「民主主義」は家庭・学校から始まっている

 【日報抄】昨年1月の議会襲撃事件では、米国の民主主義がいかに傷ついているかがあらわになった。その価値を世界に説いてきた大国で、大統領選に不正があったと一方的に思い込んだ群衆が、民主的な手続きの中枢ともいえる議会を占拠した▼日本では国民主権の根幹である選挙のさなか、街頭演説に臨んだ元首相が凶弾に倒れた。動機は何であれ、暴力による口封じと指弾されるべき行為である。私たちが生きる上で欠かせない理念だと信じてきた民主主義は、世界各地で激しい攻撃を受けている▼民主政治は意思決定などの効率が悪いという見方がある。疫病の感染拡大など重大事態に直面した際は、為政者が単独で方針を決めた方が素早い対応が可能になるという理屈だ。ただ、為政者が間違わないとは限らない▼間違いをできるだけ少なくするために、多くの人が意思表示をする機会を保障するのが民主主義の基本的な考え方といえる。ひとたび道を誤っても、それを修正するしなやかさを備えているのも国民一人一人が主権者であればこそだろう▼銃撃事件がこの国の民主主義に刻んだ傷をふさぎたい。目の前には有権者が政治参加する手段である選挙が控えている。きょう投開票の参院選は、この国がまっとうな民主主義を取り戻すための第一歩といえるのではないか▼今回の選挙に、しっかりと取り組みたい。この国に民主主義が根付いていることを示したい。私たちにもできることがある。投票の権利を行使しよう。心の声に従って。(新潟日報デジタルプラス・2022/0710)

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 列島中に「激震が走った」というのかどうか。それほどの衝撃的な事件だったと、多くのマスコミも、右にならって報道しています。確かに「元総理」が白昼、衆人環視の中で「銃弾」に倒れたのだから、大きな衝撃を感じないはずがありません。そして、ほとんどの報道は「民主主義への挑戦」だといっています。それも間違いではない。しかし民主主義の捉え方は、「選挙」「政治家」にのみかかわるものではないし、さらにえば、民主主義は「政治(だけ)の話」ではないというべきです。日本の民主主義の水準が、まさかこんな暴力を呼ぶようなレベルだったとはと、ほとんどの人は異口同音に語るのです。ぼくはそれを否定はしないが、あまりにも民主主義を限定し、狭くとらえてはいないでしょうか。民主主義は建築物ではないし、交通手段などでもありません。それは日常生活のあらゆる場面で生み出され、潰され続けている、人間の付き合い方の方法なんですね。世渡りの術ではなく、人と人の交際術なんだ。まるで階段を昇るように、「デモクラシー」は高まるのではなく、何時だって、階段の踊り場に置ける「交換(私から公への)運動」に他ならないのです。ある集団でないで、上手に集団のメンバー同士(これらの「人」は、私人ではなく公人です)が付き合えていたとしても、それが崩れる時もあるし、別の集団では、壊れた関係が修復されることもある。いずれにしても、段々、徐々に高みに上るということは想像はできますが、まるで千年もかけなければ達成できないような、実に遅々とした歩みなんですね。人間が集まってすることに、時間のかかわる部分は極めて少ないのです。すべての人は、人間としての歩みを「一から始める」からです。

 つい最近(7月4日)、「警官が黒人男性射殺、約60発の銃弾 米オハイオ州で)という事件が起こりました。交通違反の取り調べを拒否して逃走した黒人男性を八人の警官が銃撃し、六十発の弾丸が発射されたという。「[アクロン(米オハイオ州) 3日 ロイター] – 米オハイオ州で先週、交通違反の取り締まりから逃走しようとした黒人男性が地元警官に射殺される事件があり、警察当局は3日、その映像を公開した。8人の警官が関与し、黒人男性の遺体には約60もの銃創があった」(https://jp.reuters.com/article/ohio-police-idJPKBN2OF05P)この「60もの銃創」というのは、何を示しているのか。黒人男性は、警官たちにとっては「人間以外のモノ」「ハチの巣状に打ち殺してもかまわない獣か何か」の類とみなされていたのだ。そうでなければ、このような兇状は、人間の「当たり前の感覚」で、人間に対してはできるとは思えない。民主主義のお手本といわれてきたアメリカ、そうでもいわなければ、収拾が付かないような混沌状態を二百数十年にわたって経験してきた、実に幼い国(社会)だと、ぼくには思われます。敗戦国日本における占領軍のマッカーサー将軍は「日本人は十二歳」といいましたが、あるいはアメリカは、ある部分では、それ以下の「少年、いや幼年」ではないでしょうか。決して、大人にはなりえない運命にあるのかもしれない。

 アメリカ社会の暴力性、特に銃による殺人事件が多発しています。「アメリカから黒人差別がなくなったら、それはアメリカではなくなることだ」といった、白人の大統領候補がいました。ぼくはこれを、いつもアメリカ社会の民主主義の程度を図るメモリ(尺度)のように考えてきました。このような人種差別感覚から、どれほど解放されている人物・集団の集まった国か、という意味です。「黒人のいのちは大事だ」という表明が身命を賭してなされなければならないほど、非文明的で野蛮な社会であるといえないでしょうか。アメリカは人権感覚に関しては、そんな低いレベルでもがいてもいるのです。(日本だって、同日の談さ)白人がすべてに優先するのだという「価値観」は、今日からすれば断じて容認できない「人種差別」に基づいているといわなければなりません。白人が優位に立ち、黒人は白人以下の扱いを受けてしかるべきだという社会通念は、アメリカがいまなお、白人による「特権意識」に基づいて機能する社会であるということなのでしょう。この「人種差別」あるいは、「特権階級の専断・横暴」こそ、民主主義への挑戦であり、民主主義社会の破壊をもたらすものと、ぼくは強調しておきたいのです。これを防ぐためには大きな政治力が必要であることは言うまでもない。アメリカが民主主義を、四六時中、標榜しなければならなかったのは、あるいは「人権感覚」に訴え続けなければならなかったのは、このような手に負えない、多くは白人民衆の深部に住み着いている「人種差別」という現実に直面してきたからです。

 翻って、この島社会の現実はどうか。確かに「元総理」が許しがたい暴力行使によって「凶弾」に倒れました。そのことについては、何度言っても言い切れないほどに、断固として容認できない行為であり、万難を排してこの凶悪な事件を再び起こさない努力を、ぼくたちはしなければならないでしょう。ここでぼくが言いたいのは、民主主義社会(それは家庭や学校、あるいは企業や国家単位の集団の集合体のことです)が、たった一人の凶行によって「破壊される」という恐怖です。それはまるでガラス細工のように、誰かの不用意な・不注意な行動によって、いつでも損傷を受け、破壊される危険性を含んでいる、そんな社会の原理です。この「誰もが破壊者になる」危険性・脆弱性をもっている社会原理、それがデモクラシーです。だからいうのです、誤解はされないでしょうが、一政治家や権力者の問題にのみ帰すべきものではないのだということを。一人でもルール(人命を尊重するという)を無視するものが出れば、すべては台無しになる、そんな弱々しい社会なんですね、「民主主義の理念に立脚する」社会は。

 これまでも繰り返し言ってきたことです。民主主義とは「人権尊重」、つまりは「他者を思いやれる」人々が作り出そうとしている社会原理だということ。そのような原理を確かなものしたいと願う人々の集合体でもあります。人々の政治行為における、その端的な表れが「一人一票」の選挙(投票)権の享受にほかなりません。しかし、これは実に見えやすい原理であります。その昔(第二次世界大戦の敗戦時まで)は納税額の多少によって「選挙権・投票権」が制限(左右)されていましたし、女性からは選挙権(政治参加の権利)は奪われていたのです。それが幾星霜、先人たちの多くの「犠牲」の上に、今日ある「平等な権利としての選挙権」が確保・享有されてきたのです。この「選挙権」は、しかし政治参加の道具であって、それ自体が最終目的ではありません。誰にも「平等な権利としての選挙権」が保証・保障されるのは、それぞれの政治的意見の表明が保証・保障されているという意味です。民主主義の最高の価値は「自らの意見を表明する」ことが権利として認められるということにほかなりません。「ぼくはこう考える」「私は、そうは思わない」と、誰もが束縛もなく、強制もなく、自らの意思で意見を表明する、そんな価値のことです。

 自らの意見を「自由に表明する権利(表現の自由)」は決して政治家や総理大臣にのみ付与されているものでないことは言うまでもありません。誰にとっても、この社会に存在する人には誰かれの別なく、ひとしく享有されるべき権利です。しかし、この権利を、いったい誰が保証・担保するのでしょうか。最近、大阪でしたか、二歳児を家の中の「ケージ用の柵」に閉じ込め、保護者が家を長く留守にしていた、その間にその幼児は、熱中症で死亡したという事件が起こりました。「私も外に行きたい」「USJに連れて行ってほしい」という願い(意見の表明があったとして)は、いったい誰が支えるのでしょうか。よく言われる「義務教育」というものの内実を考えてほしい。誰だって「教育を受ける権利を有する」と憲法では書かれていますが、子どもの「教育を受ける権利」は親権者や国・地方自治体が保証・保障するという「義務」を履行しなければ、その権利はまっとうされないのです。けっして、「天賦(てんぷ)の権利」「天稟(てんぴん)」などではないことを考える必要があるでしょう。

 民主主義は「水平」「平等」という原理を根拠にして、初めて成り立つ社会の原理だといっていいでしょう。その原理を、構成員が十分に実現しようとしなければ、何時だって社会は壊れてしまう。たった一人の構成員が「手製の銃弾」で民主主義社会の蓄積を破壊したと報道される、その理由はここにあります。繰り返しますが、それは「元総理」だからと言うべきことではなく、この社会の構成員一人ひとりがこころしなければ、安心して生きていかれない社会でもあるからです。独裁政治や専制国家ならいざ知らず、社会の構成員が、それぞれの「持ち場」で「他者の権利」を尊重するという姿勢・態度(義務でもあります)を貫かなければ、まことに危険で、かつ脆弱な社会にぼくたちは生きているのです。

 毎日のように「殺人事件」や「交通事故死」が続きます。これもまた、一人の人間の社会における「表現の自由=生きるという権利」を、誰もが尊重しなければ、たちまちのうちに、その人は「社会から追放・除去」されてしまうという、極めて具体的な事例です(ものをいう「口・言葉」を奪われてしまう。自らの意見を言う権利を剥奪される。これが「アムネストス」です)。暴力が許しがたいのは、強制的に「他者の生きる(自分の意見を発する)権利」を抑圧し、奪取するからです。その被害者は「元総理」であろうと「シングルママ」であろうと「二歳の幼児」であろうと、いささかも変わらないと、ぼくは考えてきました。(もちろん、権力の頂点に立った政治家と二歳児を比較することはできない、どちらの権利も、守られなければならない義務を人々は有しているのです)(余計なことのようですが、全国水平社運動の発祥地・奈良で、元総理「暗殺」事件が起きたのでした) 

 今しがた(午前十一時ころ)、かみさんと参議院選の投票に行ってきました。(自慢するのではなく、まず投票を棄権した記憶がない。あるいは、若い頃に何度か行かなかったかもしれないが、ある時期から、もちろん三十前からです、ぼくはきっと選挙に行くようになりました。投票用紙に書く名前が見当たらないときは、いろいろな歴上の人物の名、例えば「紫式部」とか「鴨長明」、あるいは「中島みゆき」などと書いたこともあります)どんなにひどい現実政治だと思われても、この社会では(あるいは多くの社会では)、人民の生活姿勢は「きわめて保守性」が強いのが相場ですから、今回も、ひょっとすると驚天動地の「保守圧勝」という結果が出るかもしれません。(もっとも、一党を除いて、ほとんどが保守的政党だともいえます)選挙や政治の現実を見ていると、「三百六十五歩のマーチ」みたいだと思うことにしています。あるいは「賽の河原の石積み」だとも。倦まずたゆまずの、永遠の「バトンリレー」ですな。疲れを知らない子どものように、バトンを後世にわたし続けることです。

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 「しあわせは 歩いてこない / だから歩いて ゆくんだね / 一日一歩 三日で三歩 / 三歩進んで 二歩さがる」(星野哲郎詞・米山正夫曲 / 水前寺清子歌・1968年)3-2=1となります。でも現実には、下がり方が激しく、何時だって出発点、よくいう原点というところに戻るのではないでしょうか。人類の歩みは遅々としているし、あるいは退歩しているとさえ思う時があります。「進化は進歩ではなく、変異だ」と、誰かの言葉がありました。その通りですね。一人一人は進歩するかもしれない(もちろん、その反対もあります)。しかし、全体を見ると、何時だって同じ地点に、じっととどまっているようにも見えてきます。変化は上辺だけ、そんな風にも見えますね。まあ、あえて言えば、一ミリ二ミリの進み行きだという方が当たっているのでしょう。苦労して一ミリがやっと、しかし、油断すると、一気呵成に十ミリも退歩する、そんなところが人間の実情じゃないでしょうか。ぼくはこの社会の「古典」といわれるものに親しんできましたが、現代と中世の違いが、人間の態度や生き方を見ると、ほとんど見えてこないん(見いだせない)ですね。

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●賽の河原(さいのかわら)=親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)にある河原。西院(さいいん)(斎院)の河原ともいう。ここで子供が石を積んでをつくろうとすると、がきてそれを崩し子供を責めさいなむが、やがて地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れて子供を救い守るという。このありさまは、「地蔵和讃(わさん)」や「の河原和讃」などに詳しく説かれ、民衆に広まった。賽の河原は、仏典のなかに典拠がなく、日本中世におこった俗信と考えられるが、その由来は、『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳(くどく)があると説く経文に基づくとされる。また名称については、昔の葬地である京都の佐比(さい)川や大和(やまと)国(奈良県)の狭井(さい)川から出たという説、境を意味する賽から出たという説などがある。(ニッポニカ) 

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 「今回の選挙に、しっかりと取り組みたい。この国に民主主義が根付いていることを示したい。私たちにもできることがある。投票の権利を行使しよう。心の声に従って」とコラム氏は格好いいことを言われます。しかし、ぼくはここに、おしなべて政治や報道にかかわる人たちの、月並みな「感性」があるといわざるを得ないのです。「どこに民主主義が根づいているんですか」と、ぼくは尋ねたい。「選挙と民主主義」を結びつけることは誤りではないでしょう。しかし圧倒的な投票率によって「独裁政権」が生まれる(一例は「ナチ」のような。それはすべて「民衆の選挙・投票」によって作り上げられた政権だった)としたら、どう答えますか。選挙(投票)に行くだけでは足りないのです。投票する際に「賢明さ」を失わないで、といいたい。そうであっても一方的な権力的政治風土が生まれる可能性(危険性)は、何時だってあります。

 何よりも、自分がいる場が「平等」「水平」という権利を尊重する雰囲気に満たされているか、そこを看過してはならないでしょう。あるいは、民主主義は「まず家庭から」、デモクラシーの揺り籠は、なんといっても「学校」です、と言ったらどうでしょう。「私人」から「公人」に脱皮する、私の空間から公的な場面に自らの立場を移す「練習場」、それが家庭の役割であり、学校の仕事だと、ぼくは考えている。子どものくせに、女子どもは黙れ、年寄りの出番はないぞ、などという時代錯誤はなくなったとして、さて、それぞれが親・兄弟・姉妹、仲間・同胞として、互いに「畏敬の念」「敬う気持ち」があるか、そんな気持ちが育てられてきたか。デモクラシーとは「人権を尊重する社会」のあり方を示唆するものです。「人権が尊重される社会」というのは、誰にでも自らの意見を言う権利が(構成員によって)認められる社会(集団)のことです。この事情をていねいに考えるためにも、今回の「凶弾事件」は十分に掘り下げられなければならないし、日々の生活の中での「人権蹂躙」「人権侵害」に対して、鈍感になっているかもしれない自らの意識を明らかにし、ぼくたちは、さらにいっそう感覚を磨かなければならないのです。

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言わずもがなのこと:「元総理が銃弾に倒れた」から、民主主義が壊されたのか。確かに、人々の感情に大きな衝撃が走ったのは事実だし、計り知れない社会的な打撃を与えたのは事実です。それは、銃弾の的になったのが「元総理」だったからとまでは言えます。しかし、一つの社会集団からの暴力的排除、それが人権侵害であり、民主主義の破壊だとするなら、この劣島では寸秒を争って「集団からの排除」が暴力を伴って、日々繰り返されています。それはまた、一つの社会集団における「民主主義の破壊」だといえないでしょうか。お前は消えろと口を封じる、命を奪う、そのこと自体が、社会的抹殺であって、これほど明白な「権利の侵害」「人権蹂躙」もないのです。発言する権利を奪われ、口を封じられるのは決して政治権力者や社会的に有名な存在ばかりではなく、あたりまえに、ささやかな生活の営みを紡いでいる人々も、数限りなく迫害を受けているのです。その被害者が所属していた集団が、そのことによって壊されないはずはないのです。(子どもが親を殺害する、親が子を殺害する、そのことで家族という集団は破壊されます。それを再生させるのもまた、その集団員の義務なのだと思う)日常茶飯事の如く、民主主義はいたるところで破壊を受けている。それにもひるまないで、社会の再生に人生をかける人々の存在もまた、壊された社会集団における「民主主義の回復(再建)」に与(あずか)っていることを、ぼくたちは肝に銘じておきたい。まるで「積み木崩し」のように際限のない破壊と再生の繰り返し、それが民主主義が求めている価値なんでしょうね。それを止めれば、確実にデモクラシーは死ぬ)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。