、それこそが「ひとりの生き方」を決めるのではないでしょうか。「咲けば散る」「散れば萌す」「萌せば咲く」、それは自然界における不動の摂理、別の観点から言うと「輪廻」「転生」でもあります。あるいはまた「盛衰栄枯」といってもいいでしょうか。まさに「露の世は露の世ながらさりながら」ではあります。
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