
【日報抄】霧のように細かな雨が竹林をぬらす。サアア…という葉ずれの音が、聞こえてくるようだ。情緒あふれる日本の風景を描いた日本画家、川合玉堂の「細雨」である▼新潟市新津美術館で開催中の長谷川コレクション展で展示されている。玉堂前期の代表作という。「雨が見せる空気感、みずみずしさがよく表現されている。展示作の中でも、好きな作品です」。学芸員の奥村真名美さんがほほ笑む▼東京国立近代美術館には同じ作者の「彩雨」が収蔵されている。「細雨」は初夏の雨を描くが、こちらは紅葉の山村に降る雨の情景だ。秋雨の音を思い浮かべると、首の辺りが涼しくなる。それぞれの季節の雨を皮膚は覚えているらしい。湿潤な気候のゆえか、日本には雨に関する語彙(ごい)が多いと聞く。稲作を中心とした農業を営む上でも、雨には敏感にならざるを得なかったのだろう▼陰暦7月7日、七夕の雨は洒涙雨(さいるいう)と呼ばれる(倉嶋厚ほか編著「雨のことば辞典」)。織り姫と彦星が別れを惜しむ涙、あるいは会えなかったために流す涙だという。6日に降る雨は洗車雨。デートに備え、彦星が牛車を洗う。こちらは心弾む雨に違いない▼雨は人間に限りない恵みを与えてくれる半面、命や暮らしを脅かす災害を引き起こすこともある。文明がいくら発達しても、気象を自由に操ることはできない▼近年、7月に大雨の被害が出るケースが続いている。自然に対する畏敬の念を忘れないようにして、雨とうまく付き合っていくすべを学びたい。(新潟日報・2022/07/07)(左上は歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」1857年)
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「絹本著色細雨図」 玉堂筆 六曲屏風(明治四十四年第五回文展出品作)(山形美術館所蔵)

★玉堂「彩雨」1940年(右)
本図は1940年の紀元2600年奉祝展に出品された玉堂の代表作のひとつ。水車を打つ流れの音と彩られた紅葉を遠く叩く雨音が呼応して聞こえるようだ。玉堂は四条派と狩野派を学んで独自の温和な風景描写を確立した、近代日本画史上忘れられない画家といえようが、この作品に見られる自然と画家との親密な関係こそ、その画業を支えるものであった。この作品が発表されたまさにその月に大政翼賛会が結成されるという世情不安の中で、ひたすら自然美とそこに生活する人々にむけられる画家のまなざしは、日本人への慰藉にみちている。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/79462)
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勤め人時代、通勤はいつも東京メトロ・東西線を利用していましたから、沿線には割合に親しみました。川合玉堂の作品を初めて見たのは、まだ山種美術館が茅場町にあった時期です。ぼくの学生時代に美術館は開館されたのですから、以来数十年、ぼくはいったいどれくらいここに通ったことになるのか。いつ行っても静かな雰囲気で、まるで一人で作品群に対面している、そんな雰囲気が好きでした。ここでは、ぼくは本当にたくさんの画家の仕事を観ることができました。玉堂も、かなりの回数、観ることができた。大観・御舟・鉄斎・土牛その他、もう数知れないたくさんの作品に出合ってきました。玉堂についていうなら、この美術館の創設者だった山崎種二氏が、玉堂と親交があり、彼の画業にも大きな尊敬を抱いていたのですから、この美術館にとって、ひとしお玉堂への愛着がわいたのでしたろう。
考えてみれば「伝説の相場師」だった人と日本画の大家が「肝胆相照らす」(ということだったかどうかわかりませんが)、そんな交友を結んでいたらしいのを、ぼくは、実に関心を持ってみていました。今ではこの美術館は渋谷に移転したそうで、それ以来ぼくは玉堂にもご無沙汰しています。(これはどこかで触れましたが、玉堂が京都に出て師事したのが幸野楳嶺とされています。その幸野氏の直系筋に当たる人(日本画家だった)に、ぼくは高校時代美術や書道を習ったので、なおさら、玉堂には親しみを持ちました。

音楽評論家だった吉田秀和さんは「音を記憶するのは難しい」という意味のことを言われていましたが、ぼくはそれと同じように、画(色彩)を記憶にとどめることはきわめて困難なことだと実感しています。実物を鑑賞した後で、何度も複製を見ることがあります。もちろんその反対も。そうなると、余計に「実物の色彩」が混乱するのです。いわずもがな、ぼくは絵画は「実物」に限るとか、音楽は「生(ライブ)でなければ」という気は少しもありません。あまり上等でないライブ演奏であるなら、優れた人の演奏によるレコードの方がはるかに得るものがあるでしょうし、画でも音楽でも、あるいはその他、時代の進行に合わせて進歩してきた技術によって生み出された「複製芸術作品」には、ぼくは大いに恩恵を被ってきたのでした。今だってそうです。
玉堂のような人の作品を「実物」で見る機会は、よほどでなければ得られるものではありません。だからその代用策として「複製」に頼るのですが、ぼくはそれでもじゅうぶんに堪能してきましたから、実物主義者にはならないでいられるのです。上に書いた時代、ぼくはしばしば日本橋の「丸善」に足を運び、たくさんの「複製画」「美術集」を贖(あがな)ったのでした。(ここには、「ブリジストン美術館」があり、西洋絵画をかなり観ることができました)時代は大いに変わり、今日では、ネットに挙げられている音楽や美術作品などを、いつでもゆっくりと、ぼくは楽しんでいます。静かに絵を眺め、音楽に浸る、わざわざ、人ごみにまぎれなければ得られない風景(雑踏)とはおよそ趣を異にしますが、それでも、ぼくは音楽や絵の深さや広がりを知ることができます。
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● 川合玉堂(かわいぎょくどう)(1873―1957)=日本画家。明治6年11月24日愛知県に生まれる。本名芳三郎。1887年(明治20)京都に出て望月玉泉(もちづきぎょくせん)に、ついで90年に幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事して四条派を学んだ。この年、第3回内国勧業博覧会に出品して褒状を受け、日本青年絵画協会、日本美術協会などでも受賞した。95年、第4回内国勧業博覧会で橋本雅邦(がほう)の『竜虎図』に感動し、翌年上京してその門に入った。1907年(明治40)の東京勧業博覧会に『二日月』を出品して注目を集め、四条派と狩野(かのう)派を巧みに融和させたその表現は多くの追従者を生んだ。またこの年開設された文展の審査員にあげられ、以後官展で活躍することになり、とくに16年(大正5)の第10回文展に出品した『行く春』は、穏和な筆致で自然のたたずまいを情趣豊かにとらえ、その地歩を不動のものにした。15年から36年(昭和11)まで東京美術学校教授。また長流塾を開いて門下を育てた。17年に帝室技芸員、19年に帝国美術院会員、37年には帝国芸術院会員となり、40年文化勲章を受章した。歌もよくし、歌集『多摩の草屋』がある。昭和32年6月30日没。晩年を過ごした東京青梅(おうめ)市御岳(みたけ)の旧居は、玉堂美術館(1961創設)として公開されている。(ニッポニカ)

● 山崎種二(やまざき-たねじ)(1893-1983)= 昭和時代の実業家。明治26年12月8日生まれ。米問屋につとめ,大正13年独立して山崎種二商店を設立。昭和8年証券業に進出し,19年山崎証券(現山種証券)に改称。また15年辰巳倉庫を買収,ヤマタネの基礎をきずいた。41年山種美術館を開設。昭和58年8月10日死去。89歳。群馬県出身。自伝に「そろばん」。【格言など】信は万事の本を為す(信条)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
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辺鄙な地に住んでいると、「何かと不便でしょう」と言われます。「いや、それほどでも…」と、一応は答えますが、「まだそんなことを言うの?」という思いがぼくにはあります。「便利は不便」ということを知らないから、便利と不便は正反対だと考えているのですから、ぼくにはじつに滑稽です。便利一辺倒はないし、まったく不便そのものだということもないのであって、便利は不便、悧巧は馬鹿の表裏だと、ぼくは実際に経験してきたのです。通信障害が起こらなければ「携帯」ほど便利なものはないといいますが、幸か不幸か、「通信障害はつきもの」で、だから「便利は不便」なんですね。携帯やスマホの使用量が無料なら、こんなにいいものはないでしょ、でも、そうは問屋が卸さないのさ。「山中にいては、文化の香りがしないでしょう」と、フザケタこと、妙なことを言う人もいるから、いささか呆(あき)れるのです。「文化(culture)」の原義(玄義)は「栽培」「耕作」です。ぼくの住んでいる山間地は栽培・耕作の宝庫であり、つまりは文化の縮図(そのもの)でもある土地です、ぼくはそれにくるまれて、「不便は便利」を満喫ならぬ、千喫しているのよ。イノシシだってシカだって、それにキョンもいればおサルもいる。すべてが「栽培」文化創造の先祖たちではないですか。

家の前はほぼ農道ですから、一日に何台の小型車が通るか。たまには宅急便の4トントラックも入ってきますが、ほとんどは拙宅に、ですから、文句は言えません。(最近、ようやく4メートルに拡幅しました。消防車や救急車が入れないからとの申請が住民から出たそうで、その住民はほんの数件でしかないのです)酷暑だ熱中症だといっている最中にも、拙宅ではクーラー(エアコン)も扇風機も使ったことがありません。これは「快適」といえるんじゃないですか。電気機器で、偽(いつわり)の快適空間を作って、文明化の先端などとのけぞっているうちに、豪雨や台風が来て、立ちどころに「原始生活」以下の常態・状態に突き落とされるのです。
川合玉堂の絵をして、「懐(なつ)かしい」という形容詞がよくつかわれてきました。その真意はどこにあるのか。今は失われてしまった「景色」「風景」「生活」「環境」などのことごとくが玉堂の絵筆によって「豊かに残されている」というのでしょうが、懐かしさの意味が違うのではないか。ぼくには彼の描いた「懐かしさ」は「心のふるさと」を指しているのであって、これは誰にとっても、田舎も昔も知らない人にだって「懐かしい」と感じさせてくれる、そんな風情こそが玉堂の真面目だったと、ぼくは一人合点しているのです。誰もが「心にふるさと」「心のふるさと」を内側に持っています。これが「自分自身の核」だといいたいほどです。すべてはそこから発し、そこに帰る、まるで港のような場所なんです。
このようにして、一人の画家を思い出していくと、ぼくの中に今なお息づいている「心のふるさと」が、目の前に広がってくるような錯覚に、喜んで浸ることができるのです。これが、ぼくの「絵を観る」楽しみの一つでもある。
本日は七月七日、「七夕の日」です。笹の葉が舞っているし、「戻り梅雨」のような霧雨も落ちてきました。これは「洒涙雨」なのかしら。どうか大雨になりませんように。五色の短冊は、そこにあるつもりで、なにがしかの、ささやかな願い事を書いて飾った(つもり)。世上は騒乱といっていいほどの乱雑・混雑の様相を呈しています。一人静かに「心のふるさと」に思いを寄せてみたいですね。それは「父母未生以前」の、純粋さをいささかも失っていない境涯でもあるのです。おれがおれが、私が私が、と自分をひときわ主張する気配がまったくありそうもない、無我の境地ともいうのです。「無私」といい「無我」という、そのさなかに、人は真っ正直な(偽りのない)自分をさらしているんですね。

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