
【明窓】見上げてごらん夜の星を 昨年11月18日の本紙に興味深い記事が載っていた。江戸川乱歩や志賀直哉ら著名作家37人が大田高校に寄せた書簡が、同校の図書館書庫に保管されているのが見つかったという▼1961年の創立40周年を記念し、当時の生徒が依頼したらしい。生徒への直筆のメッセージが多い中、放送作家や作詞家として活躍した永六輔さんの言葉が異彩を放っていた。<著名人とか文化人といった言葉が嫌い ですので御協力できかねます>。本音ならば無視をすればいいのに、ユーモアを交えた返事からは優しさが垣間見える▼永さんは数々の名言を残している。<他人と比べても仕方がない。他人のことが気になるのは、自分が一生懸命やっていないからだ>。確かに、自分がやるべきことに突き進んでいれば、他人のことは気にならないはずである▼<知らないのは恥じゃない。知っているふりをするのが恥だ>。ラジオパーソナリティーを長く務めた永さんは、背伸びすることなく、誰もが分かる日常会話を使って作詞した。だからこそ坂本九さんのさわやかな歌声と相まって、『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』といった、聞く人の心を打つ多くの名曲が生まれたのだろう▼きょうは七夕。永さんが6年前、83歳で旅立った命日でもある。コロナの感染急拡大で気分がふさぐが、窓を開け、天の川を探してみよう。見上げてごらん夜の星を。(健)(山陰中央新報デジタル・2022/07/07)
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二日続きで「天の河」「七夕伝説」です。昨夜の房総半島の頭上、果てしない広がりを有する天空は、雲に覆われて、いささかの星も見ることができませんでした。しかし、その雲の向こう側には、燦然と輝く「天の河」がゆったりと流れていると思えば、織女と牽牛が年に一度きりの遠距離恋愛に相まみえることができたとするなら、いかにも「恋焦がれたもの同士」の逢瀬であったんだと思えば、我ながら幼年時代(陽水)に立ち戻った気になりなす。だから、実際に目に見えるというのは大したことではなく、むしろ見えないままで「実態」を想い図るという楽しみ方もあるのではないでしょうか。夜空を考えただけで、ぼくは、自らの卑小さに厳然とし粛然ともするのであり、、その卑小な自分の中にもまた「小宇宙(small spce)」が宿っていると思うと、なんとも喧騒にまみれた「人間世界」を離れた気分が催してきます。

二日連続の「天の河」駄文も、「山陰中央」のコラム氏に刺激されてのことでした。そこには永六輔さんへの深い敬意の念が込められていたからです。昨日、ぼくは永さんはそれほど好きではありませんと書きました。それは永さんにとってはまったく無関係であり、いささかの意味もないことです。しかし、卑小な存在のぼくからすれば、永六輔さんは放送作家としてまたテレビタレント(の走り)だった人として、文字通りにマルチタレントの魁(さきがけ)であり、いかにも草創期テレビ時代の申し子という活躍をしたのでした。人間の好き嫌いは、なかなか説明できませんが、好きではないということと、嫌いであるということは直結しないので、ぼくはその点を十分に踏まえているつもりです。その昔、ある人から永さんを紹介しようといわれましたが、理由をつけてお断りしました。(そうしてお断りした方が何人かおられます)どうしてだったか、波長が合わないからというのではなかったでしょうか。それでいて、彼の作品「見上げてごらん夜の星を」は好きだった。理由は実に単純で歌詞に「ささやかな」が繰り返し出てくるから、それだけです。ささやかではなかった、偉大だった永さんが「ささやか」ということをどのように考えられていたか知らないが、その言葉が使われているという、その意図がよく理解できます。名もない星、名もない「僕ら」のように、「ささやかな幸せ」を祈っている、と。

コラム氏が挙げておられる、いくつかの永語録、それを見るだけで、頑固で一家言があり、しかも洒落を忘れない、そんな人柄が見えてきそうです。「著名人とか文化人といった言葉が嫌い」「他人と比べても仕方がない。他人のことが気になるのは、自分が一生懸命やっていないからだ」「知らないのは恥じゃない。知っているふりをするのが恥だ」その通り、いうことなし、です。このような姿勢を一貫できたら、さぞかし気分もよかろうとも思われます。永さんはどうでしたか。去る者日々に疎し、はや「七回忌」だという。七夕の日に逝かれた永六輔さん。浅草だったかのお寺の子息だった。父や祖父は「永」を「ヨン」と読んで、中国渡来の末裔であると任じておられたという。彼は疎開児童で、長野の上田に、戦時中は疎開されていた、戦後すぐに再開された、新制上田中学校に入学、翌年には東京に戻られた。マルチというだけの異名をつけられたのもなるほどとうなづけるほどに、八面六臂の活躍をされた異才であったことは確かです。五木寛之、野坂昭如、青島幸男さんたちと同時期に活動しながら、もっとも長く、その才能を如何なく発揮されたのでした。
好きではないといいながら、永さんの書かれたものは大体読んでいます。江戸っ子というのか、職人気質というのか、この辺はぼくが大好きだった小沢昭一さんと重なるところがありますね。以下に、その一部を出しておきます。永さんの話はここまで。







● 永六輔(えい-ろくすけ)1933-2016=昭和後期-平成時代の放送作家,エッセイスト。昭和8年4月10日生まれ。三木鶏郎(とりろう)の冗談工房にはいり,ラジオ・テレビ番組の構成者,タレントとして活躍。作詞家として「上を向いて歩こう」などのヒット曲を多数生む。旅でひろった話を独特の話芸でかたり,エッセイにあらわす。尺貫法をまもる運動やボランティア活動にもかかわる。26年旅番組「遠くへ行きたい」などテレビ・ラジオへの長年の功績で毎日芸術賞特別賞。東京出身。早大中退。本名は孝雄。著作に「芸人その世界」「大往生」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
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無理に書くこともないのですが、「七夕」と「天の河」について、雑談調で少しばかり駄弁ります。これについても、この島に伝わる「伝説」の類を語れば際限がないほどに、いろいろな慣習や習俗が「七夕」にまつわりついているほどです。「織姫と彦星」伝説は中国由来で、何時しか、天空のラピュータならぬ、「天空の相思相愛物語」に転じていきました。こんなところにも、この島の民話のいくつかが発祥の由来を持っていることが知られます。まるで「鶴の恩返し」のような要素、あるいは「かぐや姫」(「竹取物語」)の色彩も色濃く記(しる)されています。また「天の岩屋戸」伝説の時に、踊りを踊った女性の着ていた着物が織られたという伝説もある。それゆえにまた、「乞巧奠(きこうでん)」という七夕習俗の原型に合わせた「織物」の由来が語られることになるのです。もともと、この島には「棚機(たなばた)姫」伝説と、その信仰があった。

どんな事柄にも由来や来歴がある、意味があるものですが、そのほとんどは、いくつもの異説・異話が重ねられ、時間をかけて人為的に創作されたものであるでしょう。しかし、時の経過とともに、何時しか、それらは「混然一体」となって、本場中国よりも詳細に、委細が尽くされて、一つの歴史文化となったのです。「七夕」「織姫」伝説などはその典型でもあります。京都時代に住んでいた家の近くに「蚕ノ社」という神社がありました(左写真)。これなども、この「伝説」に大きくかかわっていたようですが、詳細は省きます。祭神の一つには「木花咲耶姫命・このはなさくやびめ)(かぐや姫のモデル)」も祀(まつら)られれています。富士山頂の浅間神社の祭神でもあります。今はほとんど語られませんが、この神社は、京都でも、もっとも古くからあり、賀茂神社などの、先輩(原型)格の様相をなしていたともされます。いつか、この神社についても触れてみたいですね)


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● 乞巧奠(きこうでん)=「きっこうでん」ともいう。七夕(たなばた)祭の原型で、7月7日の行事。牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星が天の川を渡って1年一度の逢瀬(おうせ)を楽しむ、という伝説が中国から伝わり、わが国の棚機(たなばた)姫の信仰と結合して、女子が機織(はたおり)など手芸が上達することを願う祭になった。『万葉集』に数首歌われているが、持統(じとう)天皇(在位686~697)のころから行われたことは明らかである。平安時代には、宮中をはじめ貴族の家でも行われた。宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御し、二星会合を祈ったという。貴族の邸(やしき)では、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶(かじ)の葉に書きとどめたことなども『平家物語』にみえる。(ニッポニカ)

● たな‐ばた【棚機・織女・七夕】[1] 〘名〙① はたを織ること。また、その織機や織る人をもいう。その人が女であるところから、「たなばたつめ(棚機津女)」とも。※古事記(712)上・歌謡「天なるや 弟(おと)多那婆多(タナバタ)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)」② 旧暦七月七日に織女(しょくじょ)星と、牽牛(けんぎゅう)星をまつること。また、その行事や、織女、牽牛の両星。この夜、天の川の両岸に現われる牽牛星と織女星が、カササギの翼を延べて橋とし、織女が橋を渡って相会うという中国の伝説が広く行なわれたもの。また、五節供の一つとして、同夜、庭前に供えものをし、葉竹に五色の短冊などを飾りつけ、子女が裁縫や書道など技芸の上達を願う祭。もと宮中の節会(せちえ)として行なわれていた中国の乞巧奠(きっこうでん)の行事と、在来の棚機(たなばた)の伝説が結びついたもの。以上のような行事とは別に、日本の農村では広く七夕を盆の一部と考えており、精霊(しょうりょう)様を迎える草の馬を飾り、水辺に出て水浴を行ない、墓掃除、衣類の虫干し、井戸さらえなどをする。七夕祭。星祭。七日盆。《季・秋》(精選版日本国語大辞典)(富山市には新川(にいかわ)神社があり、棚機(たなばた)伝説があります。左上)
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● 七夕伝説【たなばたでんせつ】〈七夕〉の伝説は,〈乞巧奠〉の習俗と共に中国より伝来した。中国では,織女を西王母と関連づけるなど宇宙創世的な要素が認められる。日本では《懐風藻》から見られ,《万葉集》には巻10を中心に約130首を収める。そこではもっぱら牽牛の織女への恋の逢瀬を題材とした。その後も,歴代の勅撰集に詠まれるだけでなく,藤原為理(ためのり)〔?-1316〕に《七夕七十首》の詠があり,1330年には後醍醐天皇の侍臣により内裏で〈七夕御会〉が開かれ,また1477年には後土御門天皇によって〈七夕歌合〉が行われてそれぞれの詠が残されているなど,秋の歌題として定着した。御伽草子にも《天稚彦物語》《あめわかみこ》の作があり,その影響は広範囲に及んでいる。(マイペディア)
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● たな‐ばた【七夕/棚機/織女】 の解説=五節句の一。7月7日の行事。この夜、天の川の両側にある牽牛 (けんぎゅう) 星・織女星が、年に一度会うといい、この星に女性が技芸の上達を祈ればかなえられるといって、奈良時代から貴族社会では星祭りをした。これは中国伝来の乞巧奠 (きっこうでん) であるが、一方日本固有の習俗では、七日盆(盆初め)に当たり、水浴などの禊 (みそぎ) をし、この両者が合体した行事になっている。たなばたまつり。《季 秋》「―のなかうどなれや宵の月/貞徳」(デジタル大辞泉)(左は福岡宗像大社中津宮の七夕祭り)

● 機物神社の由来と七夕まつり復活について 機物神社宮司 機物神社の呼称及び七夕伝説との結び付きについては諸説ありますが、一説によると、古代、枚方市「津田」を「秦田(はただ)」、交野市の「寺」を「秦山(はたやま)」、「倉治(くらじ)」を「秦者(はたもの)」といっていた時代がありました。神社の名称はこの「秦者」の人たちが祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われますが、後に七夕伝説と結び付けられて、「秦」の機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。(以下略)(機物(はたもの)神社:http://hatamono.web.fc2.com/)
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今この島にいくつの神社があるのか知りませんが、いずれの神社にも縁起や来歴があり、じつにものものしい威厳を競っているかのようです。余談ですが、三十年以上も前、ぼくは友人に「自分が檀家になっているお寺の『縁起』を書いてくれないか」と依頼されたことがありました。なるほどそうか、まるでいつの時代だったかに大はやりした『家系図』つくりを頼まれたような気がしました。どの家系も「源平藤橘」から発しているとみれば、この島の相当数がみんな親類縁者であり「兄弟姉妹」であるといっても過言ではないでしょう。お寺の偽履歴書つくりは断りましたが、それぞれがどうにかして「格」を保ち、さらに高からしめたいとすれば、どうなるか、いくつかの神社の「由来」を読むと即座に理解できます。有史以来、その長さが長ければ長いほど、由来も来歴も古色蒼然となり、いかにも天然自然の如くに生えて来たかと錯覚させられるものですが、ゆっくりと、そのもつれた糸ならぬ「折り重ねられた生地」をほどいてみれば、案外に浅い、思った以上に新しい作りごとであるのが判然としてきます。それを暴くのが趣味ではないので、ここまでにしておきます。
さて「織姫と牽牛の出会い系」神話が年に一度思い出される、ある意味では神妙でもある、その日にもなお、ウクライナでは「いわれなき殺戮」が繰り返され、いつ果てるとも知れない「暴力」の交叉が地球規模で起こっています。

教会や寺、あるいは神社は、世に数知れず存在しますが、暴力や殺戮には無力であるとはどうしたことでしょう。その殺戮や暴力の当事者をも保護し、信者として囲繞しているとするなら、その信仰、神仏は、この地獄の沙汰にどんな意味を見出しているのかなどと、七夕に触発されたわけでもなく、深く考え込んでしまいます。この島だけでも、日々、狭い東西南北で、限りない「無謀」かつ「許されざる」殺人事件が多発しています。人が殺され、人が殺すというのは、実はそれにかかわりのある無数の人々の悲しみや苦しみを生まなければ終わらないし、その終わりない辛苦は、存在の続く限り終焉を見ないのです。「世の光、地の塩となれ」とある神は宣った。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書 五章一三―一六節)
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七夕だから、何かを言うのではなく、当たり前に生きている、当たり前の明け暮れこそが人の生き方にふさわしいと実感している、一人の老人のなけなしの経験の吐露だと受け止められますように。新型コロナは、さらに勢いを増しています。一年間に、いったい何回のワクチン接種すればいいのか。効き目が数か月しかないということは何を意味しますか。これに関しても言いたいことはたくさんありそうですが、ばかばかしいのでやめておきます。熱中症も一休みですが、この先「酷暑」再現となるのかどうか。ぼくの心身は、すでに秋の気配を受け入れています。「秋の夜長を鳴きとおす」虫の声はまだ「すだく」ほどはしませんが、どこかで鳴いていると想定して、ぼく一人の乾坤は「今はもう秋 誰もいない海」とハミングするばかりです。
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