民主主義は脆(もろ)いものというが

 【天風録】民主主義を手放さぬように 許しがたい暴力に揺さぶられた参院選である。元首相が銃撃され死亡したという衝撃は、国民を震わせた。若い世代も重く受け止めたはずだ。言いようのない危機感を覚え、投票所へと向かった人がいたかもしれない▲1週間ほど前に18歳になったばかりの子どもと、投票に出かけた。普段はあまり話もしないのだが、誘うと素直に付いてきた。何か思うところがあったのか。列に並んでいる間は少し緊張した様子でいた。初めて1票を投じた後もずっと無口だった▲期日前投票をした人は3年前の参院選より約255万人増えた。投票率は前回を上回った。民主主義の尊さが顧みられたのだろうか。とはいえ惨劇を目の当たりにしながら私たちの政治や選挙への関心は十分に高まったとは思えない▲ロシアの侵略でウクライナでは子どもを含む市民が殺されている。銃や爆弾で市民生活を脅かし、言論を封じる…。そんな卑劣な行為が日本でも広がってしまうのか。暴力に屈することなく、言論で立ち上がるときだ▲選挙は終わった。だが「後は選ばれた議員任せ」というのではいけない。民主主義はもろいもの。手放さぬように、政治や社会のゆがみに声を上げなくては。(中國新聞・2022/07/11)

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 四年半も前の新聞コラムを引用します。西日本新聞「春秋」です。そこには、アメリカのワシントンポスト紙の「民主主義は暗闇の中で死ぬ」にかかわる記事が書かれています。アメリカでは、ベトナム戦争が大きな歴史的な躓きになった。権力行使の側と、その危うい手法を糾弾し、隠された秘密を公然と報道する報道機関との、一種熾烈な戦いが繰り広げられ、結果的には権力が強引に自らの立場を貫通し終えたが、それが、ひいては、今に至るアメリカの凋落を早めたのでした。その後、「ウォーターゲート事件」が起こり、それを機に、権力の横暴がデモクラシー(民主主義)を殺してしまうという苦い経験もした。その時の経験を記憶に刻んで、’Democracy Dies in Darkness’ というスローガンにした。この間の経緯については、さらに、別紙の報道も掲げておきます。

 【春秋】「民主主義は暗闇の中で死ぬ」。米紙ワシントン・ポストが1面題字下に掲げているスローガンだ。事実に基づいた米映画「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(30日公開)を見れば、その意味がよく分かる▼ベトナム戦争のさなか、ポスト紙などが国防総省の最高機密文書を入手する。そこには、戦争に関して政府が何度も国民や議会に虚偽の報告をした事実が記されていた▼政府は「国家の安全を脅かす」として新聞記事の差し止めを求め、なりふり構わぬ圧力をかけてきた。記者たちは、勝てないと知りながら若者を戦場に送った歴代政権への怒りや、報道の自由を守る使命感から、偽りを暴く決意を固める…▼民主国家では、国民に負託された権力がいかに行使されたかは公文書に記録され、適切に開示されねばならない。権力に都合の悪いことは闇に葬られるならば、それは民主主義の死を意味する。真実を闇から白日の下に引きずり出すのが報道の責務だ▼それにしても、絶妙のタイミングでの映画公開である。米国では都合の悪い報道を「うそニュース」と呼ぶ大統領がやりたい放題。日本では国民の知る権利のよりどころである公文書を官僚が改ざん。むしろこちらの方がたちが悪いか▼言論封殺やうそには徹底的な取材で対抗するしかない。映画の中に私たちが胸に刻むべき言葉が。「報道の自由を守る方法はただ一つ、報道することだ」(西日本新聞・2018/03/22)

「【ワシントン=黒瀬悦成】米紙ワシントン・ポストは、1面の題字の下に「民主主義は暗闇の中で死ぬ(Democracy Dies in Darkness)」というスローガンを載せ始めた。同紙が公式スローガンを掲げるのは、創刊から約140年で初めてという。/ スローガンは2月17日、公式ウェブサイトに初めて登場し、28日から紙面にも掲載されるようになった。/ この言葉は、同紙を2013年に買収した米ネット通販大手アマゾン・ドットコムの創業者、ジェフ・ベゾス氏が昨年5月、マーティン・バロン同紙編集主幹とのインタビューで、報道機関が果たす役割と同紙を買収した理由を説明した中で登場した。/ 同紙によるとベゾス氏は元々、ウォーターゲート事件を暴いたボブ・ウッドワード同紙記者がこの言葉を使っているのを聞いたとしている。ただ、同記者が最初に言い出したわけではなく、同記者が昔、報道の自由に関わる裁判を取材したときの判決文が「原典」とみられるという。/ 同紙は、スローガンは「1年近く前に決まっていた」としているが、トランプ大統領が主流派メディアとの対立を深める中で掲載が始まっただけに、一部で話題を呼んでいる。(IZA・2017/3/4 )(https://www.iza.ne.jp/article/20170304-EIYY5RF7SNICLG635ZPNQYKTK4/)

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 米紙が新スローガン披露「無明の中では民主主義は死んでしまう」【2月23日 AFP】ドナルド・トランプ(Donald Trump)氏の米大統領就任から1か月が経過する中、米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)は、「Democracy Dies in Darkness(無明の中では民主主義は死んでしまう)」という、新たなスローガンを披露した。このスローガンは17日に初めて公式ウェブサイトのトップページに登場し、今後どこかの時点で、紙媒体上でも掲げられるとみられる。/ ワシントン・ポストの広報担当を務めるクリスティン・コラッティ・ケリー(Kristine Coratti Kelly)氏はAFPの取材にメールで答え、このスローガンが「自分たちの使命について話し合うとき、私たちが社内でずっと言ってきたこと」だと述べた。

 またこのフレーズは1970年代、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)米大統領の在任中、ウォーターゲート(Watergate)事件を暴いた報道で知られる同紙のボブ・ウッドワード(Bob Woodward)記者(左写真)がしばしば口にする言葉だという。/ ワシントン・ポストを含む多くの米国の新聞は、トランプ氏の大統領選出以降、定期購読者数やウェブサイトのクリック数が増加しているという。不動産王としても知られるトランプ氏は、これまでジャーナリストたちに対して好戦的な姿勢をみせている。/ またワシントン・ポストによると、今年1月には9840万人超が同紙のウェブサイトを閲覧したとし、この数字は昨年同月比で41%増という。/ 同紙は現在、米インターネット通販大手アマゾン・ドットコム(Amazon.com)の創業者、ジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏が所有している。(c)AFP(2017年2月23日 17:50 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米 米国 ])(https://www.afpbb.com/articles/-/3118961)

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 民主主義は「建物」ではありません。一度立てれば、少なくとも数十年は維持できる、そんな保証はどこにもない。またそれは「砂上の楼閣」などでもありません。基礎がないのですから、いかに立派な建物であろうとも存在できるはずがないからです。これまでに繰り返し述べているように、デモクラシー(民主主義)には制度的要素はあるにはあるが、核心部は制度そのものではなく、目に見えない、ある種の人間交際(社交=society)の方法だといっていい。一例をあげると、この島では一定の年齢以上には「ひとり一票」という政治参加の権利(選挙権)が付与されています。しかし、その権利を行使するもしないも、一人ひとりの判断(行為)によるのです。今回の参議院選挙の投票率はおおよそ五十パーセントだったという。それが高いか低いかは一概には言えませんが、二人に一人が棄権したという観点で把握すると、いかにも「ヤバいんじゃないですか」という状況が見えてきます。また、投票率は五十パーセントだったが、議席獲得率は圧倒的に「政権与党」とその補完勢力に偏っています。二人に一人が棄権しても、結果的には、ほぼ同様な政治志向(現状維持・保守の護持)を、この社会の人民が有しているともいえます。民主主義は機能しているともいえるし、いいや、機能なんかしていないともいえそうです。

 投票日直前に、奈良県で選挙演説中の「元総理」が凶弾に斃れた。これを報道して「民主主義の破壊」「民主主義への挑戦」「日本の、否、世界の損失」などと各マスコミはこぞって、大々的に非難のキャンペーンを張りました。もちろん暴力で言論の封殺を図ることは断じて許されない行為であり、それ自体がデモクラシーの根拠(前提)を否定するものです。しかし、一人の狂気に満ちた人間の行為が社会全体の「民主主義の破壊」をもたらすとは、ぼくには思われません。その行為は断罪しなければならないが、その後の選挙結果から、果たして「民主主義が破壊され」たのかどうか、いや破壊への道は、時間をかけて、多くのところでたどられているとも思えるのです。ワシントンポストのスローガンではありませんが、この島の「民主主義は白昼堂々と、死に至らしめられている」といいたくなるのです。

 一口に「民主主義」といっても、さまざまな表情や形姿をもって、いたるところで盛衰を繰り返している。これもすでに述べておきましたが、家庭という最小社会集団を挙げてみるとどうでしょう。この集団にも民主主義の要素は機能しています。また、機能しないといけないと、ぼくには思われるのです。なぜなら、この私的集団内における経験が、他者集団のメンバーと交わる際のカギ(根)になるからです。ぼくは、民主主義は「交際術」だといいました。他人と交わる方法です。圧倒的に「上下(力)関係」に立つか、あるいは「男尊女卑」に基づくのか、さらには「異質を排除」する立場に立つのか、いずれにしても、これらは「民主主義の交際術」とはとても言えない。端的に言うなら、「平等・水平」の関係をそこに見出すのでなければ、民主主義の原理は生かされません。さまざまな属性の違いを超えて、平等の感覚をそこに認めることです。「人種・性別・信条・国籍・年齢」などの差異、異質性を認めたうえで、そこに互いが尊重し合うという「人間の権利」を認めること、そこから民主主義は発します。一家の夫婦がわけあって離婚すると、それまで家族で作っていた「共同体」「公的空間」が壊されます。人間同士の交際も異変を生じてきます。ここに至って、「家庭の崩壊」は、「小なりと言えども、家という集団」のデモクラシーの損壊であるといえないでしょうか。これは学校でも職場でも、あるいはサークルやボランティア団体などにおいても、何時だって起こりうることです。民主主義は、誰でもが参加し、自己の持ち分を発揮しなければ生まれはしないんですね。

 この社会には無数の集団(社会)があり、ぼくたちは一人でいくつかの集団に所属(参加)(帰属)することになっています。細かいことは省きます。一人の人間が複数の集団に属して、それぞれに与えられた役割を果たすことが求められますが、そのどれかがうまくいかないと、個人の中での社会参加のバランスが崩れます。不登校や出社拒否なども、この現象の具体例と考えられるでしょう。このような個々人の社会参加の困難、あるいは社会的役割の遂行不能などが、いたるところで、あるべき「民主主義の原理」を毀損しているのです。マスコミや報道の世界には、特に政治(家)とのかかわりにおいて、報道の自由と情報の秘匿を巡る熾烈な戦いが繰り広げられることが想定されます。しかし、この社会の現実はどうでしょうか。政治的情報は秘匿され、捏造され、改竄(かいざん)されても、それを激しく暴く報道が絶えて見られませんでした。よく「大本営発表」と揶揄されるように、嘘や偽りの情報を「本営」が公表したとおりに、マスコミは報道してきたという前歴が赫々として輝いている国柄です。だから、この「大本営発表」こそが報道に値すると、狂気乱舞せぬばかりに報道するという、何とも始末に悪い「政府御用達の報道機関」に甘んじて、恬(てん)として恥じるところがないのです。「権力への距離」の遠近が「報道力」の尺度なんかになるものか。

 最近亡くなった「元総理」は政府機関の調査でも、なんと百数回も国会で虚偽答弁を繰り返したとされます。白昼堂々と、選挙民をはじめとする国民をコケ(虚仮)にして恥じるところがなかった。これこそ、政治的民主主義の破壊活動そのものだと、どうして報道されなかったのか。あるいは公文書の改竄や偽造が、繰り返しなされたのは、元総理に関係する部分であり、それはあまりにも政治倫理や道徳に悖(もと)る行為であったことが、後刻判明しますが、それに対してもいささかの痛痒をも感じた素振りさえ見せなかった。あるいは北方領土返還交渉を核として、ロシアの独裁権力者と「肩組んで」親しさを見せびらかし、その交流はなんと三十回近くに及び、「外交のABE」と自らを誇示し、その挙句に日ロ間には「領土問題」は存在しなとまで相手をして言わしめたのです。北朝鮮による「拉致問題」に政治生命を賭けるとまで啖呵を切りながら、その「成果」をいささかも得ることなく、「痛恨の極み」の一言で、片づけてしまった。新型コロナ対策の「マスク」配布の失政はどうでしょうか。その他あれこれ、枚強に遑のない「無責任の・無限地獄」です。(左上の記事は東京新聞・2019/02/19)

 「死屍に鞭打つ」といわれ、強く非難されるかもしれませんが、この「元総理」に対して「大勲位」の授与、それが政治であり、国家機関の為すことでしょう。何でもかんでも、「国民栄誉賞」でも「文化勲章」でも、「紫綬褒章」でも、「賞」と名の付くものはすべて授与するがいい。その死を悼んで、驚くべき多数の民衆(人民)が悲嘆の涙を流し、献花・合掌の礼に参列しました。島社会の「熱い、いや熱すぎる人情」に絆(ほだ)されるとでもいうのでしょうか。こんな低級な「絆し」に強いられて、いったいどこまで行けば付和雷同的、群集心理的な「奇怪さ」「奇妙さ」に気づくのか。民衆心理(と言えるものが想定できるとして)、それはいつまでたっても変わらないものなんですね。これが「国民性」なんですか。ぼくは、そんな「国民」のかたまりから足を抜いていたい。

 断じて、ぼくは、そんな「絆し」は拒絶する。生活を営むために舐めなければならぬ「塗炭の苦しみ」、その本番はこれから、さらに厳しくぼくたちを襲来するのではないでしょうか。ひるむことなく、年来のささやかな「生」を紡ぎとおしたいね。

 「民主主義は脆い」とコラム氏は言う。脆どいころの話ではないことが手に取るようにわかる、「政治的茶番」はまだ開演・続行中です。「民主主義は御天道様(おてんとさま)の下で死ぬ」ということになりつつあるのではないでしょうか。いや、すでに「死んだ」と。「民主主義はもろいもの。手放さぬように、政治や社会のゆがみに声を上げなくては」という。その言やよし、となりますか。民主主義は「陶器」なんかではない。落とせば割れるというものではないんです。陶器を手にする「人の問題」なんだ。自らの内面に他者への「思いやり」「敬う心」を育て上げなければ、「問答無用」とばかり相手を滅ぼしかねないのです。「手放さぬように」すべきは、自らを育てる「自立」する意思であり、「他人を慮る」べき、わが感情ではないですか。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。